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搾取令嬢は二度と騙されない ~嘘を見抜く左目で、すべてを取り戻します~  作者: 第三ひよこ丸


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第031話 わたくしの不在に秩序を繋ぎ止めた殿下の不器用な献身は感銘に値しますわ

 深い、深い眠りの底から、ようやく意識が浮上してきたとき。私の脳内を占めていたのは、驚くほど透き通ったような静寂だった。

 

 つい先日まで私を焼き尽くさんばかりに荒れ狂っていた、あの不愉快な熱という名の嵐はどこかへ消え去り、脳の回路はかつてのように、王国の全神経系を繋ぐ算術の糸を鮮やかに、そして正確に手繰り寄せ始めている。


 (ようやく霧が晴れましたわ。余計なノイズは、もう一切聞こえませんわね)


 意識が途切れる直前の記憶は、どれも酷く泥濘のように重苦しく、救いようのないものばかりだった。

 

 エルメリンダが必死に振り回していた箒の音。

 廊下をドタドタと走り回る近衛兵たちの騒がしい足音。

 そして何より、私を自分の『お人形』として籠の中に閉じ込めようとしていたレナート殿下の、あの歪で身勝手な執着という名の不純物。

 

 私が不在の間、この国はきっと瓦解を始めていたはずだ。私という精密極まりない歯車を欠いた国家機構が、どれほどの悲鳴を上げて止まっていたか。それによってどれほどの民の日常が粉砕されたか。それを予測し、絶望することは、計算するまでもない既定の事実だったはず。


 けれど、病み上がりの重い体を引きずって、一週間ぶりに王宮財務局へ足を踏み入れたとき。私の目に飛び込んできたのは、最悪のシナリオとして描いていた崩壊とは、似ても似つかぬ異様な光景だった。


 

 財務局の重厚な扉を開けた瞬間、私の肺を真っ先に満たしたのは、むせ返るような熱気である。

 それは単に人が密集しているからという物理的な理由ではない。死ぬ物狂いで何かにしがみつこうとする、凄まじいまでの執念と、限界を超えた精神が放つ焦燥の匂いだ。床の至る所に羊皮紙が散乱し、壁一面の書棚には入り切らないほどの書類が、まるで崩落した山のように積み上げられている。


 「おはようございます、クライン局長。一週間も空けてしまい、申し訳ございません。……それで、進捗はいかがかしら?」


 私の問いかけに、真っ青な顔をした財務局長が、机に積み上がった書類の山から顔を上げた。

 彼は私の上司であり、この王国の財政を預かる最高責任者だ。普段なら私を”神童”と呼びつつも、どこか年少者として扱う余裕を持っていたはずの彼だが、今のその姿はあまりに凄惨だった。

 目の下には真っ黒なクマが沈着し、髭は伸び放題。けれど、その瞳の奥には、以前の温和な官僚の顔ではなく、戦場を生き抜いた兵士のような、鋭く昏い光が宿っているようだ。

 彼が震える手で差し出してきた一枚の書類を、私は黙って受け取る。その瞬間、彼の心の奥底に隠された、剥き出しの本音が私の中へ流れ込んできた。


【セレスティーナ……、よくぞ戻ってくれた。だが、今の私は、君がいない間に逃げ出した腰抜けではないぞ。殿下が……あの方が、我々と共に泥に塗れて戦ってくださったのだ。君という太陽を失った暗闇で、我々がいかにして明日を繋いだか、その目で見届けてもらうぞ。もう二度と、君一人に地獄を背負わせはしない!】


 「……ああ、セレスティーナか。見ての通り、壊滅は免れている。……これを見たまえ。我々は、レナート殿下と共に、死守した。君がいない一分一秒を、血を吐く思いで埋め尽くした結果だ」


 クライン局長の声は、低いが、確かな誇りに満ちていた。

 差し出された書類の内容を精査し、私は思わず息を呑んだ。


 これは、一体……?


 そこに並んでいた数字の列は、私の洗練された数式とは程遠い、酷く不格好で、泥臭い努力の跡そのものだった。

 私がいつも行うような、最小限の労力で急所を突くスマートな解決方法ではない。けれど、気が遠くなるような人海戦術を駆使し、物理的な限界まで労働力を投入することで、無理やり明日という日を繋ぎ止めた執念の記録だ。

 

 書類の余白には、乱れた文字で細かな指示が書き込まれている。インクが激しく飛び散り、所々に、指先を酷使して切れたときに付いたのであろう血の跡が、薄黒い染みとなって焼き付いていた。


 それは、間違いなくレナート殿下の筆跡だった。


 「……殿下は、この一週間、一度も王宮へはお戻りにならなかった。我々と共に冷たい床に座り込み、羽ペンを握り続け……君という巨大な穴を埋めるために、がむしゃらに、文字通り身を削って働かれたのだ。私は……あの方に、真の王の姿を見たよ」


