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搾取令嬢は二度と騙されない ~嘘を見抜く左目で、すべてを取り戻します~  作者: 第三ひよこ丸


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第027話 黒く深いインクの涙が照らし出すのは、十四歳の少女一人の肩に寄りかかって生きていた、醜き大人たちの真実でございます

 インクの香りが染み付いた財務局の廊下を、革靴が叩く音が異常な速さで響き渡っていた。

 普段ならば、針が落ちる音さえ憚られるこの聖域は、今や崩れ落ちる寸前のダムのような、底知れぬ震えに包まれている。

 

 すべてが狂い始めたのは、今朝、一通の使いが財務局の門を叩いた瞬間からであった。常に誰よりも早く登庁し、冷たい算盤の音で王国の朝を告げていたセレスティーナ・アデレイドが、あまりの高熱により本日の出勤を見合わせるという、極めて異例な、しかし純然たる事実。それは、鉄の規律を誇るこの組織にとって、王国の心臓が止まったも同然の宣告であった。

 

 彼女は生死の境を彷徨っているわけではない。ただの風邪であり、ただの熱である。だが、その『ただの体調不良』が、この国のすべてを狂わせるには十分すぎる猛毒となったのである。


 「……嘘だと言ってくれ。これでは、これでは何も動かせんではないか!」


 財務局局長、ゼノス・ヴァン・クライン伯爵は、執務机の上に広げられた一枚の紙を見つめ、自身の歯の根が合わぬ音を聞いていた。

 

 そこにあるのは、セレスティーナが昨日までに整えた、本日の支払実行命令書である。

 だが、その右端にあるはずの、彼女の小さな指先が押した判子がない。いつもなら寸分の狂いもなく押されているはずのその赤い印が、彼女の意識が熱に沈んだことで、空白のまま残されている。たったそれだけのことが、王国の血管をせき止める巨大な岩と化していた。財務局の金庫を開けるための最終的な承認権限、それはセレスティーナという”個”の存在に完全に依存していた。彼女が首を縦に振らぬ金は一銭たりとも動かず、彼女の判子が押されぬ紙は、ただの燃え滓にも劣るゴミと化す。それが彼女の築き上げた、絶対的な秩序の代償であった。


 「局長! 港の商会から連絡が来ております! 『セレスティーナ様の判子がない保証書など、ただの落書きだ。今すぐ小麦を船から下ろすのを止めろ』と。……このままでは、明日の朝には王都からパンが消えます!」


 一人の局員が、今にも泣き出しそうな顔で飛び込んできた。その手にある報告書は、一通や二通ではない。

 さらに別の局員が、重い書類の束を抱え、息を切らしながら言葉を継ぐ。


 「局長! こちらにも! 騎士団の馬の飼料、買い付けの許可が下りておりません!業者が『あのお嬢様の目が届いていない契約は、後で何を言われるか分かったものではない。一粒の麦も渡さん!』と、蔵を閉めてしまいました! 彼らは知っているのです、彼女の判子がない取引は、後で必ず不備を見つけ出され、倍の額を絞り取られることになると! あの子の目が光っていない隙に得をしようなどと考える商人は、この国には一人も存在しません!」


 次々と飛び込む悲鳴のような報告に、ゼノスの額からは脂のような汗が滴り落ちた。

 彼ら大人の役人は、これまでセレスティーナがどれほど多くの無駄を削ぎ落とし、最短距離で金を回していたかを、その不在によって初めて突きつけられたのである。

 その時、財務局の重厚な扉が、警護の制止を振り切るような凄まじい勢いで跳ね飛ばされた。


 「ゼノス! 返答なさい! セレスティーナはどうしたというのです!」


 現れたのは、正妃ヘレナであった。その瞳には、いつもの完璧な微笑みなどは欠片もなく、まるで自らの目をもぎ取られたかのような焦燥が燃え盛っている。

 彼女にとってセレスティーナは、王宮の不正を監視し、自らの権威を盤石にするための、一生離さぬと誓った最高級の資産に他ならない。肥料代の不正を暴き、大臣たちを黙らせたあの幼き指先が、今、熱に震えて止まっているという事実に、彼女は耐えがたい損失感を感じていた。


