第044話 牙を剥いた番犬への恐怖は消えず、震える膝で差し出すは謝罪という名の白旗ですわ
祝祭の浮かれた喧騒が窓の外で遠く、波の音のように鳴り響く中、石造りの学び舎の片隅にある特進クラスの休憩室には、外の熱気が嘘のような、重苦しく、そしてひりつくような沈黙が立ちこめていた。
私は、エルメリンダが丁寧に淹れてくれた温かなお茶を一口だけすすり、手元の小さな帳簿に今日の出来事を整理していた。ペン先が紙の上を滑る微かな音だけが、部屋の中に冷たく響く。その規則正しい音を、誰かが扉の外で、己の鼓動が止まるのを待つ死刑囚のように怯えながら聞いている気配がした。
不意に、部屋の扉が、壊れ物に触れるような遠慮がちな音で叩かれた。
「……し、失礼いたしますわ」
蚊の鳴くような、今にも消え入りそうな細い声と共に現れたのは、数刻前まで私を『財務局の番犬』と指差し、下卑た笑いを浮かべていたあの他学部の令嬢たちであった。
彼女たちが纏う色とりどりのドレスは、激しい心の動揺を映し出すかのようにあちこちが乱れ、その瞳からは先ほどの傲慢な輝きは欠片も消え失せている。彼女たちは部屋の入り口で、まるで目に見えない檻に閉じ込められたかのように固まったまま、私の視線を恐れるようにして深く、深く頭を下げた。その姿は、先ほどまでの”高貴な園の住人”とは程遠い、ただの怯えた小動物のようであった。
「セレスティーナ様……。先ほどは、その、あまりにも大きな無礼をいたしましたわ。貴女様がどれほどこの国のために心を砕き、働いておられるかも知らず、あのような汚れた言葉を投げつけてしまったこと、心の底からお詫び申し上げます」
先頭に立つ令嬢の声は、目に見えて震え、言葉が途切れるたびに喉が鳴るのがこちらまで聞こえてくる。
私の左目が捉えた彼女たちの【本音】は、もはや嫉妬や蔑みなどではなく、純粋な、そして底知れぬ「恐怖」という名の黒い絵の具で塗り潰されていた。
【あぁ、なんてことをしてしまったのかしら。先ほど急いで家に連絡をしたら、お父様が真っ青になって、本当に我が家の帳簿は穴だらけで、今すぐ監査が入れば明日には屋敷を追い出されると言われてしまったわ。この女、あの鋭い瞳で、わたくしたちが隠していたすべてを見通していたのね。もしこの場で許してもらえなければ、わたくしの人生は本当におしまいだわ……!】
鼻を突くのは、もはや高価な香水の甘い匂いではない。自らの保身のために必死で絞り出した、冷や汗と後悔の混じった湿り気のある生々しい空気だ。
私はペンを置き、彼女たちの震える手元をじっと、射抜くような眼差しで見据えた。その視線だけで、彼女たちがさらに一歩後退りし、膝がぶつかり合う音を立てる。
「謝罪、ですわね。……ですが、皆様。私が先ほど皆様に申し上げたのは、単なる脅しでも、一時的な怒りによる反論でもございません。ただの事実を、数字という名の曇らぬ鏡に映して差し上げただけのこと」
私の静かな、けれど逃げ場のない声に、彼女たちはビクリと大きく肩を揺らす。
「貴女方のお家が、国からの恩恵を十分に享受しながら、その代償である義務を疎かにしているという事実は、謝罪一つで消える帳簿の汚れではございませんわ。私が番犬として牙を剥くのは、主人の財を盗もうとする賊に対してのみ。……さて、皆様。貴女方はこれからも、わたくしの愛する主である『この国』の富を食い潰す、寄生虫のままでいられるおつもりかしら?」
「いいえ! とんでもございません! すぐに、すぐに父に話し、遅れていた分は家にあるすべての宝を売ってでも、倍にして納めさせますわ! ですから、どうか、どうか特別監査だけはご容赦くださいませ! お家が取り潰されてしまえば、わたくしたちは……!」
令嬢たちは、もはや貴族としての体面など泥の中に投げ捨て、私に縋り付くような勢いで叫んだ。
その光景を、私の隣でじっと見ていたエルメリンダが、少しだけ複雑そうな顔でゆっくりと口を開く。
「セレスティーナ。彼女たちも、ようやく自分の犯した過ちの大きさに気づいたようですわ。わたくしの大切な親友を、あのような言葉で傷つけた罪は万死に値しますけれど……。こうして誇りすら捨てて戻ってきたのですもの。一度だけ、計算をやり直す機会を与えてあげてもよろしいのではないかしら?」
