第036話 孤児院の予算を削ろうとする監査官を未来の利益で黙らせる知略は快感の極みですわ
財務局の会議室は、外の木々を枯らす北風よりも厳しく、凍りついた沈黙に支配されていた。
私の目の前に座るのは、新たに監査官として着任した男、オズワルドだ。
彼は、まるで血の通っていない石像のような顔で、脂ぎった指を使って厚い書類の束を机に叩きつけた。その鈍い音は、まるで誰かの処刑を宣告する鐘の音のように重苦しく部屋に響いた。
彼が提出したのは『冬の緊急財政健全化計画』。
その表紙に踊る文字の裏側には、血も涙もない効率至上主義が、黒い毒のように塗り込められている。
「セレスティーナ執務官。無駄を省くのが君の役目だと聞いている。この王都の孤児院への支援金……これこそが、真っ先に削るべき『死に金』だと思わないかね。国庫は慈善団体の財布ではないのだよ」
オズワルドの言葉に、隣にいたレナート殿下が、耐えかねたように椅子を蹴る勢いで立ち上がった。その拍子に、卓上の銀の燭台が危うく倒れそうになる。
「待て、オズワルド監査官! あそこの子供たちは、この冬を越すための薪も、温かい粥も満足に足りていないのだぞ。支援を打ち切れば、彼らは凍えた路地裏で命を落とすことになる。王族として、人として、そのような野蛮な行いは断じて許せることではない!」
殿下の激しい怒りは、正義感に溢れた気高いものだった。しかし、オズワルドは眉一つ動かさず、眼鏡の奥にある針のように細い目を光らせた。
「殿下、感情で国の蔵を空にするわけには参りません。あのような身寄りのない子供たちに金を投じても、国家に一銭の利益も生まれない。ただ食わせ、ただ寝かせる。それは農業の肥料にもならない、単なる損失でしかないのです。無能な弱者に割く余裕など、今の王国には一ゴールドも存在しないのですよ」
【その通りだ。腹を空かせた餓鬼の泣き声など、帳簿には一文字も載らん。未来に何の得もない塵屑に、血税を分けるなど愚か者のすることだ。殿下もセレスティーナも、平和ボケした甘い夢を見ているに過ぎん。私がこの国から無駄な肉を削ぎ落としてやるわ】
オズワルドの心の声が、どす黒い霧となって私の視界に流れ込んでくる。あまりの醜悪さに、私は胸の内に冷たい火が灯るのを感じた。
私は、震える拳を握りしめている殿下の袖を、静かに、しかし抗いようのない力強さで引いた。
「殿下、お下がりください。感情のぶつけ合いでは、この男の凝り固まった思考を動かすことはできませんわ。……私にお任せいただけますかしら」
「だが、セレスティーナ! 君まであの子たちを数字のゴミとして見捨てるというのか!?」
私は殿下の悲痛な問いには答えず、ゆっくりと椅子を引いて立ち上がった。
そして、部屋の隅にある、大きな黒い板の前へと歩み寄る。手にした白いチョークは、私の指先で硬く、冷たい感触を伝えてきた。
私はオズワルドを一瞥もせず、真っ黒な板に、激しい雨音のような音を立てて数式を書き込み始めた。
「オズワルド監査官。貴方は先ほど、孤児院への支援を”損失”とおっしゃいましたわね。……では、数字でその浅はかな間違いを証明して差し上げますわ。貴方の仰る効率が、いかに非効率なものであるかを」
私はチョークを走らせる。
まず書き出したのは、孤児たちが十分な教育を受け、職人や兵士として自立した際に、その生涯を通じて王国に納めることになる”推定納税額”の最小期待値。
次に、彼らが教育を受けずに路上へ放り出され、飢えから罪を犯した際に必要となる”治安維持費”や”裁判費用”、さらには”牢獄の運営コスト”。
さらに、彼らが技術を持つ国民として消費活動を行うことで生まれる”市場の活性化指数”。
それら全ての変数を、三十年後の価値に換算した驚異的な数式が、黒い板を埋め尽くしていく。
