第028話 熱に浮かされるわたくしを連れ去ろうとする殿下の執着は目障りですわ
アデレイド家の寝室の扉。
それは今、この王国において最も強固で、かつ最も危うい、二つの世界を分かつ絶対的な国境となっていた。扉の向こう側。そこは、王国の執務を、物流を、ひいては数百万の民の生命線を一人で回し続けてきた超人的な知性、セレスティーナ・アデレイドが、初めてその活動を停止させた沈黙の聖域である。
厚い扉一枚を隔てたこちら側では、国家の重鎮たちが、彼女を失う恐怖に荒い吐息を漏らしている。王宮から派遣された使者たちは、自分たちの無能を棚に上げ、ただ一人の少女の不在に怯えていた。彼らにとって、彼女が意識を失っている一分一秒は、そのまま国家予算の消失であり、自らの地位を脅かす致命的な損失であった。
「どきなさい、エルメリンダ嬢!」
王宮筆頭侍従の声が、静謐な廊下に響き渡る。
「これは正妃ヘレナ様の、そしてレナート殿下の直命である! セレスティーナ嬢を今すぐ王宮の特等室へ移送し、最高水準の医療と国家の厳重な管理下に置く。王国の計算機たる彼女を、このような地方貴族の薄暗い寝室に放置しておくなど、万死に値する怠慢である!」
侍従が放つ言葉は、焦燥と恐怖に焼き切れた断末魔に近い。
彼の背後には、金貨数千枚分の価値がある希少な薬草を詰め込んだ重い薬箱を抱え、まるで貴重な部品を回収に来た技師のような顔をした医師団が控えている。そして、力ずくでの移送をも辞さぬ構えで、重苦しい鎧の音を反響させている近衛騎士たちが数名、廊下を埋め尽くす圧迫感を持って控えていた。
彼らにとって、セレスティーナの不在は、そのまま自分たちの生活基盤が崩壊するという、文字通りの死活問題でもあるのだ。
彼女が判子を押さない。ただそれだけで、彼らの給与も、明日食べるための糧食の調達も、騎士団の軍馬の飼料さえもが、凍りついたまま動かない。彼らにとってセレスティーナ・アデレイドは、敬うべき令嬢でも血の通った人間でもなく、自分たちの無能な生活を維持するための機能に過ぎないのだ。その身勝手な生存本能が、静寂を何よりも好む主の枕元へ騒音を撒き散らしている。
だが、その扉の前には、一歩も退かぬ親友がいた。エルメリンダ。彼女が手にしているのは、魔法の杖でも、名工が打った聖剣でもない。ただの、使い古された箒である。
「お断りいたしますわ」
エルメリンダが箒を構えて仁王立ちした瞬間、廊下の空気は物理的に圧縮された。数多の戦場を潜り抜けてきたはずの近衛兵たちさえもが、自らの喉を締め上げるような威圧感に、冷や汗を流して立ち往生した。
「たとえ王妃様の命であろうと、今のセレスティーナを、あの騒々しいだけの監獄へお連れさせるわけにはいきません」
彼女の視線は、侍従たちが掲げる偽りの大義を冷たく射抜いていた。
「今、必要なのは、名医の処方箋でも、殿下の重苦しい愛の囁きでもございません」
エルメリンダは、一歩も引かずに言葉を重ねる。
「ましてや、国家の存亡という名のくだらない責任感でもございませんわ。誰にも邪魔されない、静かな、純粋な休みだけでございます」
彼女は廊下の床を指し示した。
「それを理解できぬ無能な方々に、この扉の向こう側を覗く資格など、万分の一秒たりともございませんわ。彼女を連れ出したいのなら、まずは私の心臓を止めてからになさいませ」
エルメリンダの瞳には、絶対的な拒絶が宿っていた。彼女の足元、床のタイルには、今朝彼女自身が誇りを持って磨き上げた一本の目に見えない線がある。それは彼女にとって、王国の法や神の教えよりも重い、親友の尊厳を守るための絶対不可侵の国境線なのだ。