エルメリンダの優しさは、時として甘すぎることもある。けれど、その甘さこそが、今の私の、数字だけで冷え切った心には何よりも必要な毒消しであった。彼女の温かな眼差しが、部屋の中の刺すような空気を、わずかに和らげてくれる。
私は小さく溜息をつき、書きかけの帳簿をパタンと閉じた。その音に、彼女たちは処刑の宣告でも受けたかのように震え上がった。
「……エルメリンダがそのようにおっしゃるなら、今回の特別監査は見送ることにいたしましょう。ですが、皆様。次にわたくしの前で『番犬』という言葉を口にする時は、それが貴女方の贅沢な生活を、そしてこの国の平穏を守るための盾であることを、決して忘れぬようになさいな。もしまた、わたくしの友人たちの心を、その汚れた足で土足に汚すような真似をすれば……」
私はあえて言葉を切り、彼女たちのすぐ近くまで歩み寄ると、その耳元に、すべてを凍りつかせるような低い声を落とし込んだ。
「その時は、謝罪の言葉など聞きはしませんわ。貴女方のお家のすべての持ち物を記した目録を持ってきていただきます。銅貨一文の誤差もなく、すべてを国庫へ戻し、貴女方を一晩で路頭に迷わせて差し上げますから。……よろしくて?」
「ひっ……は、はい! 一生、肝に銘じますわ!」
令嬢たちは、今度こそ恐ろしい魔物に追いかけられるかのような勢いで、部屋を飛び出していった。廊下を走る足音が遠ざかり、再び部屋に静寂が戻ると、エルメリンダの柔らかな笑い声が鈴の音のように響く。
「うふふっ。セレスティーナ、やっぱり貴女は世界で一番格好いいわ! あの傲慢な方たちが、あんなに大人しくなって震える姿。わたくし、また貴女に惚れ直してしまいましたわ!」
「……惚れ直すだなんて、変なことをおっしゃらないで。わたくしはただ、自分の仕事を一つ、銅貨一枚の狂いもなく片付けただけですわよ」
照れ隠しに、冷めかけたお茶をぐいと飲み干すと、部屋の入り口でずっと腕を組んで、この一部始終を眺めていたレナート殿下が、肩を揺らして笑いながら入ってきた。
「いやはや、実に見事な大掃除だったな、セレスティーナ。あやつら、今頃は屋敷に帰って、親の帳簿をひっくり返して泣きべそをかきながら、金貨の勘定をしているだろうよ。……君がこうして牙を剥くたびに、この国の膿が一つ、また一つと消えていく。私はそれが、愉快で、そして頼もしくてたまらないのだ」
殿下の【本音】は、私の強さを楽しむような、無邪気でありながらもどこか恐ろしい熱情に満ちていた。そしてその奥底には、一瞬だけ、独占欲にも似た鋭く、暗い光が帯びていたのを、私の左目は見逃さなかった。
【やはり、君を財務局の奥底に閉じ込めておくのは間違いだったな。この輝き、この鋭さ。すべてを私の手の届く場所で、私のためだけに振るわせたいものだ。誰にも、この刃に触れさせたくはない】
……計算外の熱。
友人たちの愛しすぎるほど真っ直ぐな想いと、殿下の捉えどころのない底知れぬ情熱。
それらが混ざり合い、渦巻くこの祝祭の夜は、私の冷静なはずの算盤を、今もなお狂わせ続けていた。
けれど、その計算できない誤差さえも、今の私には、どこか心地よい音楽のように感じられていた。
私は窓の外を見やった。打ち上がる火花は、人々の願いや喜びを乗せて空に散っていく。
かつて私にとって、数字以外のものはすべて無意味な雑音に過ぎなかった。
他人の感情も、季節の移ろいも、喉を潤すお茶の味でさえも、帳簿の端に書かれた汚れと同じ。
だが、今の私の胸にあるこの熱い鼓動は、一体どのような数式で説明できるというのだろう。
エルメリンダが私の腕を抱きしめ、殿下が満足げに私を見守る。
この光り輝く青春の情景こそが、私が一生をかけて守るべき国の財産そのものではないか。
番犬は、ただ財産を守るのではない。
守るべき大切な笑顔があるからこそ、その牙を研ぎ続けるのだ。
私は、自分の持つ数字の力が、誰かの幸せを紡ぐための糸になることを、この祝祭の夜に初めて知ったのであった。
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