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搾取令嬢は二度と騙されない ~嘘を見抜く左目で、すべてを取り戻します~  作者: 第三ひよこ丸


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第033話 学院帰りの殿下が持ち込む放課後の熱気はわたくしの算術を狂わせますわ

 王宮財務局の午後は、いつも通り淡々とした時間の流れの中にあった。

 高い窓から差し込む陽光が、空気の中を舞うわずかな埃を白く照らし出し、部屋の中には、何十本ものペンが紙の上を走る、さらさらという乾いた音だけが絶え間なく響いている。

 私は、目の前に積み上げられた、隣国との商いに関する帳簿の山を片付けていた。数字は嘘をつかない。正しく並べられた数字は、この世の何よりも美しく、私の心を静めてくれる。この整った世界こそが、私の居場所。一分の狂いもない計算こそが、私の呼吸そのものなのだ。


 そう。あの嵐のような親友が、部屋に入ってくるまでは。


 「セレスティーナ! 見てくださいまし、今日は学院の帰りに、とびきり甘い林檎を焼き菓子にして持ってきましたわ!」


 重厚な扉が勢いよく開くと同時に、春の風のような明るい声が部屋を満たした。エルメリンダだ。

 

 彼女はわたくしの隣に駆け寄ると、許可も得ずに、わたくしの細い肩をぎゅっと抱きしめてきた。わたくしの体からは、いつもインクの匂いしかしないはずだが、彼女が触れると、お日様に干したばかりの花のような、甘くて柔らかな香りが鼻をくすぐる。


 「……エルメリンダ。何度申し上げれば伝わりますの。わたくしは今、国の行く末を左右する極めて重要な計算の最中ですわ。貴女が不意に触れることで、わたくしの体温がわずかに上がり、思考の速さに狂いが生じますわ。それは国家にとっての損失です」


 「まあまあ、そんなに堅いことをおっしゃらないで。セレスティーナは頑張りすぎですわ。ほらほら、一度ペンを置いて、わたくしのお顔を見てくださいな?」


 エルメリンダは、私の頬に自分の頬をすり寄せ、クスクスと楽しそうに笑う。親友である彼女の心のうちは、いつだって真っ白で、温かな光に満ちている。彼女の瞳を覗き込めば、そこに隠された本音が、まるで泉から湧き出す水のように清らかに流れ込んでくる。


【あぁ、セレスティーナは今日も可愛い。ずっとこうして抱きしめていたいですわ。この冷たくて綺麗な横顔が、わたくしの前でだけ、ほんの少し緩む瞬間が、わたくしは何よりも大好きですの!貴女がまた無理をして倒れてしまわないように、わたくしがずっと見ていてあげますわね】


 これほどまでに真っ直ぐな好意を向けられては、さすがの私も、突き放す言葉を飲み込まざるを得ない。私は彼女の腕の中で、ひとつ深くため息をついた。


 「……少しだけですわよ。それ以上は、この国の予算の動きに重大な遅れが出ますわ」


 「えぇ、えぇ、わかっていますわ!」


 エルメリンダは満足げに笑い、私の机の端に、手際よく茶の用意を始めた。

 すると、彼女の後ろから、もう一人の人影が部屋に入ってきた。学院の制服を端正に着こなしたレナート殿下だ。


 殿下もエルメリンダ同様に学院が終わるやいなや、休む間もなくここへ通い詰めている。私が不在だった一週間、殿下は学生としての本分を果たしながら、その放課後のすべてを、この財務局の泥臭い実務に捧げてくださったのだ。

 その高貴な指先には、慣れない事務仕事でできた、まだ痛々しい包帯が巻かれていた。


 殿下の瞳が、私を抱きしめるエルメリンダの腕に向けられる。その瞬間、私の視界に、殿下の胸の内が、夕暮れ時の空のような、寂しげで複雑な色合いを伴って流れ込んできた。


【いいな、エルメリンダは。あんなに自然に、君の隣で笑い合える。あんなに近くで、君の温もりを感じられる。僕は学院でも、こうして放課後に駆けつけた時も、君の背中を追いかけることしかできない。君はいつも遠い空の向こうにある数字だけを見ている。……僕もいつか、あんな風に君の心の壁を越えて、その隣に座る許しを得られるのだろうか】