 「母上、落ち着いてください。……局長、彼女の容体は。今すぐ、この僕が直接、彼女を王宮の特等室へ運ばせる。あんな埃っぽい場所で寝かせておくなど、あり得ないことだ!」


 後に続いたレナート殿下の声は、病的なまでの独占欲に震えていた。その知性を王冠よりも尊いと称えた少年は、今、彼女が自分の手の届かない熱という領域に籠もったことに、本能的な恐怖を感じていた。彼にとってセレスティーナのいない王宮は、価値のない、がらんどうの器に過ぎない。君がいない王宮など私には耐えられないと豪語したあの熱量は、今や、彼女を物理的に王宮という名の繭へ閉じ込めようとする、暴走した守護欲へと変質しているのだ。


 「殿下、王妃殿下……。あの子は今、ただの高熱で休んでいるだけです。ですが、あの子が正しいと言えば、石ころでも金貨に変わる。彼女がいない今、この国の金庫の中身は、ただの重たい金属の塊に過ぎない。彼女が起きて、判子を押してくれない限り、我々には一銭も取り出すことはできないのです」


 ゼノスは、窓の外を指差した。

 いつもならば、セレスティーナが燃やす恋文の煙で、暖かな熱を帯びているはずの王宮。だが、今日の煙突は冷え切り、空には冬の重たい雲が垂れ込めている。


 「ご覧なさい。あの子が算盤を弾くのを止めただけで、王宮の熱は消え、街のパンは消え、兵士の武器は錆びる。彼女は、ご自身の若さも、眠りも、すべてをこの冷たいインクの中に溶かして、私達を支えていた。皆様が無駄遣いと呼んで笑っていた一銭一銭を、彼女が血を吐くような思いで守り抜いていたからこそ、皆様は今日まで、優雅にお茶を飲んでいられたのです!彼女がお茶会で啜った一杯の茶の代価は、今、この国が支払っているこの混乱という名の負債によって証明されている!」


 ヘレナ王妃は、言葉を失ってよろめいた。彼女が愛でていたのは、可愛らしい令嬢ではなく、この国そのものを支える巨大な柱であったことを、今さらながら突きつけられたのだ。自分たちが着ている絹の服も、すべてはあの小さな机の上で、少女が目を充血させながら計算し、生み出した余裕から作られていた。


 

 財務局の外では、さらに事態が悪化していた。

 支払いが止まったことで、王宮に野菜を運ぶ農夫たちの列が止まり、兵舎では食事が半分に減らされた。街の広場では、お金が回らなくなったことに不安を感じた商人たちが店を閉め始めている。たった一人の少女が熱を出した。その事実が広がるにつれ、王国という巨大な体からは、みるみるうちに力が失われていった。算盤の音という鼓動を失った巨人は、ただ倒れ伏すのを待つだけの死体に等しい。


 「だめだ……もう、終わりだ。あの子がいない世界で、どうやって明日を迎えればいいのか、誰にも分からないんだ」


 局員たちが次々と筆を置き、頭を抱えて座り込む。

 王妃も王子も、そして局長も、今や一つの真実の前に震えていた。

 この王国を支配しているのは、王の血筋でも、騎士の剣でもない。

 十四歳の少女が、執務机の上で弾く、冷たい算盤の音だったのだ。


 「急ぎなさい! 国中の名医を、いえ、魔法使いでも、お祈りをする人でもいい! 私のセレスティーナを、あの子を今すぐ、治療に向かわせなさい! あの子が目覚めぬ限り、明日、この国に陽が昇ることはありません!」


 ヘレナの絶叫が、冷え切った財務局の天井を突き抜け、寒空へと消えていった。

 主を失った玉座のように、セレスティーナの空っぽの執務机だけが、窓から差し込む冬の光を、冷たく跳ね返している。

 机の上に残された一瓶のインク。それは、まるであの少女が最後に流した涙の跡のように、黒く、深く、静かに輝いていたのである。

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