第021話 社交界デビューへの最短距離は、鉄の棒のような体幹と、思わぬ笑い声の先にありました
財務局という、鉄とインクと乾燥した羊皮紙に囲まれた檻の中で、わたくしの十三歳の春は過ぎ去ろうとしていた。
本来であれば、年相応の令嬢たちと学院の温室で花の色を愛で、流行の刺繍に心を躍らせるべき時期。
しかぁーし、運命の算盤が弾き出した解は、徹底した実務という名の日常なのだ。
わたくしにとって、世界とは表に並ぶ数字の正しさであり、幸福とは一分の狂いもない安眠に他ならない。
社交界などという、香水の臭いと見栄の塊のような空間に、わたくしの貴重な睡眠時間を割くなど、無駄以外の何物でもない。
だが、そんな数字の城に立て籠もるわたくしの前に、突如として立ちはだかったのが、十五歳の成人で迎える社交界デビューという、回避不能な国家的行事である。
「セレスティーナ殿。君の頭脳が王国至宝の演算機であることは疑いようもない。だが、王宮の床で一歩も動けぬ石像のように立ち尽くすわけにはいかんのだ」
ゼノス財務局長が、胃薬を流し込みながら絞り出したその言葉。
その背後で、局長はこのような悲壮な怯えを抱いていた。
【あぁ、彼女を無理やり舞踏室へ送り込めば、後でどのような理詰めのお返しを受けるか分かったものではない。だが、陛下からの命令なのだ、許してくれ、セレスティーナ殿!】
局長、貴方のその胃の痛みは、わたくしを無理に運動させることによる自業自得ですわ。
安眠を奪われたわたくしの恨み、たっぷり利息をつけてお返しさせていただきますから。
わたくしが送り込まれた舞踏練習室には、先客が一人の令嬢がいた。
名を、エルメリンダ・ロートレック。
彼女は、わたくしが部屋に入った瞬間、獲物を前にした小動物のように肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で自らの質素なドレスを握りしめていた。
「あ、あの、わたくし、ロートレック家のエルメリンダと申します。踊りが、その、とても苦手でして……。ご迷惑をおかけするかもしれませんわ」
彼女の瞳の奥を覗き見れば、そこには甚だ失礼極まりない恐怖が渦巻いていた。
【あぁ、あの方が噂の財務局の死神令嬢! わたくしの家の家計まで、踊りの最中に調べられてしまうのではないかしら! 怖い、怖いですわ、算盤で叩かれる前に逃げ出したい!】
エルメリンダ様が抱く本音を射抜きながら、わたくしは努めて穏やかに応じた。
「セレスティーナ・アデレイドにございます。エルメリンダ様、ご安心くださいな。わたくしも、舞踏に関しては初心者。貴女の家計に興味を持つ余裕など、今のわたくしの脳内にはございませんわ」
安心なさい、エルメリンダ様。
貴女の家の帳簿など、わざわざ踊りながら確認せずとも、既にわたくしの頭の中では、倒産寸前の要注意先として仕分け済みですわ。
先代が手を出した過剰な領地開発と、度重なる凶作。
それによる借入金の利息が、今のロートレック家の首を絞めていることは、財務局の資料を一度めくれば一目瞭然なのですから。
音楽が奏でられ、老齢の舞踏講師が拍子を取る。
一、二、三。一、二、三。
脳内の算盤は完璧なリズムを刻んでいる。
しかし、現実は非情であった。
「あらっ!?」
「……おっと」
グシャリという、あまり優雅ではない音が室内に響く。
わたくしの右足と、エルメリンダ様の左足が、まるで磁石のように引き寄せられ、無残にも衝突したのだ。
計算外ですわ。
なぜ貴女は今、右斜めの方向に十五センチ移動しなかったのですか。
その無秩序な動き、まさに予測不能な事態ですわ。
「も、申し訳ございません、セレスティーナ様! わたくし、つい足が反対に!」
エルメリンダ様は顔を真っ赤にして謝罪するが、その内面はパニックの極致にあった。
【あぁぁー、やっぱり怒らせてしまったわ! 今の衝撃で、わたくしの家の来期のお金が三割削られるに違いないわ!】
「……いいえ。予測の中に、貴女の緊張による狂いを組み込めなかったわたくしの不徳にございます。考え直しますので、今一度」
屈辱ですわ。
