第025話 宮廷温室の包囲網は、見知らぬ令嬢たちの無垢な憧憬と親友の余計なお節介で構成されています
鼻腔を突くのは、慣れ親しんだ古い紙の匂いでも、指先を汚す鉄紺のインクの香りでもない。
呼吸をするたびに肺の奥まで侵食してくるのは、百花繚乱の温室が吐き出す、噎せ返るような花の精気と、甘ったるい蜜の芳香だった。
わたくし、セレスティーナ・アデレイドは、無意識のうちに右手を動かし、そこに存在しないはずの算盤を求めて空を掻いた。
指先が触れたのは、硬質な黒檀の珠ではなく、繊細な刺繍が施された絹のテーブルクロスと、あまりに華奢で、力を入れれば容易に砕けてしまいそうな白磁の器だ。
「さあ、セレスティーナ様! そんなに眉間に皺を寄せていては、せっかくの最高級の茶葉が泣いてしまいますわ! 今日は財務局の鬼神としての顔は、その算盤と一緒にどこかの金庫に預けてきていただいたはずですもの!」
唯一の親友であるエルメリンダ・ロートレックが、弾むような声でわたくしの思考を遮る。
彼女の隣には、わたくしがこれまでの人生で関わるはずのなかった存在――学院に通う、三人の見知らぬ令嬢たちが並んでいる。
エルメリンダの学院での友人だという彼女たちは、わたくしという異分子を前にして、まるで珍しい異国の宝物を検分するかのような、好奇心に満ちた眼差しを向けていた。
十歳から鉄と数字の壁に守られた聖域で過ごしてきたわたくしにとって、彼女たちの纏う淡い色彩のドレスは、理解を拒む極彩色の迷宮に他ならない。
「お会いできて光栄ですわ、セレスティーナ様。エルメリンダ様からいつも伺っておりますの。貴女様がどれほど峻烈で、どれほど鮮やかにこの国の難題を切り伏せていらっしゃるか。わたくし、今日という日を指折り数えて待っておりましたのよ」
小首を傾げて微笑むのは、マリエルと名乗った侯爵令嬢だ。
彼女の言葉に毒はなく、左目が捉える【本音】も、恐ろしいほどに澄み渡っている。
【わあ、本物のセレスティーナ様だわ。まるでお伽噺の騎士様のように凛々しくて素敵。冷たい目で見つめられると、なんだか背筋が伸びる思いだわ】
わたくしは思わず、持っていたカップを置く手がわずかに揺れた。
これまで対峙してきた輩の【本音】は、常にどす黒い欲や保身に塗れていた。
それらを暴き、再計算の刃で切り裂くことこそが、わたくしの日常だった筈。
だが、この令嬢たちの心の声には、計算すべき損得が一切存在しない。
ただ、エルメリンダが語った『格好良くて少し不器用な親友』に対する、無邪気な憧れだけが溢れているのだ。
「……マリエル様、過分な評価に痛み入りますわ。ですが、わたくしはただ、職務を効率的にこなしているに過ぎません。皆様が享受していらっしゃるような、華やかな学院生活とは無縁の身ゆえ、気の利いた会話の一つも持ち合わせておりませんの。エルメリンダ、貴女という人は、どうしてわたくしをこのような場に引き摺り出したのかしら」
わたくしが牽制を込めて親友を睨むと、エルメリンダは不敵な笑みを浮かべた。
「あら、それはもちろん、セレスティーナ様に可愛いものが必要だと思ったからですわ。数字ばかりを食べていては、心が鉄板のように硬くなってしまいますもの。ほら、見てくださいな。この焼き菓子、学院のそばの職人が特別に仕立てたものですのよ。一口召し上がれば、どんな難解な公文書も甘い旋律に聞こえるはずですわ!」
彼女の差し出した、小さな花を象った焼き菓子。
わたくしが戸惑いながらもそれを口に運ぶと、口内に広がるのは、甘美な砂糖の熱と、春を煮詰めたような芳醇な香りだった。
美味しい、などという単純な形容辞は、わたくしの語彙目録からはとうに削除されていたはずだった。
しかし、その一口が喉を通り過ぎるたびに、胸の奥に張り付いていた冷たい澱が、少しずつ溶け出していくのを認めざるを得ない。
「セレスティーナ様、これもお試しになって。わたくしが昨晩から用意した、秘伝のハーブティーですわ。お疲れの時には、これが一番効くのですもの」
今度は、隣に座る別の令嬢が、わたくしのカップに薄紅色の雫を注ぎ込む。
彼女たちの【本音】が、重奏のように重なり合ってわたくしの頭の中に響いた。
【少しだけでも笑ってくださるかしら。あんなに細い指で国を支えていらっしゃるなんて、同じ十四歳として誇らしいわ。もっと仲良くなりたいけれど、失礼にならないかしら?】
眩暈がしそうだった。
敵意がない。
策謀がない。
ただ、隣に座る同じ年頃の少女として、時間を共有したいという、その一点のみで構成された空間。
