閑話 さようなら、私を使い捨てた者たち
鉄の馬が地を走り、空を突くような石の塔がどこまでも立ち並ぶ、灰色に塗り潰された遠い世界での出来事である。
そこには、かつて一人の女がいた。名は、松瀬結衣。
彼女は、紙の上に並ぶ数字の正しさだけを信じ、己の存在を懸けて、身を削り、心を削り、ついには命の灯火さえも使い果たした。
連日の深夜勤務、栄養不足、そして終わりのない精神的搾取。限界を超えた彼女の肉体は、雨の降る夜、帰宅途中の駅のホームでついに終わりを迎えた。
人混みの中で朦朧とする意識。背後から誰かに押されたような衝撃を感じ、彼女の体は力なく線路へと落下した。遠くから迫る列車の轟音と、冷たい鉄の匂い。暗転していく視界の中で、彼女が最後に抱いた感情は、悲しみでも憎しみでもなく、『あぁ、また騙されたんだな。でも、これでやっと休めるんだ』という、あまりに寂しく、救いのない絶望だった。
だが、その魂が深い闇に沈みゆく寸前、彼女の前に後光を背負った慈悲深い神が現れた。
神は涙を流しながら、痩せこけた彼女の頬を優しく撫で、温かな声で語りかけた。
「可哀想に。松瀬結衣、貴女の魂はあまりに酷使され、他人に踏みにじられすぎました。あまりに善人すぎた貴女に、せめて次の人生では身を守るための力を授けましょう。次は二度と嘘に屈さぬよう、貴女に真実を与えましょう。この左目が、貴女を飾り立てた嘘から守る盾となるはず。誰にも、貴女の尊厳を二度と奪わせないために」
神の指先が左目に触れた瞬間、凍るような冷気が走り、彼女の魂に深く刻み込まれた。この慈悲こそが、彼女を新たな生へと導き、同時に、彼女を苦しめた者たちへの終わりのない罰の始まりとなったのである。
神は、彼女を新たな世界へと送り出した後、その場に留まる醜い寄生虫どもを見下ろした。その瞳には、慈しみではなく、一分の狂いも許さぬ厳格な光が宿っていた。
――善き者の心を食らい、その命の灯を吹き消した者たちよ。貴ぶべき誠実さを汚し、嘘を以て己を満たしたその報いを、今ここに確定させよう。これは怒りではなく、崩れた均衡を正すための清算である。永遠に、己が放った泥の中で、自らの不整合を呪うが良い――
【第一の清算:欲に溺れし裏切り者へ】
賑やかな街の中、贅を尽くした酒場の片隅。
かつて結衣の貯金をすべて奪い、夢を追うという嘘で彼女の生活を極限まで追い詰めた元カレと呼ばれた男は、今、絶叫を上げて床を転げ回っていた。
彼がまとっているのは、女が自分の食事を日に一度のうどんだけに切り詰め、肋骨が浮き出るほど痩せ細りながらも、彼のためにと買い与えた、手触りの良い高価な絹の服である。その指には、かつての恋人が食べたいものも、着たいものもすべて我慢して貯めたお金で買った、黄金の指輪が虚しく光っていた。
「な、何なんだ……! この臭いは、どこから湧いてきやがる!」
神の裁きの声が、彼の耳の奥底で雷鳴のように響いた。
――愛という嘘を餌に、善き者の生き血を啜った強欲な男よ。貴様は他人の清らかな蓄えを、自らのどろどろとした欲求を満たすためだけに浪費した。ならば、貴様の存在そのものを、見るに堪えぬ汚れへと変えよう。貴様が吐き出した嘘の数だけ、その身から腐った臭いを放ち、誰からも忌み嫌われるゴミ溜めとして生きるが良い。貴様が汚した愛の代償は、この消えぬ悪臭を以て支払え――
男が口を開くたび、毛穴という毛穴から、言葉にできないほどひどい腐った嵐が吹き荒れた。
それは、死んでから何ヶ月も経った獣の死骸を、真夏の太陽の下で煮詰めたような、凄まじい悪臭である。通りかかる人々は、十メートル先からでも顔を青ざめて逃げ出し、店の主人は汚物でも払うかのように彼を追い払う。
男は自分の肌を血が出るまでかきむしり、街の水道で何度も何度も、凍るような水を被った。
だが、その臭いは骨の髄から、魂の奥底から溢れてくるもの。どれほど強い薬で洗おうとも、どれほど高価な香水を浴びようとも、臭いはさらに色濃く、さらに毒々しくその身を包み込む。
彼は、かつて女から奪った金で手に入れた衣服を、自分の放つ不快な臭いによって汚され、最後にはすべてを脱ぎ捨てるしかなかった。光溢れる街の中で、彼は誰からも触れられず、誰からも見向きもされず、ただ歩くゴミ溜めとして、一生を暗い路地裏で過ごすことになった。自らの吐く息の臭さに、一分一秒、吐き気をこらえ続けながら。他人の善意を汚したその代償は、自分自身が世界で最も汚らしい存在になるという、終わりのない罰となったのである。
【第二の清算:心を殺した支配者へ】
一方、高くそびえる石の塔の奥深く、窓のない豪華な部屋。
