第002話 お兄様と両親がピュアすぎて、私の左目が過呼吸です
ヴィンセント王子を『五歳児の純粋な正論』という名のボロ布で叩いて追い払った後、私は激しい胃の痛みに襲われていた。
誕生日パーティーの主役という立場を忘れ、庭園の隅にある東屋に逃げ込んだ私は、手近な果実水を一気に煽る。冷たい液体が喉を通っても、左目の疼きは一向に収まる気配がない。それどころか、視界に入る招待客たちの頭上に、雨後の筍のごとく『どす黒い吹き出し』が乱立し、私の網膜を暴力的に侵食していた。
(……地獄。ここは地獄の饗宴会場だわ。あっちの侯爵夫人は【あのアデレイド伯爵の奥方、天然すぎて扱いやすいわ。今度偽物の装飾品でも売りつけようかしら】だし、こっちの若手貴族は【伯爵家の嫡男を賭場に誘って、借金漬けにして領地を切り取ってやろう】だなんて。もう、視覚情報だけで吐き気がする!)
前世の私がそうであったように、このアデレイド伯爵家という場所は、善人という名の獲物を太らせるための巨大な養殖場と化していた。お父様とお母様は、清らかな心を持ち、困っている人を放っておけない慈愛の塊だ。そして二歳年上のお兄様であるエドワードも、その血を色濃く継いて、道端の石ころにさえ『転ばないように気を付けてね』と声をかけかねない、度を越した聖人君子である。前世の私、松瀬結衣がそうだった。他人の笑顔が見たくて、嫌われたくなくて、差し出される言葉をすべて善意だと信じ込み、最後には骨の髄までしゃぶり尽くされて、冷たい線路の上で一生を終えた。
(そんなこと、私が、いや松瀬結衣が二度も許すはずないでしょ!)
過酷な労働環境で培った唯一の財産は、悪意への過敏すぎる嗅覚と、不利益を回避するための鉄の防衛本能だ。私が決意を新たに立ち上がった瞬間、東屋の入り口から、この汚泥にまみれた会場には不釣り合いなほどの、光り輝く純粋さが飛び込んできた。
「セレスティーナ!こんなところにいたのか。探したよ」
そこに立っていたのは、私のお兄様、エドワード・アデレイドだった。金色の柔らかな髪を揺らし、一点の曇りもない碧眼を細めて笑うその姿は、まさに天使そのもの。だが、私の左目が捉えた彼の吹き出しは、ある意味で王子よりも絶望的な色をしていた。
【セレスティーナが元気そうで良かった!さっき庭の向こうで、立派なお髭の伯爵が『貧しい子供たちの学校を建てるのに、伯爵家の紋章が入った保証書があればすぐにお金が動かせる。身寄りのない子たちが救われるんだ』って熱心に教えてくれたんだ。なんて素晴らしい話だろう!お父様に相談して、僕の貯蓄も全部使ってもらわなきゃ!】
(過呼吸……!左目が、左目が過呼吸を起こしてるわ!)
私は目頭を押さえ、崩れ落ちそうになる膝を必死で支えた。お兄様はまだ一言もその話を私に話していない。けれど、彼のあまりに純粋な本音が、直前に吹き込まれた悪意ある提案をそのまま左目に鮮明に映し出していた。お兄様、それ、百パーセント詐欺です。貧しい子供たちの学校ではなく、悪いおじさんのための豪華な別荘が建つだけです。前世で、そのような社会貢献を騙る詐欺を嫌というほど見てきた私が言うのだから、間違いありません。
「お、お兄様……。あちらにいらっしゃる、立派な髭のおじさまと仲良くなられたの?」
私は、お兄様の視線の先にいた、いかにも成金趣味な装身具を身につけた男を指差した。
「えっ、どうしてわかったんだい? まだ誰にも話していないのに、やっぱりセレスティーナは不思議な力を持っているんだね! そうなんだ、あの人はトンプソン伯爵と言って、教育の支援をしている立派な方なんだよ」
無邪気に笑うお兄様の手を引き、私はその男へと歩み寄る。私の左目には、その男の吹き出しが、まるで腐敗した沼のようにどす黒く渦巻いているのが見えていた。
【くくく、あの小僧は仕留めた。あとは伯爵に保証書の署名をさせるだけだ。昨日他所から横領して懐に隠し持っている金塊も、この家の資産に混ぜて洗浄してしまえば、俺の罪は一生闇の中だ。学校など建てるわけないだろう。アデレイド家など、俺の犯罪の掃き溜めにちょうどいいわ!】
(……図星。やはり裏があるわね。学校は虚偽で、本命は横領金の隠蔽と、うちの伯爵家を犯罪の片棒に担がせることね。アデレイド家の名を使って資金を動かせば、捜査の目はすべてうちに向く……。なんて極悪非道な寄生虫かしら!)
