第030話 指先をインクで汚しわたくしの孤独をなぞる殿下の苦闘は尊いものですわ
王宮財務局は、今や王国の命運を懸けた、逃げ場のない戦場と化していた。
かつてセレスティーナ・アデレイドという唯一無二の頭脳が、呼吸をするよりも容易く、数百万の民の生命線たる数字を統御していた聖域。
そこは今、主が倒れたことで秩序が崩壊し、狂った歯車が火花を散らす阿鼻叫喚の地獄へと変貌を遂げている。
壁一面を埋め尽くす書棚には、彼女が瞬時に処理してきたはずの未決済書類が、まるで巨大な墓標のようにうず高く積み上がり、執務室の空気を物理的に押し潰している。
室内に漂うのは、古びた紙の匂いと、焦げ付くようなインクの香り、そして極限まで磨り減らされた精神が放つ、酸っぱい汗の混じった焦燥の気配だけである。
「……合わない。どうしてだ、この一点の齟齬が、なぜこれほどまでに巨大な穴となって立ちはだかる……!」
本来であれば、彼女が一人で静謐を支配していたはずの執務机。そこに、見る影もなく憔悴し、狂気に取り憑かれたようなレナート殿下の姿があった。
彼の指先は、安物の羽ペンを、まるで崩落する崖の縁を掴むかのような強さで握り締め続けたために、感覚を完全に喪失していた。溢れたインクは、絹のように滑らかだった彼の肌を無残に黒ずませ、爪の間には乾いた黒い汚れが幾層にもこびりついている。
王族としての洗練された所作も、神の如き輝きを放っていた美貌も、この三日三晩、一秒の睡眠さえ拒絶して繰り広げられた数字の怪物との格闘によって、剥げ落ちた安物の金箔のように無惨に失われていた。その瞳は血走り、視界の端々には極度の疲労による幻覚が揺らめいているが、彼は瞬き一つすることさえ自分に禁じていた。
「殿下、もう、もう限界です……。これ以上は、御身が持ちませぬ。これ以上の強行軍は、王国の損失となります……」
財務局長のゼノス・ヴァン・クライン伯爵が、掠れた声で進言してくる。
彼の背後では、国家の精鋭たる事務官たちが、魂を抜かれた抜け殻のように床に倒れ伏していた。彼らは皆、かつては自分たちを王国のエリートと自負し、その知性をもって万事を解決できると信じていた者たちだ。
だが、今この瞬間、彼らが全員でかかり、脳髄を磨り減らしても、彼女が茶を啜る間に終えていたはずの『街道の関税調整』ひとつ終わらせることができない。
彼女がいれば一瞬で導き出されていた最適解という名の奇跡。それが、凡人である自分たちにとっては、どれほど遠く、どれほどの物理的な苦痛と精神的な摩耗を強いるものだったのか。彼女が涼しい顔でこなしていた執務の一枚一枚に、どれほど凄絶な削り合いが込められていたのか。その残忍な事実に、彼らはただ絶望に打ちひしがれ、自らの無能さを呪うしかなかった。
「……黙れと言っている。僕が、僕がこのペンを置けば、明日の朝、王都のパン屋から火が消えるのだ。病床の民に届くはずの薬が止まり、国境を守る騎士の剣が錆びる。彼女は、これ以上の絶望を、これ以上の孤独を……たった一人で、一度も泣き言を言わずに受け止めていたんだぞ! それを、愛だの恋だのと騒ぎ立てていた僕が、今さら疲れたなどと言えるわけがないだろう!」
レナートの声は、もはや王族の怒号ではなく、己の魂を削り取って吐き出す咆哮に近い。
彼は、痙攣して動かなくなった右手に、自身のシャツを引き裂いた布を無理やり巻き付け、羽ペンを固定した。
指が動かないのなら、腕全体の振動で文字を書けばいい。腱鞘が悲鳴を上げ、神経を逆撫でするような痛みが全身を走るたび、彼はむしろ、その激痛に救いを感じていた。その痛みこそが、彼女が背負っていた重圧の、たった一欠片を共有できているという唯一の証左であったからだ。
(ああ、セレスティーナ……。君は、こんな戦場の中にいたのか。こんな暗闇の底で、僕の、あの甘ったれた、無価値な愛の囁きを聞かされていたのか。それがどれほど、君の精緻な世界を乱す不快な雑音であったことか)
今、彼の目の前にあるのは、情緒的な飾りも、甘美な幻想も一切排した、剥き出しの国家の臓物だ。
一桁の計算ミスが、地方の農村を飢えさせる。一通の承認の遅れが、国境を瓦解させる。その全責任を、彼女はたった一人、あの折れそうなほど華奢な肩に背負っていたのだ。
彼女にとって、レナートが捧げていた情熱がいかに目障りで、救いようのない邪魔立てであったか。焼けるような頭痛と、指先の痺れ、そして胃を抉るような罪悪感の中で、彼はようやく、自らの無能さと残酷さを骨の髄まで理解したのである。自分が彼女を守るなどという言葉がいかに滑稽であったか。彼女こそが、その命を灯火として、この国を、そしてレナート自身を守り続けていたのだ。