「いいですか。今、孤児院に投じる一万ゴールドは、二十年後には正確に十五倍の価値となって国庫へ戻ってきますわ。逆に、今この支援を惜しめば、将来の王国は三十万ゴールドを超える目に見えない負債を抱えることになります。……これは、慈悲の心で行う施しではありませんわ。三十年後の王国の金庫を、最も効率よく肥やすための、確実な投資なのですわ」
私は手に持ったチョークが粉々に折れるほど強く、最後の答えを力強く囲った。
会議室の空気は、先ほどとは違う種類の、息もできないほどの重苦しさに包まれた。
オズワルドは、私が書き出した完璧な論理の鎖から目を逸らすことができず、喉を不快な音で鳴らした。
「こ、これは……。しかし、子供が全員まともに育つ保証などどこにある。途中で死ぬかもしれんし、役立たずになるかもしれん……!」
「そのための教育予算と管理費ですわ。無知な人間を野放しにするのはただの損失ですが、技能を持つ国民を育てるのは国家の資産管理そのものです。貴方の計画は、目先の小銭を拾うために、将来の金山を自ら爆破しようとしているようなものですわ。監査官、貴方の目はただの飾りなのですか? これほど明確な利益が見えないのであれば、その椅子に座り続けることは、国家に対する最大の裏切りですわね」
私は、凍りついたような冷たい視線で、彼を真っ向から射抜いた。
オズワルドの額から、耐えきれないほどの脂汗が滲み落ち、床に染みを作った。
【何という恐ろしい娘だ。子供の笑顔など一銭にもならないと思っていたが……。彼女の示す数字には、反論の余地が一切ない。未来の繁栄を、これほど厳しく論理的に証明してみせるとは! 私の出してきた計画が、まるで無知な子供の落書きに見えてしまう……】
彼の歪んだプライドが、音を立てて崩れ去るのが分かった。
オズワルドは震える手で書類を掻き集めると、椅子から転げ落ちるようにして立ち上がり、一度も振り返ることなく部屋を逃げ出した。
静寂が戻った部屋で、レナート殿下が深い、深い溜息をつきながら、私に歩み寄ってきた。
「……驚いたよ、セレスティーナ。君は、あの子たちの命を、あんな風に数字という名の盾で守ってみせるのだね。僕の剣よりも、ずっと鋭く、確実な守りだ」
殿下の瞳には、深い敬意と共に、私に対する新たな種類の熱い光が宿っていた。
【君は、僕が持っていない本当の強さを持っている。情けに流されているように見せて、その実、誰よりも確実に未来を救っているんだ。君が隣にいてくれるなら、僕はどんなに困難な道も迷わずに進める。君こそが、この国に光をもたらす、真の女王になるべき人だ】
殿下の真っ直ぐな本音が、私の胸を熱く焦がす。私は、粉で真っ白になった指先を隠すように扇を握り、小さく首を振った。
「私はただ、計算間違いが嫌いなだけですわ、殿下。子供たちが飢えて死ぬような計算式を許しては、私の帳簿が汚れてしまいますもの」
そこへ、廊下で聞き耳を立てていたらしいエルメリンダが、扉を勢いよく開けて飛び込んできた。
「セレスティーナ! わたくし、感動いたしましたわ! あんなに難しい数字を並べて、あのおじ様の意地悪を撥ね退けてしまうなんて、流流石ですわ! さあ、あの子たちに温かいスープと毛布を届ける準備をいたしましょう!」
エルメリンダは私の手をとり、ぶんぶんと振り回して喜んだ。彼女の体温が、冷え切った私の指先に伝わってくる。
私は、彼女の明るい笑顔を見つめながら、心の中で密かに付け足した。
(……この笑顔の価値だけは、流石の私にも、まだ正確な数値が出せませんわね。それは、どんな金の山よりも尊い、計算不能な宝物ですわ)
窓の外では、細かな雪が舞い始めていた。
しかし、私の心の中には、冬の寒さを撥ね退けるような、確かな未来の熱が灯っていた。
私は再び机に向かい、ペンを執る。
この国の全ての子供たちが、未来の主役として、誇り高く笑える日のために。
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