このわたくしが、十三歳にもなって足の運びすら読み違えるとは。
安眠不足で頭が鈍っているのでしょうか、深刻ですわね。
再び音楽が流れる。
今度は、エルメリンダ様が右へ、わたくしが左へ。
完璧に左右が揃うはずのステップ。
しかし、曲調が変わった瞬間、わたくしは自らのドレスの裾を自らの踵で踏み抜くという、あってはならぬ失態を演じた。
「きゃあっ!」
「わわっ!」
支え合おうとした二人の手は空を切り、わたくしたちは絡まり合うようにして、鏡のような床の上に無様に転がった。
物理的な法則の裏切り。
床の滑り具合の見積もりが甘すぎましたわ。
わたくしの優雅なる経歴に、最大級の傷がつきましたわ。
音一つない練習室。
講師の視線が痛い。
わたくしは、乱れた前髪を整えながら、恥ずかしさのあまり頭を抱えた。
十五歳の社交界デビュー、そこで王太子殿下を相手にこのように盛大に転べば、アデレイド家は向こう百年の笑い草。
わたくしの価値が、一瞬で暴落してしまいますわ。
「……ふふっ」
不意に、横から小さな笑い声が聞こえた。
見れば、エルメリンダ様が、お尻をついたまま、口元を抑えて肩を揺らしている。
彼女の本音は、恐怖から一転して明るい色に染まっていた。
【きゃあ! 見て御覧なさい、あの死神令嬢が、まるで跳ねる魚のように転んでおりますわ! あんなに怖い顔をしていたのに、中身はわたくしと同じ、ただの不器用な女の子ですわ!】
「笑い事ではございませんわ、エルメリンダ様。これは国家の威信に関わる重大な過失ですのよ」
「でも、今の転び方、まるでひっくり返った亀さんのようでしたわ!」
か、亀、ですってぇ?
この王国最高の頭脳を、爬虫類と同列に扱うとは。
しかし、彼女の屈託のない笑いに、わたくしの胸の内にあった硬い壁が、僅かに綻びを見せた。
まあ、良いでしょう。
この不出来な事態、笑い飛ばすことで帳消しにできるのなら、それも一つのやり方かもしれませんわね。
わたくしは、思わず口元を緩め、彼女に手を差し出した。
「立ちましょう、エルメリンダ様。次は、転倒を避けるため、互いの足の配置を事前に確認いたしましょう」
「はい! 喜んで、セレスティーナ様!」
それからの練習は、熱を帯び始めた。
「エルメリンダ様、次は右へ。少しだけ歩幅を狭めてくださいませ」
「承知いたしましたわ!セレスティーナ様は、もう少しだけ、力を抜いてくださいな」
「……力を抜く、ですか?」
「ええ、まるで鉄の棒を握っているようですわよ!」
鉄の棒。
わたくしのこの、鍛え上げられた身体を棒切れ扱いにするとは。
エルメリンダ様、貴女、意外と毒舌ですわね。
言い合いながら、それでも二人の足並みは、不思議と噛み合い始めていた。
練習室に、少女たちの笑い声が響く。
それは、財務局の静けさを破る雑音ではなく、新しい日々の始まりを告げる音であった。
結局、その日の練習で完璧に踊れるようにはならなかった。
しかし、帰り際にエルメリンダ様が、少し恥ずかしそうに私の袖を引いた。
その心の奥底に宿る本音は、かつてないほど温かな光を放っていた。
【あぁ、なんて清らかな気持ち! あんなに怖かったセレスティーナ様と、こんなに笑い合えるなんて。この仲を保つためなら、わたくし、お菓子の買い食いも我慢できますわ!】
「セレスティーナ様。わたくし、次のお稽古が、今から楽しみでなりませんの。……また、お会いしていただけますか?」
安眠より価値のあるものを、ようやく見つけたのかもしれない。
わたくしは、彼女の手を優しく握り返した。
「えぇ。次こそは、貴女の不揃いなステップを、わたくしの計算で直して差し上げますわ。……覚悟しておきなさいませ、エルメリンダ様」
夕闇の迫る王都。
馬車に揺られながら、わたくしは自らの掌に残る、自分以外の誰かの温度を思い出していた。
十五歳の成人という期限に向けて、わたくしが積み上げるべきものは、冷淡な数字の並びだけではなかったらしい。
計算機としてのわたくしが、初めて理屈を横に置いた、そんな午後の記録であった。
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