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搾取令嬢は二度と騙されない ~嘘を見抜く左目で、すべてを取り戻します~  作者: 第三ひよこ丸


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第029話 鏡に映る己の醜悪ささえ計算できぬ殿下にわたくしを語る資格はございません

 アデレイド公爵邸の三階、セレスティーナの寝室へと続く廊下は、今や王国の心臓部が抱える”無能”と”醜悪”を極限まで煮詰めた、逃げ場のない処刑場へと変貌を遂げていた。

 

 厚いマホガニーの扉一枚。わずか数センチメートルの木材という境界線が、この王国において最も残酷な真実を分かつ、絶対不可侵の国境となっている。

 

 扉の向こう側には、国家という巨大な機構をたった一人で背負い、脳髄を磨り減らし続けた少女が、泥のような眠りの中でなお、不毛な騒音を排そうと孤独な戦いを続けている。


 そして、こちら側。そこには、彼女の献身という名の血肉を啜りながら、その尊い犠牲を”愛”や”慈悲”という安っぽい美辞麗句で粉飾しようとする、浅ましい大人たちが群れをなしていた。


 「……ゴミ、だと?」


 レナートの唇が、屈辱に歪み、痙攣するように震えた。

 王族として生を受け、常に『選ばれる側』であり『与える側』であった彼にとって、エルメリンダの放った言葉は、彼の全存在を根底から否定する神罰に等しかった。

 

 彼は、高潔な救世主としてここへ来たはずだった。熱に浮かされ、防衛能力を喪失したセレスティーナを、王宮という名の鉄壁の檻へ回収し、自らの腕の中で保護すること。それが彼にとっての正義であり、唯一無二の愛の証明であると信じて疑わなかったのだ。その指先が扉の取っ手に触れようとした瞬間、彼の誇りは、一本の古びた箒によって無残に打ち砕かれた。


 だが、その傲慢な自負を完膚なきまでに粉砕したのは、廊下の向こうからなりふり構わず駆け込んできた、王宮筆頭書記官の悲鳴であった。その足音は、静寂を何よりも尊ぶ病人の枕元へ、無慈避な現実という名の泥を撒き散らしていく。


 「殿下! 急報です、東部領の穀物価格が暴騰しております! セレスティーナ嬢が昨日までに更新すべきだった関税調整案が滞ったため、市場が恐慌状態に陥りました!」

 

 「殿下、騎士団からも伝令が! 補給路の最適化計算が彼女の不在で凍結、このままでは数千の兵が、明朝の食糧すら確保できぬ事態となります!」

 

 「さらに王都の検問所では、彼女の署名なき通行許可証が積み上がり、物流が完全に麻痺……このままでは、王都からパンを焼く火さえ消え失せます! 彼女がいなければ、我々は、我々は次に何をすべきかさえ、誰も決めることができないのです!」


 次々と突きつけられる、国家崩壊の断末魔。

 レナートの足元が、激しい目眩に襲われ、底なしの沼へ沈むような感覚で崩れ去る。彼がこれまで当然のように享受してきた王族としての威光、そして贅を尽くした執務室での安寧。それらすべては、彼女という唯一無二の頭脳が、吐血するような重圧の中で算出し続けた()()()の上に、危うく成立していた砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。

 彼女という歯車がたった一枚止まっただけで、大国という巨体は、血流を失った腐乱死体のように急速に腐敗を始めている。

 

 彼らが敬うべき知性と崇めていたものは、実は、自分たちの無能を肩代わりさせるための便利なインフラに過ぎなかった。その残忍な真実が、廊下の冷えた空気と共にレナートの肺腑を凍らせる。


 「ご覧なさい、殿下。これが貴方たちが彼女に強いてきたものの正体ですわ」


 エルメリンダの掲げる箒の柄が、レナートの胸元を、物理的な質量を伴って拒絶する。

 彼女の瞳には、王族への敬意など万分の一も存在しない。そこにあるのは、ただ『大切なものを奪おうとする侵入者』への、絶対的な排除の意志であった。


 「貴方は彼女を救いに来たのではない。彼女という『便利な機能』を自分ひとりの手元に閉じ込め、二度と誰にも触れられぬよう、独占欲という名の鎖を巻きに来ただけですわ。その醜い下心を、慈愛という名の安物で包み隠せると思わないでいただきたい。貴方の吐く言葉は、彼女の静養を妨げる有害な騒音であり、死を招く毒でしかないのです。彼女を愛している? 笑わせないで。貴方が愛しているのは、彼女を所有しているという優越感に浸る自分自身でしょう!」


