第032話 効率の聖域に舞い込んだ箒の令嬢は、わたくしの計算式をかき乱しますわ
王宮財務局の空気は、いつも乾燥した紙の匂いと、鼻を突くインクの香りで満たされている。
私にとって、この場所は自分の一部のようなものだ。無駄な私語はなく、ただペンを走らせる音と、算盤を弾く乾いた音だけが響く。
一分の狂いもない数字が並び、すべての仕事が最短距離で片付いていく。これこそが、わたくしが作り上げた、何者にも汚されない完璧な秩序なのだ。
ところが、その完璧な静寂を、耳障りな音を立ててぶち壊す者が現れた。
「みな様、ごきげんよう! 今日はお外がとってもいいお天気ですわ。こんなに暗いお部屋に閉じこもっていては、お顔がシワシワになってしまいますわよ!」
扉を勢いよく開けて入ってきたのは、ピンク色のドレスの裾を揺らし、両手に大きなバスケットと、なぜか、あのお手製の箒を抱えたエルメリンダである。
彼女は、私が休んでいる間に、どういうわけかレナート殿下から『財務局特別環境整備係』という、名前だけは立派な、実態はただの『お節介焼き』の役職を与えられていたのだ。もしかすると、もぎ取ったのかもしれないけれど……。
わたくしはペンを止め、眉間にシワを寄せて彼女を睨んだ。
「エルメリンダ。ここは遊び場ではありませんわ。わたくしたちは今、国の未来を左右する予算編成を行っている最中ですの。貴女のその無秩序な明るさは、わたくしの集中力を削ぐ騒音でしかありませんわよ」
私の冷たい言葉など、彼女には春のそよ風程度にしか感じられないらしい。
彼女の瞳の奥を覗き込めば、そこには呆れるほど純粋で、計算外の感情が渦巻いている。
【わぁ、セレスティーナ、今日もお綺麗ですわ! でも、やっぱり少しお顔が険しいですわね。きっと、美味しいお菓子と可愛いお花が足りていないせいですわ。わたくしが、このどんよりしたお部屋をキラキラにしてみせますわよ!】
エルメリンダはわたくしの隣にいた事務官の机に、勝手にお花を飾り始めた。
事務官は驚いて固まっている。当然だ。彼の机は、今、極めて重要な税収のデータが並んでいる神聖な場所なのだから。
「これを見てくださいまし。今朝摘んできたばかりのマーガレットですわ! ふふっ、この計算用紙の横に置くと、なんだか数字さんたちが喜んでいるように見えませんか?」
「よ、喜んでいる……? いや、しかし、これは……」
事務官が困惑してわたくしの方を見た。わたくしが『排除しなさい』と一言命じれば、この無謀な親友はすぐに追い出されるだろう。
だが、その事務官の本音を視て、わたくしは言葉を失った。
【うわぁ……。なんだか、急に呼吸が楽になった気がする。この一週間、殿下と一緒に地獄のような数字の山と戦って、目がチカチカしていたけれど……このお花の匂いを嗅ぐと、肩の力が抜けるなぁ。……あっと、いけない、セレスティーナに怒られる!】
わたくしは、小さくため息をついた。
効率を第一に考えるわたくしからすれば、机にお花を置くスペースがあるなら、そこに一通でも多くの書類を置くべきだ。けれど、この男の精神状態を分析する限り、この『お花』が、彼の処理能力をわずかに回復させているのは否定できない事実だった。
「……三分だけ。三分だけなら、その植物の存在を許可しますわ。ただし、花粉が書類に落ちたら、即座に没収ですわよ」
「まぁぁ!ありがとう、セレスティーナ! みんな、お茶も用意してありますの。今日は特別に、わたくしの家で作ったベリーのタルトを持ってきましたわ」
エルメリンダは、さらに図に乗って、殺伐とした空気が流れる財務局の真ん中で、ピクニックでも始めるかのように準備を始めた。
ちょうどそこへ、包帯を巻いた指で新しい書類を持ってきたレナート殿下が姿を見せた。
「おや、エルメリンダ。もう来てくれたのか」
殿下は彼女を見て、ふっと優しく微笑んだ。
その殿下の視線の中に、わたくしは驚くほど不器用な気遣いを視た。
【セレスティーナは、放っておけばまた自分を壊すまで働いてしまう。彼女に必要なのは、論理でも数字でもない。彼女が効率という言葉で切り捨ててしまった、人間らしい温かさなんだ。エルメリンダなら、僕の言葉が届かない彼女の心の扉を、その箒でこじ開けてくれるかもしれない。……少し、騒がしすぎる気もするけれどね】
殿下、貴方は……。
わたくしを休ませるために、わざわざこの歩く非効率をここに招き入れたのですか。
「殿下。貴方の管理能力を疑いますわ。この財務局に、お茶とお菓子の匂いを持ち込むことが、どれほど現場の緊張感を削ぐのか、理解していらっしゃいますの?」
わたくしがそう告げると、殿下は悪びれる様子もなく、エルメリンダが差し出したタルトを一つ、口に運んだ。
「いいじゃないか、セレスティーナ。張り詰めた糸は、いつか切れてしまう。君が不在だった一週間、僕たちはそれを身をもって知ったんだ。……ほら、君も食べてごらん。甘いものは、脳の疲れに効くんだろう?」
殿下がタルトの一切れを私の口元に運んでくる。
わたくしは反射的に顔を背けようとしたが、エルメリンダが横からわたくしの肩をぎゅっと抱きしめた。
「そうですわよ、セレスティーナ! アーンですわ! わたくしが精一杯、愛を込めて作ったんですから!」
彼女の本音が、私の胸に温かく響く。
【セレスティーナ。貴女はいつも一人で遠いところを見ているみたいで、時々消えてしまいそうで怖いですわ。だから、わたくしがこうして捕まえておきますわ。美味しいものを食べて、わたくしと一緒に笑って……。貴女が完璧な機械じゃなくて、わたくしの大切な親友でいられる時間を、わたくしが守ってみせますわ!】
親友。
私の人生において、もっとも縁遠く、もっとも不確かな存在。
けれど、口の中に押し込まれたベリーのタルトの、鮮やかで甘酸っぱい風味は、驚くほど素直にわたくしの全身に染み渡っていった。
「……甘すぎますわ。砂糖の分量を、あと少し減らすべきですわね」
わたくしがぶっきらぼうにそう言うと、エルメリンダは『きゃあ!』と嬉しそうに声を上げた。
「まぁ! 次はもっと完璧なものを作ってきますわ! みな様、おかわりもたくさんありますわよ!」
気づけば、財務局の職員たちが、戸惑いながらもタルトを口にし、少しだけ表情を緩めていた。
一秒の無駄もなく動いていた彼らの手が、一瞬だけ止まる。
けれど、その後の彼らの筆致は、不思議なほど軽やかで、ミスも減っていた。
私の計算式には、これまで休息や友情といった項目は存在しなかった。
けれど、この嵐のような親友が持ち込む無秩序な時間は、結果として、私が求めていた以上の成果を組織にもたらし始めている。
「……全く。予測不能な事態ですわ」
私は、窓辺に飾られたマーガレットをチラリと見る。
太陽の光を浴びて白く輝くその花は、この殺風景な部屋には、確かによく似合っていた。
私は再びペンを握る。
けれど、その心は、先ほどまでよりもずっと静かで、そして満たされている。
エルメリンダ。貴女のその箒で掃き出されたのは、わたくしの孤独だったのかもしれませんわね。
まあ、それを認めるのは、もう少し後のことにさせていただきますけれど。
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