 その本音に触れた瞬間、私の指先が、わずかに震えた。殿下が私に向けているのは、以前のような身勝手な支配欲ではない。それは、切実な願い。


 (……何ですの、この感覚は)


 心臓の奥が、不規則に跳ねた。私の体という機械が、原因不明の誤作動を起こしている。殿下がエルメリンダを羨んでいる。ただそれだけの事実が、なぜか私の思考回路に大きな負荷をかけ、熱を帯びさせていくのだ。


 「……っ」


 ペンを走らせていた手が、ピタリと止まった。帳簿に書き込んだ数字を見て、私は自分の目を疑った。


 八。


 そこに書かれるべき数字は、九であったはずだ。私としたことが、一桁の書き間違いなどという、初歩的で見苦しい過ちを犯すなんて。これは、私の人生においてあってはならない不純物だ。


 「セレスティーナ? どうしましたの、お顔が真っ赤ですわよ。まだお熱が残っているのではなくて?」


 エルメリンダが心配そうに、私の額に手を当てようとする。私は慌ててそれを避け、椅子を引いて立ち上がった。


 「……いいえ、何でもありませんわ。少し、部屋の空気がよどんでいるようです。……局長! 窓をすべて開けてくださいな! 風の通りが悪いために、私の頭が異常な判断を下し始めましたわ!」


 「えっ!? あ、あぁ、すぐに開けさせよう!」


 クライン局長が慌てて部下たちに指示を飛ばす。

 私、未だにこちらを静かな目で見つめているレナート殿下から、必死に目を逸らした。


 (これは間違いですわ。疲れによる一時的な迷いに過ぎません)


 自分自身にそう言い聞かせながらも、私の耳は、殿下が心の中で漏らした声を拾い続けていた。


【赤くなっている……。あんな顔、初めて見た。エルメリンダのおかげなのかな、それとも……。もし、僕が放課後の数時間、君のために尽くしたことが、少しでも君の心を揺らせたのだとしたら。僕はどんなに険しい道でも、君と共に歩みたい。君が僕を見てくれる、その一瞬のためだけに。あぁ、愛おしい……その戸惑う姿すら、今の僕には眩しすぎる】


 ……困りましたわ。殿下の本音が、甘い毒のように私の考えを乱していく。

 数字の世界は、こんなにも不確かで、危ういものだったかしら。正解がひとつしかないはずの数式が、殿下の視線一つで、いくつもの答えに分かれてしまうような、そんな錯覚に陥る。


 「セレスティーナ、あまり根を詰めないでほしい。学院の先生も言っていたよ、適度な休みが最上の知恵を生むと。君が倒れる姿を見るのは、もう二度と御免だ。……この書類の整理くらいなら、僕にも手伝わせてくれないか」


 殿下が私の方へ歩み寄ってきた。その歩みのひとつひとつが、私の胸の鼓動をさらに速めていく。殿下の瞳には、隠しきれない慈しみが灯っていた。


 「いいえ、必要ありませんわ、殿下! 貴方は明日も学院があるのでしょう? 予習と復習に時間を割くべきです。これはわたくしの仕事、わたくしの聖域ですわ!」


 わたくしは、書き間違えた”八”の数字を、震える手で丁寧に消した。けれど、胸の中に生まれた、この名前のつかないざわつきだけは、どんな道具を使っても、消し去ることはできそうにない。


 「エルメリンダ。……そのお菓子、ひとついただきますわ。頭の栄養が、決定的に足りていないようですから。それから、そのお茶。もっと熱いものを淹れ直してくださいな。冷えは思考の敵ですわ」


 「まぁ! えぇ、もちろんですわ! さあ、お口を開けてくださいな。美味しい林檎が、貴女の疲れを吹き飛ばしてくれますわよ!」


 親友の明るい笑い声と、放課後の短い時間を惜しむように見つめてくる殿下の熱い視線。その二つに挟まれて、私は、自分の人生という道筋が、大きく書き換えられようとしている予感に、ただ身を震わせることしかできなかった。

 完璧だったはずの私の世界に、殿下という答えのない問いが、音を立てて滑り込んできたのだ……。

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