 「違う! 僕は彼女を……彼女を心から案じて……!」


 反論しようとしたレナートの言葉は、廊下の壁に据えられた壮麗な姿見に映る己の姿を見た瞬間、喉の奥で氷の塊となって凍りついた。

 

 そこにいたのは、愛に殉ずる高潔な王子などではなかった。

 熱に浮かされ、意識を混濁させている獲物を、ここぞとばかりに管理という名の鎖で繋ぎ止め、自分なしでは生きられぬように、その魂さえも支配しようとする執着に顔を歪ませた、飢えた獣の形相。そしてその背後で、自らの食い扶持が途絶えることを恐れ、彼女を部品として回収しようと色めき立つ、寄生虫のような臣下たちの浅ましい群れ。

 

 扉の向こう側から、掠れた、だが裁きの宣告のように研ぎ澄まされた彼女の声が再び響く。


 (……不整合だわ……。その……感情の、過剰な……不純物……)


 その言葉は、レナートの魂の最も暗い、自分でも目を背けていた深淵を正確に射抜いた。

 彼女は、死の淵にあるような高熱の中でさえ、この廊下に漂う浅ましい欲望を不整合として、排除すべき致命的なエラーとして裁いていたのだ。彼が愛だと信じて疑わなかった情熱は、彼女の精緻な世界においては、ただ思考の整合性を阻害し、秩序を乱す、不快極まりない騒音に過ぎないという、絶望的な事実である。


 「……僕は」


 レナートは、自らの手が震えていることに気づく。その手は、彼女を抱き上げるための慈愛の手などではなく、彼女の自由を奪い、己の檻へと引きずり込むための、寄生獣の鉤爪であった。

 

 「パンが焼けない、兵が飢える……。その責任のすべてを彼女一人に背負わせ、その命が尽きようとする瞬間にさえ、自らの利便性のために彼女を回収しようとする。殿下、貴方という存在こそが、彼女にとって最も『吐き気のする』騒音であることを、いい加減に理解なさいませ。貴方がここに留まる一分一秒が、彼女の命を削る研磨剤となっているのですのよ」


 エルメリンダの追及は、止まらない。

 

 「彼女が求めているのは、貴方の隣という名の監獄ではなく、純白のシーツと、誰にも邪魔されない無音の闇だけ。それを奪おうとする者は、たとえ次期国王であろうとも、わたくしがこの屋敷から『不要なゴミ』として、速やかに排除いたします。たとえこの場でわたくしの心臓が止まろうとも、この一線だけは、貴方のような不純物には一ミリたりとも越えさせませんわ。彼女の安眠は、王国の存亡よりも、貴方の愛よりも重いのです!」


 レナートの膝が、屈辱と自己嫌悪の重みに耐えかね、床に砕け散るように落ちた。

 王族としての重厚な外套が、今は泥に塗れた囚人服のように重く、彼を締め上げる。

 自分が彼女を守るという言葉がいかに滑稽で、傲慢であったか。自分こそが、彼女を壊し、彼女の人生を収奪し続けてきた真犯人であったという、救いようのない加害の自覚。彼が愛だと思っていたものは、彼女の尊厳を削り取って作られた、己の自尊心の飾りに過ぎなかったのだ。

 彼女の不在という暗転した舞台で、彼は初めて、自分が何一つ生み出せない空虚な存在であることを突きつけられた。


 「……引け。全員、ここから立ち去るのだ」


 絞り出すような、掠れた命令。

 それは、彼女を管理するためではなく、自分という醜悪な『不整合』を、彼女の視界から、その聖域から排除するための、彼が人生で初めて下した、真にセレスティーナの尊厳を守るための決断でもあった。


 レナートは、涙で歪む視界の中で、沈黙を守り続ける扉を見上げた。

 扉の向こう側で眠る彼女の、たった一滴の平穏。それを守るために、彼は今、自らの王冠に刻まれた傲慢さを捨て、声もなく、魂を削るような慟哭を上げるのであった。その背中には、もはや次期国王としての輝きはなく、ただ自らの罪に打ちひしがれた、一人の愚かな男の影だけが、冷たい廊下に長く伸びていたのだ。

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