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搾取令嬢は二度と騙されない ~嘘を見抜く左目で、すべてを取り戻します~  作者: 第三ひよこ丸


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第035話 社交界の毒蛇を笑顔で捌く親友の扇には、家門を滅ぼす数字が踊りますわ

 財務局の執務室を包む空気は、あの強欲な大臣が去った後もなお、冬の朝の泉のように鋭く研ぎ澄まされている。

 私は、今宵の戦いに出るための特別なドレスに身を包みながら、鏡に映る自分を真っ直ぐに見つめていた。

 普段の堅い執務服ではなく、緻密な計算によって選ばれた淡い銀色のドレス。それは、私がいまから向かう社交界という名の戦場において、敵の油断を誘うための飾りに過ぎない。

 私はゆっくりと絹の手袋をはめ、指先の感覚を確かめる。羽ペンを握る時と同じように、私の指はすでに、これから暴くべき悪意の形をなぞっていた。

 机の上には、まだ書き終えたばかりの数票が並んでいる。それは今夜、会場に集う貴族たちの命運を分ける数字の羅列だ。


 「セレスティーナ、準備はよろしいかしら? あまりに美しくて、わたくし、隣に並ぶのが誇らしいですわ!」


 背後から駆け寄ってきたのは、夜の闇を溶かし込んだような深い紺色のドレスを纏ったエルメリンダだ。

 彼女は私の手を取り、その温もりを分かつように力強く握りしめた。

 彼女の瞳には、不安など微塵もない。あるのは、私への絶対的な信頼と、悪を挫こうとする純粋な正義感だけだ。


 「ええ、行きましょう。エルメリンダ、私の背中は貴女に預けますわ。軍部の残党たちは、牙を抜かれた腹いせに、今宵の夜会を恨みの吐き溜めにするつもりでしょうから」


 私は扇を手に取る。その骨の間には、私が昨晩、一睡もせずに書き留めた、主要な家門の『隠し借金』と『不正な金の流れ』の記録が潜んでいる。


【セレスティーナ、貴女がどれほど無理をしてこの場所へ立とうとしているか、わたくしには分かります。貴女は数字で国を守り、わたくしはその貴女を悪意から守る。今宵、誰一人として貴女に無礼な口を利かせたりしませんわ! わたくしが、貴女の笑顔を奪う者たちを全て追い払ってみせます!】


 親友の本音が、私の胸の奥を静かに叩く。

 私は彼女の手を握り返し、何も言わずに頷いた。言葉にする必要はなかった。私たちの間には、どんな数式よりも強固な絆が既に成立しているのだから。



――――

 王宮の別館へと続く廊下には、既に集まった貴族たちの濁った話し声が不気味に響いていた。

 重厚な扉が開かれ、広間に入った瞬間、目が眩むほどの光が飛び込んでくる。何百もの蝋燭が揺らめき、床の大理石には贅を尽くした意匠が彫り込まれている。

 しかし、その煌びやかな光の裏側には、出口のない泥沼のような敵意が渦巻いていた。

 私たちが足を踏み入れた瞬間、会場の騒めきがピタリと止まった。まるで冷たい水が注がれたかのように、場の熱が引き、突き刺さるような視線が私へと集中する。


 「あら、財務局の『歩く計算機』殿ではありませんか。このような華やかな場に、埃っぽい数字の匂いを持ち込まれるとは、品がありませんわね」


 扇で口元を隠しながら、ゆったりとした歩調で近づいてきたのは、マイセル伯爵夫人だった。

 軍部への軍服納入を独占し、私服を肥やしてきた女だ。

 彼女の周囲には、失脚した大臣の甘い汁を吸っていた貴婦人たちが、獲物を囲む猛獣のような卑しい笑みを浮かべて立ち塞がっている。


 「ご機嫌よう、マイセル夫人。私がここにいるのは、陛下からお預かりしている国のお金の『余計な使い道』が、この会場のどこかに紛れ込んでいないかを確認するためですわ。無駄な支出は、国の病そのものですから」


 私の迷いのない言葉に、夫人の整えられた眉が不快げに跳ね上がった。


 「使い道? ふん、相変わらず可愛げのない小娘だこと。殿下の好意を盾にして、他人の家の家計にまで首を突っ込むのはおよしなさい。身の程を知らない者は、いずれ自分の重みで足元から崩れるものですわよ。貴女のその生意気な口が、いつまで動いていられるかしら」


【そうだわ。軍部が力を失った今、この小娘さえ追い出せれば、また以前のように帳簿を書き換えて贅沢ができる。ここで恥をかかせて、二度と人前に出られないようにしてやるわ! 私たちの特権を汚すこの女を、社交界から抹殺してやる!】