わたくしが財務局という断崖に立った日から、決して手に入らないと諦めていた『もしも』の時間が、今、目の前で色鮮やかに展開されているのだ。
「……不思議ですわね。皆様の会話には、王国の予算案を揺るがすような一厘の重みも、政争の道具としての含みもございません。ただ、あのお店のケーキがどうだとか、次の舞踏会のドレスの刺繍がどうだとか。そのような不確定で、一時的な事象に、これほどの情熱を注げるなんて」
わたくしが困惑を露わにすると、令嬢たちは一斉に顔を見合わせ、鈴を転がすような笑い声を上げた。
その響きには、わたくしを嘲笑うような意図は微塵も含まれておらず、ただただ、温かな共感が込められていた。
「それがわたくしたち、十四歳の淑女の職務ですもの。セレスティーナ様、世界は数字だけでできているわけではありませんわ。時には、理由のない美しさや、意味のない笑い声が、何よりも強く心を支えることもあるのです。ねえ、エルメリンダ様」
エルメリンダは満足げに頷き、わたくしの手をそっと握りしめた。
その掌の体温が、ペンを握り続けて硬くなったわたくしの指先に、かつてない柔らかな衝撃を伝える。
「そうですわ、セレスティーナ。貴女はいつも一人で、誰よりも高い場所から世界を見ていらっしゃる。でも、たまにはこうして、わたくしたちの隣まで降りてきてくださってもよろしくてよ。誰も貴女を咎めはしません。だってここは、貴女を愛する者たちだけが許された、特別な聖域なのですから」
左目が捉えたエルメリンダの【本音】。
【貴女を守りたいのよ、セレスティーナ。数字の檻の中に閉じこもる貴女に、外の世界の温かさを教えたい。いつか貴女が本当の恋をしたり、心から笑ったりできる日のために、わたくしは何度でも、貴女の鉄の門を叩き続けるわ】
不覚にも、視界がわずかに潤むのを感じてしまった。
わたくしの鉄の理性が、彼女たちの無邪気な包囲網によって、跡形もなく溶かされていく。
論理的ではない。
効率的でもない。
だが、この温室内を流れる空気は、これまで吸い込んできたどの帳簿の香りよりも、わたくしの肺を深く、優しく満たしていく。
「……皆様、本日のお招きに感謝いたしますわ。わたくし、このような場での振る舞い方は未だに心得ておりませんが。この甘すぎるお菓子を、もう一ついただいてもよろしいかしら」
わたくしの精一杯の歩み寄りに、少女たちの笑い声はさらに高まった。
エルメリンダが楽しげに次の茶を注ぎ、マリエル様が最新の刺繍の図案を広げる。
そこには、財務局の官吏でも、将来の王妃候補でもない、ただのセレスティーナという少女が、確かに存在している。
日は少しずつ傾き、温室の影が長く伸び始める。
だが、わたくしたちの周りだけは、止まった時間のように黄金色の光が満ちていた。
算盤の音のない午後。
数字のない会話。
それらがこれほどまでに心を揺さぶるものだとは、どんな教本にも記されてはいなかった。
「セレスティーナ様、次は学院の図書館へご案内いたしますわ!あそこには、きっと貴女様が驚くような、古い計算の魔導書も眠っていますのよ」
「あら、それならわたくし、中庭の秘密の抜け道を教えますわ。あそこなら、殿下の目も届きませんもの」
次々に飛び出す魅力的な、そして無茶苦茶な提案の数々。
わたくしは、もう一度だけ深いため息をついた。
この不条理で、愛おしい友人という名の変数。
それを自分の人生という帳簿にどう書き込むべきか、答えはまだ出ていない。
だが、少なくとも今この瞬間だけは、再計算など必要ないのだと、わたくしの心は静かに告げていた。
温室を去る際、わたくしはこっそりと、エルメリンダの耳元で囁いた。
「……エルメリンダ。今日のお茶の代金は、わたくしの私費から、とびきりの返礼品として支払わせてもらうわ。覚悟しておきなさいな」
「あら、それは楽しみですわ!利息はたっぷりつけてくださいませね、セレスティーナ様!」
親友の悪戯っぽい笑みを背に、わたくしは再び財務局へと戻る道を歩み始める。
足取りは、先ほどよりも不思議と軽かった。
夜の帳が降りる頃、わたくしの執務室には、再び算盤の乾いた音が響くだろう。
だが、その音色にはきっと、今日手に入れた春の陽光が、一筋だけ混じっているはずなのだ。
鉄の乙女の心に、消えない火を灯した少女たちの円舞曲。
それは、王国の未来という巨大な物語の中で、最も小さく、それでいて最も鮮やかな一頁として、わたくしの記憶に刻まれたのである。
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