私は、五歳の令嬢としての最大限の愛らしさを装いながら、男の前に立った。
「やあ、可愛らしいお嬢さん。お誕生日おめでとう。私はトンプソンと申します。エドワード様から、貴女がいかに聡明かをお聞きしていましたよ」
男が恭しく跪き、私の手を取ろうとする。その掌からは、強欲な思考が左目を通じて熱を帯びて伝わってくるようだった。
「おじさま、こんにちは! わたくし、お兄様の代わりに学校のお話を聞きに来ましたわ!」
「なっ……!なぜそれを……エドワード様、もうお話しされたのですか?」
男が驚愕して兄を見るが、お兄様は目を白黒させて首を振っている。
「おじさま、そんなに驚かないで? わたくし、今日のお誕生日のお祝いで、とっても『特別で見通しのいい望遠鏡』をいただいたのですわ」
私は男の瞳を真っ直ぐに見つめ、周囲の貴族たちにも聞こえるような、鈴を転がすような、けれど芯に冷徹さを秘めた声で告げた。
「その学校ができる場所は、どこにありますの? わたくし、そこを見てみたいですわ。おじさまの懐の中にある、金塊の形をした子供たちが住んでいるのかしら? 真っ黒な煙が、おじさまの衣の影からお空まで繋がっていますわよ?」
男の吹き出しが、一瞬にして恐怖の色、鮮血のような真っ赤に染まった。
【ヒィィ!なんだこの子供の目は! まるで俺の懐の中身を直接覗いているみたいじゃないか! 金塊だと?昨日横領して、今まさにここに隠し持っている金のことを言っているのか!?なぜ露見した!?】
「あ、いや……それは、これから計画を具体的に……その、場所はまだ選定中でして……」
「お兄様、このおじさま、お顔がとっても怖くなってしまいましたわ。きっと、おじさまのお話は、わたくしたちが大人になるまで終わらない、長ぁい長ぁいおとぎ話なのですわね。お兄様の大切なお金は、そんな夢の中のお話ではなく、もっと、目に見えるところに使いませんこと?」
私はお兄様の顔を見上げ、無邪気に首を傾げた。
「たとえば、お家の庭を直してくれる庭師さんや、毎日おいしいご飯を作ってくれる料理人さんに、特別な給金という名の『いつもありがとう』の気持ちを倍にするのはいかがかしら? それなら、わたくしも、幸せが見えますわ!」
「セレスティーナ……!そうだね、君の言う通りだ。僕は遠くばかり見て、身近な人たちのことを忘れていたよ。おじさん、ごめんね。僕、やっぱり身近な幸せを優先することにしたよ。君が言うような、おとぎ話みたいな話は、僕にはまだ早すぎたみたいだ」
お兄様は眩しい笑顔で、不届きな者に別れを告げた。詐欺師の男は、顔面蒼白で泡を食ったようにその場から逃げ出していった。周囲の貴族たちは、『さすがアデレイド家の令嬢、幼いながらも本質を見抜く力をお持ちだ』と、勘違いの称賛を送り始める。
だが、私の戦いは終わらない。ふと視線を上げれば、庭園の中央でお父様とお母様が、怪しげな宗教家のような、白装束に身を包んだ男に囲まれ、『この壺を買えば、家族の絆が深まる』という、あまりに古典的で粗末な詐欺話に涙を流して感動しているのが見えた。すでにお父様のペンは、契約の書の上で踊りそうになっている。
(……おまけでもらったこの左目、使用頻度が想定の五億倍くらいになりそうです。二十六年の過酷な経験、今世ではすべて家族の防衛のために注ぎ込みます。倒れたら、今度こそ相応の補償を申請させてくださいね!)
私は、前世で培った執念を燃やし、次の不逞の輩の排除……もとい、家族の守護へと駆け出したのだった。
二度目の人生、開幕。私は絶対に、家族も、領地も、それから自分自身の平穏な老後も、一分たりとも奪わせない!
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