 局長の声は、深い尊敬と、そして一人の部下を導けなかった上司としての後悔に震えていた。

 私は執務室のさらに奥、自分が実質的な主として君臨していたあの空間へと進む。そこには、一週間の激闘を物語る壮絶な光景が広がっていた。折れたペンが山のように積み上がり、空になったインク壺が墓標のように並んでいる。

 

 そして、私が座っていたあの机。そこには、一国の王子が座るにはあまりに相応しくないインク塗れのメモや、ボロボロになるまで使い込まれた算盤が残されていた。

 

 殿下は、私の思考の癖、計算の順序を、必死になって書き写し、真似ようとしていたのだろう。ノートの端には、私の書き方を何度もなぞり、理解しようと格闘した跡が、無数に残っている。


 馬鹿なことを。王子という至高の身分がありながら、泥に塗れた一介の事務官の真似事をするなんて。わたくしからすれば、最高に効率の悪い、時間の無駄以外の何物でもありませんわ。


 けれど……この、あまりにも真っ直ぐで不器用な誠実さは。私の背中を追いかけようとして、指を壊さんばかりに動かし続けた、この熱量は……。


 (認めざるを得ませんわ、殿下。貴方は私が思っていたよりも、ずっと王様としての責任を、自らの苦痛をもって背負おうとしていたのですね)


 胸の奥が、かつてないリズムでトクンと鳴った。それは恋なんていう浅薄でフワフワした感情ではない。絶望的な戦場において、背中を預けられる共犯者を見つけたときのような喜びである。


 「……素晴らしいですわ、殿下。私が不在という最悪の事態を、これほどの熱意で中和なさるとは。貴方の一週間の頑張りは、この国の歴史に残る、最も効率が悪く、そして最も立派な仕事ですわね」


 ふいに、後ろの扉が開き、重く力強い足音が響いた。

 振り返ると、そこには正妃ヘレナ様に付き添われた、ボロボロのレナート殿下が立っていた。

 指先には痛々しい包帯が幾重にも巻かれ、衣服はインクと埃で汚れきっている。頬は痩せこけ、瞳には深い疲労が刻まれているが、その眼差しは、以前の私を閉じ込めようとしていたときよりも、ずっと澄み渡り、強い光を宿していた。

 隣に立つヘレナ様の、驚きと心痛に満ちた本音が、わたくしの視界に鮮やかに浮かび上がる。


【あぁ、レナート。貴方はセレスティーナのために、ここまで自分という存在を削ってしまって……。あんなに身勝手で甘やかされていた子が、今は彼女の後ろ姿だけを見つめる騎士のようですわ】


 「……セレスティーナ。起きたんだね。顔色が良くなって、本当によかった」


 殿下の声は、無理な発声が続いたのかガラガラに枯れていた。けれど、そこにかつての、相手を支配しようとする嫌な甘みはもう存在しなかった。

 彼を見つめると、その胸の内にある、剥き出しの気持ちが、洪水のように私の中へ溢れ出してきた。


【あぁ、セレスティーナ、戻ってきたんだね。机に座る君の凛とした姿を見て、やっと理解できたよ。僕が守るべきだったのは、君の肉体なんかじゃない。君が命を削って積み上げてきた、この国の明日だったんだ。僕の押し付けがちな愛は、君の邪魔でしかなかった。君の隣に立つ資格を得るためには、僕はもっと学び、君と同じ高さで景色を見なきゃいけないんだ。君に拒絶されることよりも、君が作り上げたこの美しい秩序を、僕の無能で壊してしまうことの方が、今の僕にはずっと耐え難い恐怖なんだよ】


 少しだけ困ったように笑う殿下。その姿は、高価な宝石で着飾っていた以前の彼よりも、何倍も気高く、そして王者に相応しく見えた。


 「いいえ、殿下。私の代わりにこれだけの難局を乗り越えた方を、私はもう無能だなんて呼びません。……貴方のそのインクで真っ黒に汚れた手こそが、この国を繋ぎ止めたのですわ」


 私は、ゆっくりとドレスの裾を持って、今までの人生で捧げたことのないほど、最高の敬意を込めてお辞儀をした。


 (驚きましたわ。まさか、私に頼りきりだった寄生獣のような貴方が、自分の命を削る宿主としての覚悟を決めるなんて)


 この、胸の震え。これは計算モデルには存在しない異常値ですけれど……決して、不快な数値ではございませんわね。


 私は顔を上げて、殿下の目を真っ直ぐに見つめ返した。


 「さあ、殿下。ここからは、私が引き継ぎます。貴方はその手を、今はしっかり休めてくださいな。……それとも、私の隣で、また一緒に新しい解決策を模索されますか?」


 私の言葉に、殿下は目を丸くして、それから、本当に、心の底から嬉しそうに笑った。

 財務局の重苦しく淀んでいた空気は、私の復帰と、殿下の新しい決意という名の追い風によって、今、鮮やかに塗り替えられていく。


 さあ。私たちの王国を、もっと美しく、もっと完璧に、構築し直していきましょうか。

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