第018話 領民を愛する貧乏伯爵の帳簿に、わたくしは聖者の奇跡を見出しましたわ
完璧に管理された秩序。
これこそが、王国の心臓部たる財務局における最高級の資産であり、私の平穏を担保する絶対条件である。
本来、この執務室は、羽ペンの走る微かな音と、鉄芯入り算盤の珠が奏でる硬質な反響、そして局員たちが極限まで抑えた吐息のみが許される、針の穴を通すような緊張感に満ちた場所であるべきだ。
十三歳となり、王国の動脈を流れる金貨の一枚一枚を監視し、国家という名の巨大な演算機を一人で回し続ける私にとって、午後の微睡みは明日への先行投資であり、回避不可能な固定資産でもある。
しかし、覚醒した私の眼前に広がっていたのは、いつもの淀みない公務の光景ではなく、まるで時間が凝固したかのような、異様な沈黙が支配する空気であった。
「局長様。わたくし、先ほどから執務室の入り口で、石像の如く立ち往生している御方が、どこの帳簿の不整合から迷い込まれたのか、論理的な説明を要求いたしますわ」
私の視線の先には、使い古され、至る所に丁寧な継ぎの当たった服を纏った老貴族が、震える手で小さな納税袋を抱えていた。
彼はレイモンド・ド・ベルナール伯爵。
王国の最果て、作作物よりも石ころの方が多いと言われる辺境領地を治める小領主だ。
彼が差し出した納税袋は、その体積に比して重く、その中身が貴族としての矜持や明日の糧さえも削り取った、血の滲むような工面によるものであることは、彼の枯れ枝のような指先を見れば一目瞭然であった。
【あぁ、これで今期の分は足るだろうか。領民たちは種籾さえあれば、来年は笑えるはずだ。家財も、先代から受け継いだ銀器も、そして亡き妻の形見の品も、すべては領主としての責任という名の負債を清算するための代価に過ぎぬ。……だが、この若き財務官、数字を統べる鉄血の女神の目に、私のこの枯れ果てた帳簿はどう映るのだろうか。どうか、どうかこれ以上の徴収だけは、我が領民たちの命だけは、ご勘弁を……】
老伯爵の胸中に渦巻く、祈りにも似た悲壮な覚悟と、絶望の淵にある誠実さが混濁した渦となって溢れ出していた。
ゼノス局長が、困惑と深い憐憫の入り混じった顔を向けている。
【ああ、レイモンド伯爵か。彼は正直すぎて損をする、この弱肉強食の王宮では絶滅危惧種の如き御仁だ。昨年の飢饉で領民の税を全額免除した挙句、自分は屋敷の壁を剥がんばかりの勢いで家財を売り払い、こうして国税を納めにやってきた。このような清廉な男を、事務的に処理し、さらなる困窮へと突き落とさねばならぬのは、財務局長の座も地獄の苦行でしかない】
私は無言で、彼が震える手で差し出した帳簿を手に取った。
表紙の革は擦り切れ、ページは幾度もめくられた痕跡と、計算の苦悩を物語る手垢で汚れている。
だが、その中身を捲った瞬間、私の脳内にある算盤が、かつてない清澄な、神聖ですらある音色を立てて共鳴した。
「局長。この帳簿、一文の誤差もございませんわ。それどころか、領民一人一人の生存に要する代価が、血を吐くような最適化をもって算出されています。この数字の背後には、不正はおろか、一滴の無駄な贅沢も、私的な流用も存在いたしません。これはもはや、帳簿という名の聖典ですわね」
私は、老伯爵の曇った、だが一点の恥じるところもない瞳を見据えた。
「伯爵様。貴方は、領民に配る種籾を買うための金貨を捻出するために、先月の食事を一日一回に減らしましたわね? そしてこの納税額の末尾にある、金貨三枚分の端数……これは貴方の奥方の形見である銀の髪飾りを、王都の質屋で最も低い値で手放した代償と完全に一致しますわ。……整合性が、取れすぎていますの」
「な、なぜそれを……。わ、私はただ、臣下として当然の義務を果たし、王国の安寧を支えるための一助となりたいだけでございます。わが領の窮状は、すべて私の不徳の致すところ……」
老伯爵が驚愕に目を見開く。
【恐ろしい、あまりに恐ろしいお方だ! この少女は、紙に刻まれた冷厳な数字の並びから、私の空腹の痛みや、妻の形見を手放した時の指先の震え、領民を想う私の深夜の溜息までをも読み取ったというのか! この執務室は、すべてを見通す神の裁断場なのか、あるいは真実を曝け出す鏡の部屋なのか!】
周囲で、派手な毛皮を纏い『貧乏伯爵がまた無駄な努力を』と嘲笑っていた他の納税貴族たちが、私の放つ絶対零度の威圧感に気圧され、次々と口を噤んでいく。
私は、おもむろに白紙の最高級羊皮紙を広げ、猛然と筆を走らせ始めた。
羽ペンの先から、王国の未来を書き換えるための数式が次々と零れ落ちる。
「局長。ベルナール伯爵領の過去十年の詳細な気象記録と、隣接する三領地の流通経路、および市場価値の推移を今すぐ照合してください。……見えましたわ。この領地が貧しいのは、領主の努力不足ではなく、王都へ続く主街道の整備計画から意図的に外されていることによる、輸送に要する代価の異常な過多が原因です。……これは、前任の建設局長と近隣領主による、意図的な経済封鎖。立派な不当競争ですわね」
「セレスティーナ殿、それは確かにそうだが、今の予算編成案では、そのような辺境の道路整備に新規の金貨を回す余裕はどこにも……」
「いいえ、局長。考え方が根本から逆ですわ。誠実な領主が治め、一文の不正も不整合もない領地は、国家にとって最も回収不能の危難が低い、最高品質の投資対象に他なりません。腐敗した公爵領に維持補助金を出すよりも、この伯爵に王国初の無担保・低利長期融資を実行し、直轄の基盤整備予算を最優先で配分する方が、十年度の国家純利益は確実に三割を上回りますわ。……これは算術的に導き出された、唯一の正解です」
私は算盤の珠を爆音と共に弾き、数十年後の未来予測数値を、まるで神の宣告のように突きつけた。
「伯爵様。貴方の誠実さは、わたくしの目から見れば、国庫にあるどの巨大な宝石よりも価値がある不滅の信用資産ですわ。わたくしがこの算盤にかけて認めた以上、貴方の領地の負債は、本日をもって国家がすべて買い取ります。これは慈善でも救済でもございません。わたくしの安眠を将来にわたって担保するための、最も効率的な国家戦略的投資ですわ」
「わ、わが領を、あの飢えた子供たちを救ってくださるというのですか……。数字の女神様、いや、救世主様……感謝いたします……!」
老伯爵が、これまでの重圧から解放されたように、その場に泣き崩れる。
【何という慈悲、何という慧眼!この幼き財務官は、我ら領民が土に塗れて流した汗と涙に、正当な価値を付けてくださった!全領民に伝えねばならぬ、我らの誠実さは、決して数字に切り捨てられる無駄ではなかったのだと。彼女が示してくれたこの光、この信頼に応えるためなら、私はこの命が尽きるまで、王国一の模範領地を興してみせよう!】
老伯爵の胸に、狂信的なまでの忠誠と再起の炎が刻まれていた。
「ふふふ、局長。これでまた一つ、王国の健全な黒字拠点の苗木を植えることができましたわ。わたくし、これで心置きなく、明日の『午前中のお昼寝』を、一文の狂いもない完璧な時刻表で予約できますわ」
世の中もまだまだ捨てたもんじゃありませんわね。
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