「……レナート。わたくしの、愛しい息子よ。もう、これ以上は見ていられません」
重苦しい防音の扉が開かれ、廊下の静寂と共に現れたのは、正妃ヘレナだった。
彼女の瞳には、かつて見たこともないほど泥臭く、執念だけで筆を走らせる息子の姿に対する耐え難いほどの心痛が宿っている。
彼女は、最高級の香水ですら打ち消せない執務室の疲労の匂いに眉をひそめ、跪く職員たちの惨状に目を見張った。
「もうお止めなさい。貴方は次期国王なのですよ。このような、事務仕事に身をやつす必要はありません。残りは専門の者に任せればいい。さあ、王宮へ戻りましょう。貴方のための温かい食事が、柔らかな寝所が待っています。貴方が壊れてしまっては、元も子もないのですよ」
ヘレナが差し出した白く滑らかな手。それは、かつてのレナートが疑うことなく縋っていた、安全で無責任な温室への誘いであった。かつての彼ならば、その手に縋り、己の無能を王子の身分という盾で隠して逃げ出しただろう。
だが、今のレナートは顔を上げない。インクで汚れ、修正液の跡が痛々しい書類の山を凝視したまま、彼は絞り出すように答えた。その声は、かつて甘い愛を囁いていた時とは異なり、鋼のように硬く、冷たい。
「母上。専門の者とは誰のことですか? ここにいる者たちですか? それとも王宮で着飾っている大臣たちですか? ……悲しいことに、ここには、彼女以外にこの迷宮を、この国の呪いを解ける者など一人もいないのです。そして、その彼女を壊したのは、他ならぬ僕だ。僕を甘やかし、彼女の超人的な犠牲を当然の権利として享受してきた、この王宮の怠慢そのものだ」
「レナート……! 何を、そんな……」
「彼女は、血を吐くような思いでこの羽ペンを握っていたんだ! 指の感覚を失い、脳を磨り減らしながら、僕たちが贅沢に浸るための時間を捻出していた。彼女が休みを求めていた時、僕はそれを自分の腕に閉じ込める好機だとさえ考えた。……僕は、彼女が戻る場所を守らなければならない。彼女がいつか目覚めたとき、この国が瓦解していたなどという、そんな無様な、救いようのない醜態だけは、死んでも見せられないんだ!」
その言葉と共に、レナートは再び、狂ったように計算機を叩き始めた。
王冠という飾りの重みではない。彼女がたった一人で支えてきた、王国という巨大な生命の重みが、今、真っ黒なインクの染みとなって彼の腕に、心臓に、魂にのしかかっている。その重圧こそが、今の彼が生を実感できる唯一の接点であった。
ヘレナは、息子の手が激しく震え、裂けた指先から滲んだ血がインクに混じり、書類を汚しているのを見て、思わず口元を押さえた。
かつてのレナートは、彼女に守られることを望む、華やかで空虚な幼子であった。しかし、今の彼は、自分の愛する人が命を削って守り抜いたものを、同じく命を賭して引き継ごうとする、一人の不器用で、だが真摯な男へと変貌を遂げていた。その変貌を喜ぶべきか、それとも息子を壊したあの少女を恨むべきか、彼女には判断がつかなかった。ただ一つ確かなのは、今のレナートを止めれば、彼は二度と自分を許すことができないだろうということだ。
ヘレナは、もはや息子を止めることが、彼の尊厳を、そして彼がようやく見つけた王としての覚悟を傷つけることであると悟った。彼女にできるのは、ただ、夜を徹して数字を追い続ける息子の背中に、祈りにも似た慈しみを持って、冷え切った紅茶と、そっと寄り添う沈黙を置くことだけだった。
窓の外、冷ややかな夜明けの気配が忍び寄る。
レナートは、霞む視界の中で、一枚の緊急決済書類に最後の手を走らせた。
それは、セレスティーナ・アデレイドが不在であっても、明日という日が繋がったことを意味する、たった一枚の紙。だが、その一枚のために、彼は自らの王族としての矜持を、優雅さを、そしてこれまでの空虚な全てを、インクの壺へと沈めたのである。
「……終わったぞ。これで、朝の配給は、止まらない。北方の薬も、予定通りに発送できる……」
ペンを置いた瞬間、レナートの身体から全ての力が抜け、彼は執務机に突っ伏した。
インクで真っ黒に汚れた彼の指先は、彼女が歩んできた孤独な道のりの、ほんの最初の一歩をなぞったに過ぎない。
それでも、彼は止まらなかった。
彼女がいつか、その真っ白なシーツの中から目覚めたとき。
『やはり貴方は、救いようのない無能ですわ』と切り捨てられないために。
彼は、自らの至らなさを、一滴のインク、一桁の数字で、今日も、そして明日も、贖い続けるのである。その姿は、朝日を浴びて、かつてのどの王族よりも神々しく、そして痛々しく静寂の中に佇んでいたのだ。
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