第037話 十歳の春に背を向けたはずの学び舎は、親友の強引な誘いと王子の不遜なもてなしで構成されていますわ
石造りの大きな門をくぐったとき、鼻をくすぐったのは、財務局の書庫に眠る古い紙の匂いでも、指先を汚す濃いインクの香りでもなかった。
息を吸い込むたびに胸を揺さぶるのは、若者たちが上げるお祭りの騒ぎと、選ばれた生徒たちが集まる特進クラスの店から漂う贅を尽くした芳香。
私、セレスティーナ・アデレイドは、十歳の春に学校という穏やかな場所を捨てた身。
国の帳簿を預かる鉄の壁の中で、数字という名の兵隊を動かし続けてきた私にとって、通うはずのなかったこの場所は、理解を拒む異界に他ならない。
それなのに、今、私の前には、人生で一番理不尽で、一番逃げ場のない包囲網が作られていた。
「セレスティーナ! 往生際が悪いですわよ。今日は財務局の鍵を放り出して、わたくしたち特進クラスの大事なお客様として、その身を預けていただきますわ。来ないなんて選択肢、わたくしの辞書には最初からありませんもの!」
たった一人の親友、エルメリンダ・ロートレックが、私の細い腕をぐいぐいと引っ張り、逃げ道を塞ぐ。
彼女の瞳には、見たこともないような、悪戯っぽくて真っ直ぐな火が灯っていた。
その隣には、彼女と同じクラスの三人の令嬢が立っている。あの温室で私に憧れの眼差しを向けた少女たちが、今は仲間としての強い絆を感じさせる様子で、私の背後を固めている。
「お会いできて嬉しいですわ、セレスティーナ様。今日は特進クラスの店を、貴女様のために最高のものにしましたの。お仕事の合間に、わたくしたちとの時間を書き込んでくださるでしょう?」
首をかしげて笑うマリエルの左目が教える【本音】は、もはや憧れだけではなかった。
【今日は絶対に帰さないわ。暗い部屋に閉じこもる彼女を、わたくしたちと同じ空気に染めてみせる。殿下とエルメリンダ様が決めたこの作戦、絶対に成功させてみせるんだから】
私は思わず、いつもの癖で右手を動かし、そこにない算盤を探して空をかいてしまう。
指が触れたのは、硬い木の玉ではなく、エルメリンダが用意してくれたお祭り用の柔らかい絹の袖だ。
十歳から鉄と数字の壁に守られて生きてきた私にとって、彼女たちの放つ熱気は、どんな帳簿にも載っていない、予測できない嵐のようなもの。
そこへ、人だかりが波のように割れ、お日様を背負って現れたのは、この包囲網を仕掛けた張本人、レナート殿下だった。
特進クラスの同級生として、殿下はあまりに自然に、そして傲慢なほど堂々と私の前に立ちはだかる。
「セレスティーナ。君の言い分は聞かぬ。この国の金を使う者が、その金が使われる学校の様子を知らぬとは、職務をなまけているのと同じだ。今日は私のクラスの連中が、君の理屈を粉々に砕くところを、特等席で見せてもらおう」
殿下の口元には、何を考えているのか分からない微笑みが浮かんでいる。
けれど、私の左目が映した【本音】は、お祭りの騒ぎよりも騒がしく私の心をかき乱した。
【ようやく捕まえた。普段、鉄の鎧で心を固めている君が、慣れないお祭りにまごつく姿。これを見逃すわけにいかない。今日こそ、その頑固な唇から、職務以外の言葉を引き出してやる】
「……レナート殿下。皮肉が過ぎますわ。私にとって、ここはただの管理が行き届いていない広場に過ぎないのです。ですが、エルメリンダや皆様が、これほど無邪気に笑える場所だという点だけは、認めざるを得ないようですね」
私が静かに言葉を返すと、殿下はさらに楽しそうに目を細めた。
私と殿下の間に、無意味な卑下や媚びるような言葉は必要ない。
財務局という牙城で、対等に国の在り方を論じ合ってきた私たちだけの、信頼に基づいた言葉がそこにはあった。
「ふむ。相変わらずの返しだ。だが、その頑固さが、この騒ぎの中ではとても涼やかに響く。エルメリンダ、君の手柄は大きい。セレスティーナを、この一時だけの魔法の中に連れ出してくれたのだからな」
特進クラスの店は、選ばれた貴族の子弟たちが、その知恵とお金をつぎ込んで作り上げた、一時の夢のような場所だった。
彼らが出すのは、珍しい国の葉を使ったお茶や、形を凝らしたお菓子の数々。
けれど、その本当の価値は、物そのものではなく、そこにある「時間」にこそあった。