『君だけが頼りだ』という甘い嘘を囁き、結衣を死の淵まで働かせたブラック企業の上司は、自分の重厚な机の上で、奇妙な出来事に震えていた。
彼は、女が駅のホームで力尽きたことなど気に留めず、その犠牲によって得た利益を数え、自分の出世を祝っていたのである。
「……見えん。何も、見えんのだ」
そのとき、神の峻厳な言葉が、彼の逃げ場のない脳内に直接書き込まれた。
――味方を装い、忠誠心を盾に一人の人間を使い潰した傲慢な者よ。貴様は他人の人生から色彩を奪い、その未来を灰色の絶望で塗り潰した。ならば、貴様自身の世界からも、すべての光と喜びを没収しよう。貴様がどれほど富を積み上げようとも、それを享受する資格はない。貴様が犠牲にした命の重さを、永遠に続く灰色の虚無の中で、一分一秒噛み締めるが良い――
彼の目に入るすべてのものが、結衣が最後の瞬間に見た、あの絶望的な灰色の闇へと塗りつぶされてしまった。
権力を示す壁の美しい絵画も、窓の外に広がるはずの燃えるような夕焼けも。
彼の瞳に映るものは、すべてが色彩を失い、死人のような灰色へと変わった。
それだけではない。彼がどれほど最高級の肉を食らおうとも、それはただの乾いた砂のような味しかしなくなった。
彼がどれほど部下を怒鳴りつけ、自分の力を誇示しようとも、その耳に届くのは、虚しい風の音だけ。
『おい、何をしている!答えろ!わしを敬え!』と叫んでも、部下たちの顔は灰色の石像のようにしか見えず、その本当の気持ちを聞き取ることもできない。
彼は、自分が作り出した終わりのない孤独の中に、一人きりで取り残された。
かつて一人の女の心をボロボロにし、生きるための気力さえも奪い去った報いである。彼は、生きながらにして色彩も喜びも存在しない死後の世界をさまよう、影のような存在へと成り果てたのである。
【第三の清算:真心を売った虚飾者へ】
そして、最後の一人。
親切な顔をして嘘を吐き、結衣に過酷な荷を押し付けて自分だけ楽をした知人と呼ばれた者。
その者に下されたのは、さらに冷たく、逃げ場のない罰であった。
「ねえ、聞いてる? わたしの話、聞いてるの!?」
彼女の頭上に、神の静かな、しかし重い宣告が下った。
――自らの平穏のために、友の誠実さを踏み台にした卑怯な者よ。貴様は一人の人間を、使い勝手の良い道具として扱い、その存在の尊厳を黙殺した。ならば、世界もまた貴様を黙殺しよう。貴様がどれほど叫び、己を飾り立てようとも、その声は誰にも届かず、その姿は誰の瞳にも映らない。貴様が他人の存在を無視した報いは、貴様自身が世界から抹消される孤独を以て完結する――
店に入って注文をしようとしても、店主は彼女に気付かず、別のお客の相手を始める。家に帰り、家族の輪に入ろうとしても、彼らは彼女がそこにいないかのように、淡々と食事を続け、彼女の分の皿すら用意されない。
彼女がかつて、一人の女のまごころを便利な道具として扱い、その存在を軽く見た代償。それは、世界という大きな帳簿から、彼女という名前が完全に消し去られることだった。
彼女は、誰にも触れられず、誰の記憶にも残らず。声は空を切り、手は虚無を掴む。ただ、透明な壁に囲まれた世界で、一生をかけて自分の虚しさを噛みしめることになった。自分の言葉が誰にも届かない恐怖は、かつて彼女が結衣に押し付けた誰にも理解されない孤独そのものであった。
異界の地で、かつて一人の女を食い物にした寄生虫どもは、こうして一人残らず、神が定めた清算の計算式に従い、自らの犯した罪の重さにふさわしい地獄へと突き落とされた。
その事実に、今の彼女が気付くことはない。だが、この世の決まりは、常に正しい答えを導き出すものである。他人から奪った者は、それ以上のものを失い。他人を汚した者は、自分自身が最も汚らしい存在となる。
目に見えない神々の手による、一分の狂いもない清算。それは、かつて『騙されたんだな』と絶望して死んだ彼女への、時を超えた正しい裁きでもあった。
アデレイド伯爵家の庭園で、新たな生を受けた彼女が、神から授かった左目で嘘を見抜き、かつての寄生虫と同じ言葉を吐く王子を切り捨てたその時。前の世界に残された汚れもまた、完全に洗い流されたのである。
これは、ただの復讐ではない。数字の裏側に隠された真実を暴く力が、時空を超えて悪しき帳簿を正した証なのだ。一人の少女として、そして王国の家計を司る者として歩み出した彼女の行く末に、もはや寄生虫たちの入る余地はない。
祝祭の鐘が、今、此方の世界でも鳴り響こうとしているのであった。
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