第040話 祝祭を切り裂く緊急公文書は、ドレスの裾を揺らす官吏の冷徹なる覚醒で構成されていますわ
広場に満ちていたのは、甘いお菓子の香りと、私に向けられた熱を帯びた沈黙。
エルメリンダの手に引かれ、生まれて初めて纏った絹のドレスは、歩くたびに微かな音を立て、私の心を慣れない浮遊感で満たしていた。
レナート殿下の熱い眼差しを真正面から受け、私は十四歳の一人の少女として、その『無駄』で満たされた時間の尊さに酔いしれようとしていたのだ。
それは、数字と論理の檻に自らを閉じ込めてきた私にとって、生まれて初めて許された、あたたかな春の陽だまりのようなひとときだった。
けれど、その魔法を無残に打ち破ったのは、お祭りの笛の音でも、人々の歓声でもなかった。
「セレスティーナ様! 財務局次席、セレスティーナ・アデレイド様はいらっしゃいますか!」
人混みの向こう側から、祝祭の浮かれた空気を力任せに押し通るような、切迫した声が響いた。
現れたのは、私の直属の部下である財務局の官吏だ。
彼は息を切らし、額に汗を浮かべたまま、私の前に跪いた。その手には、王宮の財務局金庫にのみ保管されているはずの、特別な公文書が握られていた。
それは、私が学園祭へ向かう前、万が一の事態に備えて日付を空欄のまま署名し、厳重に封印して預けておいた『即時監査執行命令』であった。
「……それを持ってきたということは、私が不在の間に、王宮の監視網が『最上級の警告』を発したということかしら?」
私が発したその一言に、周囲の学生たちは困惑し、ざわめきの声を漏らした。
目の前に立つドレス姿の少女が、わずか七歳にして、この国の第一王子の首を実質的に跳ね飛ばした『あの惨劇』の主役であることを。
七歳の春。私は当時、財務局の片隅で埃にまみれた帳簿をめくる、風変わりな子供でしかなかった。
当時の王国は、腐敗した高官たちによる架空の対外債務の積み増しによって、国家破産という奈落の縁に立っていたのだ。
私は、誰もが見落としていた数字の歪みを愛用の算盤ひとつで暴き出し、一人で国王陛下の御前に乗り込んだ。
「王位継承権という名の最大級の資産価値を、自らの愚かさで暴落させた自業自得」
私が言い放ったその断罪と共に、第一王子ヴィンセントは地位を剥奪され、第二妃は幽閉、クリムゾン商会は全財産を没収され極刑に処された。
『奴らの呼吸さえも、国家への負債として計上せよ!』という王の命を、文字通り銅貨一枚の狂いもなく執行し、破綻寸前の国庫を救ったその功績。
あの日、謁見の間に響いた私の算盤の音は、腐り果てた宮廷を浄化する鐘の音となった。
その日から、私は財務局の番犬となり、十四歳の今、大臣さえも震え上がらせる即時監査という、王族にさえ刃を向ける絶対的な権限をその手に収めているのだ。
部下が差し出した、私自身の署名が重々しく記された公文書。その余白には、今しがた部下の手で書き込まれた今日の日付と、異常が検知された項目が並んでいた。
それは、私が不在の間、重大な異常を検知したことを告げていた。
「申し訳ありません! ですが、これは一刻を争います。国庫支出の三割を占める地方開発費に、銅貨一枚の誤差では済まされない巨大な空白が見つかりました……! 財務局本部に残った者たちだけでは、これ以上の追跡が不可能なのです!」
その言葉が耳に届いた瞬間、私の周囲からお祭りの光が消え失せた。
エルメリンダの温かな手のひらも、レナート殿下の情熱的な眼差しも、今の私にとっては遠い世界の出来事。
私の指は、吸い寄せられるようにその公文書へと伸び、赤蝋の封印を解いた。
薄い紙が擦れる音が、祝祭の喧騒を切り裂いて私の鼓膜を叩く。
「待ちなさい、セレスティーナ! 今はせっかくのお祭りなのに……!」
エルメリンダが悲しげな声を上げたが、私はそれに答えることはなかった。
ドレスの長い裾を無造作に捌き、石畳の上に膝を突くようにして、私は広げた書面を食い入るように見つめる。
眼鏡のない瞳には、数字の羅列が、戦場を駆ける兵士たちの足跡のように映し出された。