 夫人のどす黒い本音が、私の視界に鮮明に浮かび上がる。

 それは、あまりに浅はかで、救いようのないほど醜い欲だった。

 私は、彼女が今身につけている真珠の連が、何人分の兵士の命を削って購われたものかを知っている。

 私は隣のエルメリンダに視線を送った。彼女は全てを察したように、一瞬で、会場の誰よりも明るく輝くような満開の笑顔を作り、一歩前へ出た。


 「まあ、マイセル夫人! その素晴らしい首飾り、昨年マイセル家がどうしても足りないと言い張った兵士たちの冬服代の金額、正確に七万二千ゴールドと、ちょうど同じくらいの価値があるように見えますわ。数字の動きを逃さないセレスティーナがそうおっしゃるのですから、間違いありませんわよね?」


 広間の空気が、一瞬で凍りついた。音楽さえも止まったかのような錯覚を覚えるほどの静まり。

 夫人の顔からみるみる血の気が引き、持っていたクリスタルのグラスが指先でカタカタと不快な音を立てて震え出す。


 「な、何を……出鱈目なことを! 何の証拠があってそのような無礼を!」


 「出鱈目かどうか、今ここで皆さんの前でお調べいたしましょうか? 夫人が隣国の秘密口座へ流した金の動きと、その首飾りを買った時期。私の手元にある数字は、一秒の狂いもなくそれらが一致していると教えてくれていますわ。貴女が捨てたはずの帳簿の切れ端さえ、私の前では饒舌に罪を語りますのよ」


 私は扇をゆっくりと開き、そこに極小の文字で記された七万二千という数字を夫人の目の前へと突きつけた。

 それは、彼女がどれだけ高価な香水で隠そうとも消えない、腐りきった罪の確定申告だった。


 「貴女……貴女たち、正気なの!? こんな公の場で、私を愚弄するつもり!?」


 「正気でなければ、このような掃き溜めには参りませんわ。……さあ、次はどなたの帳簿を読み上げましょうかしら? ずる賢いやり方で領民から土地を奪い続けている男爵家の方か、それとも税金を一銭も払わずに異国の賭博に耽っている伯爵夫人かしら?」


 私の迷いのない宣告が広間に響き渡ると、周囲を取り囲んでいた貴族たちが、まるで目に見えない怪物に襲われたかのように、恐れをなして後ずさった。

 エルメリンダは、震える彼らを眺めながら、楽しそうに私の腕に絡みついた。


 「セレスティーナ、皆様急に物忘れが激しくなったようですわ。あんなに威勢がよろしかったのに、不思議ですわね! もっとお話ししたいことがたくさんありましたのに、残念だわ」


 その時、波打つ人混みを真っ二つに割って、重みのある力強い声が響いた。


 「そこまでにしてもらおうか。僕の大切な相談役にこれ以上の無礼を働くことは、この僕が許さない。不敬の罪は、その首飾り一つで購えるほど軽くはないぞ」


 レナート殿下だ。彼は見事な軍服姿で堂々と歩み寄り、私の隣に立った。その瞳には、曲がったことを断じて許さぬ強い光が宿っている。


【……セレスティーナ。君自身がこの戦場に立つとは、思ってもみなかった。だが、君の隣には僕がいる。君が導き出した数字の正しさを、僕が力で、そして権威で証明してみせる。もう誰にも、君を『冷たい計算機』などと呼ばせてたまるものか。君の戦いは、僕の戦いでもあるんだ】


 殿下の本音が、私の背中を温かく支える。

 殿下の放つ圧倒的な迫力に、マイセル夫人たちはもはや反論の声も出せず、崩れ落ちそうな足取りで、逃げるように会場の隅へと消えていった。

 広間には再び音楽が流れ始めたが、その質は先ほどまでとは全く異なる、畏怖を含んだものへと変わっていた。


 

――――

 深い夜、全ての会が終わった後の、月の光が差し込む静かな廊下。

 私は心地よい疲労感の中で、隣を歩くエルメリンダの横顔を見つめた。

 彼女のドレスの裾は少し乱れていたが、その瞳は夜空の星よりも誇らしく輝いている。


 「お疲れ様でした、エルメリンダ。……貴女のあの笑顔、どんな複雑な計算式よりも見事に相手の目をくらませてくれましたわ。貴女がいてくれなければ、これほど鮮やかに幕を引くことはできなかったでしょう」


 「ふふ、セレスティーナこそ! あの方たちの青ざめた顔、わたくし一生忘れませんわ。わたくしたち、本当に最強の相棒ですのね。どんな悪巧みも、わたくしたちの前ではただの紙屑ですわ!」


 彼女は子供のように無邪気に胸を張り、私をぎゅっと抱きしめた。

 数字だけで作られていた私の、色も味もない世界。しかし、今宵の夜会で流れていたのは、決して凍りついた時間だけではなかった。

 エルメリンダの体温と、レナート殿下の揺るぎない言葉。


 「殿下の盾も、悪くありませんでしたわ。おかげで、一秒の狂いもなく、汚れきった社交界の掃除を終えることができました」


 私の言葉に、レナート殿下は照れたように笑い、エルメリンダは満足そうに何度も頷いた。

 完璧なきまりごとや秩序よりも、ずっと心地よい熱がそこにはあった。

 私は、明日から始まる新しい計算のために、静かに瞳を閉じた。

 この温かな繋がりを守るためなら、私は何度でも、冷たい数字の海へ飛び込んでみせよう。

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