「さあ、セレスティーナ! このお菓子を食べてみて。わたくしたちが昨晩から、教科書を放り出してまで何度も作り直したものですのよ。一口食べれば、どんな難しい書類も楽しい音楽に聞こえるはずですわ!」
エルメリンダが差し出した、小さな花をかたどったお菓子。
私が戸惑いながら口に運ぶと、広がったのは、甘い砂糖の熱と、春を煮詰めたような良い香り。
『美味しい』なんて単純な言葉は、私の頭からはとっくに消えていたはず。
なのに、一口飲み込むたびに、胸の奥に張り付いていた冷たい固まりが、少しずつ溶けていくのを感じてしまう。
「……エルメリンダ。このお菓子、焼き加減に少しばかり誤差があるけれど、材料の選び方は悪くないわ。財務局に出すお茶請けにするには、少しばかり『甘え』が過ぎるけれど」
「あら、その『甘え』こそが今日の主役ですわ! ほら、セレスティーナ、もっと肩の力を抜いてくださいな」
目眩がしそうだった。
敵意がない。
策謀がない。
ただ、隣に座る同じくらいの女の子として、時間を一緒に過ごしたいという、その気持ちだけで作られた空間。
私が財務局に立った日から、決して手に入らないと諦めていた『もしも』の時間が、今、目の前で色鮮やかに動いている。
「不思議ですね。皆様の会話には、国の予算を揺らすような銅貨一枚の重みも、政争の道具にするような裏もありません。ただ、あのお店の飾りがどうだとか、次の劇の役がどうだとか。そんなあやふやな、一瞬の出来事に、これほどの情熱を注げるなんて」
私が困惑を隠せずにいると、令嬢たちは一斉に顔を見合わせて、鈴を転がすような笑い声を上げた。
その声には、私を笑いものにする気持ちなんて少しもなくて、ただただ、温かい仲間意識が込められていた。
「それがわたくしたち、特進クラスの誇るべき『無駄』ですもの。セレスティーナ、世界は数字だけでできているわけではありませんわ」
エルメリンダは満足そうに頷き、私の手をそっと握りしめた。
その手の温かさが、ペンを握り続けて硬くなった私の指先に、今まで知らなかった柔らかな衝撃を伝える。
「そうだ、セレスティーナ。君はいつも一人で、誰よりも高い場所から世界を見ている。だが、たまにはこうして、俺たちの隣まで降りてくるがいい。誰も君を咎めはせぬ。ここは、君を大切に思う者たちだけが許された、特別な聖域なのだから」
殿下の言葉が、私の鉄の心臓を、ふいに優しく叩く。
十歳から戦い続けてきた私にとって、この青春という名の暴力的なまでの熱狂は、どんな書類よりも解けない暗号のよう。
けれど、エルメリンダが握る手の熱と、殿下の不遜な目つき、そして少女たちの真っ直ぐな期待。
それらが作った理不尽な包囲網を前に、私の算盤は、今までになく激しい音を立てて狂い始めていた。
日は少しずつ傾き、学校の影が長く伸び始める。
けれど、私たちの周りだけは、止まった時間のように黄金色の光が満ちていた。
算盤の音のない午後。
数字のないお喋り。
それらがこれほどまでに心を揺さぶるものだとは、どんな書物にも書いてはいなかった。
鉄の乙女が初めて足を踏み入れた幻の学生生活。
それは、失われた十歳からの日々を、強引に、けれど鮮やかに塗り替えていくお祭りの始まりだった。
私の鉄の理性が、彼女たちの無邪気な包囲網によって、跡形もなく溶かされていく。
理屈ではない。
効率でもない。
けれど、この特進クラスの店を流れる空気は、これまで吸い込んできたどの帳簿の匂いよりも、私の肺を深く、優しく満たしていく。
「……皆様、今日はお招きありがとう。わたくし、こういう場所での振る舞い方はまだ分かりませんけれど。この甘すぎるお菓子を、もう一ついただいてもよろしくて?」
私の精一杯の歩み寄りに、少女たちの笑い声はもっと高まった。
エルメリンダが楽しそうに次のお茶を注ぎ、マリエルが最新の刺繍の模様を広げる。
そこには、財務局の役人でも、将来の王妃候補でもない、ただのセレスティーナという一人の少女が、確かに存在している。
夜が来る頃、私の部屋には、また算盤の乾いた音が響くだろう。
けれど、その音にはきっと、今日手に入れた学校のお日様の光が、一筋だけ混じっているはずなのだ。
鉄の乙女の心に、消えない火を灯した少女たちの踊り。
それは、王国の未来という大きな物語の中で、一番小さくて、けれど一番鮮やかな一ページとして、私の記憶に刻まれたのである。
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