「……これは、地方官たちが結託した大規模な横領ですわね。建設資材の単価を偽装し、その差額を隠し口座へ流している。巧妙ですが、私の網からは逃れられませんわ。七年前、第一王子の継承権を担保に国庫を埋めた私の恐ろしさを、もう忘れてしまったのかしら。わたくしの算盤が、また血の音を奏でたがっているようですわ」
私は顔を上げた。そこにいたのは、鏡の前で自分の姿に当惑していた、か弱い少女ではない。
国の帳簿を人質に、すべての権力を跪かせる財務局の死神としての私がそこに立っていた。
「殿下、お許しください。国を蝕むシロアリたちが、祝祭の影で私腹を肥やそうとしているのを黙って見過ごすほど、私の心は広くありませんの。このドレスの代金も、このお祭りの費用も、すべては私が守り抜いた民の血と汗。それを汚す者は、銅貨一枚の誤差もなく、その命で支払っていただきます。わたくしを誰だと思っておいでですか!?」
私はドレスの裾を強く握りしめ、部下に向かって鋭い指示を飛ばす。十四歳の少女の体躯から放たれる圧倒的な威圧感に、周囲の空気が物理的な重さを伴って軋む。
「今すぐ王宮の書庫を全開放なさい。この署名済みの命令書をもって、地方開発局の全役人を即刻拘束。全資産を一時凍結なさい。抵抗する者がいれば、私の直権で叛逆罪として処理します。今夜中に、その隠し口座の底まで暴いて差し上げますわ。わたくしのたった一度の青春を邪魔した代償は、高くつくことを教えて差し上げなさい。銅貨一枚の横領も、私の前では許されないわ」
「は、はい! 直ちに!」
部下が走り去る。周囲の若者たちは、ドレス姿のまま、国家の存亡を左右する指示を平然と下す私の姿に、先ほどまでの見惚れるような眼差しとは違う、本物の畏怖を抱いて立ち尽くしていた。
【なんてことだ。あんなに美しく着飾っていても、中身はやはり、あの財務局の化け物……いや、七歳にして王子の地位を葬ったあの死神だった。あんな恐ろしい女、とてもではないが近づけない。だが、その苛烈さが、恐ろしいほどに美しい】
周囲の【本音】が、熱狂から凍りつくような崇拝へと変わっていく。
「……セレスティーナ、本当に行ってしまうのですか? ようやく、貴女と笑い合えると思ったのに……」
エルメリンダが、震える声で私の袖を掴む。
私は、彼女の手を優しく、けれど断固とした力で解いた。
「エルメリンダ。貴女が明日も笑える国を守るために、わたくしにはこの職務が必要なのです。貴女の友情に対する答えは、賊たちを命懸けで支払わせることで証明いたしますわ。わたくしは、今、戦わねばならないのです」
私はレナート殿下に向かって、深く、淑女の礼をした。ドレスを纏った今の私には、騎士の敬礼よりも、この優雅な一礼の方が、より残酷な拒絶として響くだろう。
「殿下、祝祭の続きを楽しみになさってください。わたくしが明日までにこの国の膿をすべて絞り出しておきますわ」
殿下の【本音】は、深い感嘆に変わっていた。
【見事だ。美しき花でありながら、国を喰らう獣さえも食い殺す、最強の番犬。行け、セレスティーナ。其方の勝利を、俺は確信している。そして、其方の仕事が終われば、次は俺が其方を逃がさぬ】
私は、一度も振り返ることなく、広場を後にした。
絹のドレスが風を孕み、私の足元で激しく暴れる。不慣れな靴の音は、石畳を叩くたびに、不正を許さぬ断罪の調べとなって夜の空気に響き渡った。
鉄の乙女が、再び鎧を纏う。
けれど、その鎧の下には、今日一日だけ感じた、親友の熱き掌と、甘すぎるお菓子の味が、消えない種火となって宿っていた。
「……さて。銅貨一枚の誤差も、私の目からは逃がしませんわよ。七年前と同じように、徹底的に洗って差し上げますわ。わたくしの孤独な戦いを邪魔した報い、高くつきますわよ?」
月光の下、銀髪を翻して夜を駆ける。
それは、どんな祝祭よりも苛烈で、どんな円舞曲よりも美しい、絶対的な権限を持つ十四歳の番犬の、孤独なる断罪の始まりであった。
馬車へ飛び乗り、私は既に脳内で、犯人たちの逃げ道をすべて塞ぐための方程式を完成させていた。
セレスティーナ・アデレイド。
十四歳の祝祭。
私の算盤が奏でる新たな旋律は、まだ始まったばかりなのだ。
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