彼女は知っている。セレスティーナがどれほどの深夜まで、血を吐くような思いで書類の山と戦い、脳髄を磨り減らしながら、この寄生虫のような大人たちが食い繋ぐための手配を続けてきたかを。その超人的な献身を当然の義務として、あるいは便利な設備として収奪し続けてきた連中が、今さら自分たちの保身のために彼女の身を案じるなどという欺瞞。それをエルメリンダの誇りが、そして彼女の持つ正義が、断じて許さなかった。
「エルメリンダ、分をわきまえろ! 身の程を知れ!」
侍従が再び怒鳴る。
「彼女がいなければ、この国は明日、パンを焼く火さえ失い、暗闇に沈むのだぞ!」
「パンが焼けないのなら、ケーキを食べればよろしいのではなくて?」
エルメリンダは即座に言い放った。
「……あら、失礼。そんな無能で非論理的な言い訳、セレスティーナなら鼻で笑うでしょうね」
彼女は冷徹な事実を突きつける。
「パンが焼けないのは、貴方たちが彼女一人の指先に国家のすべてを背負わせ、自ら考えることを止めた結果ですわ。その莫大な報いを、今この瞬間に病床にある彼女の眠りを削って支払わせようなど、恥を知りなさいませ!」
彼女の言葉は、飾りのない刃となって相手を追い詰める。
「貴方たちが今抱えている焦燥、それこそが、あの方が日々一人で処理していた重圧の、たった一欠片に過ぎないということを理解なさいな!」
エルメリンダの追及は止まらない。
「彼女を救いたいのではない、自分たちの便利な道具が壊れるのを恐れているだけでしょう! その醜い所有欲を、医療や慈悲という言葉で飾り立てるのはお止めなさい。不整合すぎて、耳を汚す騒音でしかございませんわ!」
一歩も引かぬ彼女の気迫に、近衛兵たちが気圧されて後退する。そこへ、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「道を開けろ」
現れたのは、レナート殿下であった。
「僕が直接、彼女を迎えに行く。彼女を癒やし、守ることができるのは、この国の次期国王である僕だけだ」
その顔は、獲物を奪われることを恐れる飢えた獣のそれに近い。彼の瞳には、高熱で弱り、無防備になっているはずのセレスティーナを、そのまま自分の腕の中へ囲い込み、一生外の世界から遮断してしまいたいという支配欲が渦巻いているようだ。彼にとって、セレスティーナの病は、彼女を完全に依存させるための好機に他ならなかった。
「……殿下」
エルメリンダの声が、温度を失う。
「それ以上進まれるなら、不敬罪を覚悟で、その高い鼻をこの箒の柄で叩き折らせていただきますわ」
レナートは足を止めた。
「セレスティーナが、昨晩、うなされながら何を仰っていたか、ご存知ですか?」
エルメリンダは、王位継承者の瞳を真っ向から見据えた。
「『殿下の独占欲は、吐き気がする』……と」
その言葉は、レナートの胸を突き刺した。
「貴方の重すぎる執着は、彼女にとっては癒やしでも何でもなく、ただ積み重なるだけの、不純物でしかないのです」
彼女は最後通牒を突きつける。
「彼女が求めているのは、貴方の隣ではなく、真っ白なシーツの中の完全なる静寂だけ。それを奪おうとする者は、たとえ次期国王であろうとも、わたくしがこの屋敷に不要なゴミとして、速やかに排除いたします」
殿下の顔が、衝撃で蒼白に染まる。その時、厚い扉の向こう側から、掠れた声が届いた。
(……不整合だわ)
セレスティーナの、意識の混濁さえもが裁きへと昇華された声であった。
(……王宮の、押しつけがましい情熱、過剰……。……検閲、しなさい……)
病床にありながら、彼女はこの世界の無駄を断じて許さない。
(……無駄、な、騒ぎは……インクの、無駄、ですわ……)
彼女の意識は、熱に浮かされながらもなお、廊下に漂う浅ましい欲望のすべてを排除すべき汚れとして仕分けし、自らの平穏を脅かすノイズを、思考の底から抹消し続けていたのである。
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