第017話 媚びを売るなら納税を。悪徳貴族たちの裏帳簿、まとめて精算させていただきますわ
完璧に管理された室温と、適度な湿度の維持。
これこそが、質の高い休息における収支バランスを整えるための絶対条件だ。
前世において、酸欠気味の満員電車と不規則な残業で磨り減らした私の魂は、今やこの法的に保障された安眠という名の配当金によってのみ、その価値を担保されている。
陛下より賜った『昼寝特権付与状』を、あたかも伝説の聖遺物の如く掲げ、財務局の深淵にある聖域で二時間の安眠を貪った私は、かつてないほどに明晰な頭脳を携えて目覚めた。
脳内に淀んでいた霧は晴れ、代わりに黄金色に輝く算盤の珠が、一分の隙もなく整然と整列しているのが分かる。血管を流れる血液の一滴一滴が、複利計算の如き精度で全身を巡るような、万能感に近い覚醒だ。
しかし、重厚な扉を開けて執務室へと戻った私の眼に飛び込んできたのは、静かな仕事場などではなく、まるでどこかの成金が主催した悪趣味な展示会のような光景であった。
「局長様、これは一体何の不整合でしょうか。わたくしの記憶が確かならば、ここは王国の財務を司る聖域であって、安物の市場ではなかったはずですが」
執務室の床という床を埋め尽くしているのは、眩いばかりの金銀財宝、そして出所不明の豪華な献上品の山だ。磨き抜かれた大理石の上で、宝石箱から溢れ出した真珠や絹織物が、不快なほどに自己主張を繰り返している。それらを前に、なぜか制服の襟元が乱れ、目の下に濃い隈を作ったクライン局長が、引き攣った笑顔で私を迎えた。
「ああ、セレスティーナ殿。よく眠れたかね。これらは、君の文官任用を祝して、国中の貴族たちが届けに来た真心の印だよ。……まあ、君が寝ている間に、私と局員たちが命を懸けて検閲、いや、整理しておいたのだがね」
局長様の背後で、他の文官たちが「もう一歩も動けない」という表情で、魂が抜けたように立ち尽くしている。その光景は、戦場を生き抜いた敗残兵の如き悲壮感を漂わせていた。
【正妃様と殿下を追い返した直後に、今度は小賢しい貴族共が山のように押し寄せてきおって。セレスティーナの機嫌を損ねるような品はすべて私が叩き返してやったが、残ったこれらだけでも処理に困る。彼女がこれを見て、また仕事が増えたと怒り出さねば良いのだが】
彼の吹き出しには、悲壮なまでの保護欲が渦巻いていた。
私は無言で、山積みの品々の中から、一際大きく輝くエメラルドのブローチを手に取った。深緑の輝きを放つその石は、名工の手による精緻な彫金が施され、一目で国家予算の断片を削り出したかのような価値を想起させる。送り主の名札には『ギルベルト・ド・ヴァランタン侯爵』と記されている。その瞬間、私の脳内にある算盤が、猛烈な勢いで珠を弾き始めた。
昨日までに目を通した膨大な公文書の記録、数百万行に及ぶ退屈な数字の羅列が、一瞬で現在の事象と紐付けられていく。
「……おかしいですわね。このエメラルドの純度、転じてこの大きさ。市場価格にして金貨五百枚は下りませんわ」
「ほう、流石はセレスティーナ殿。侯爵の財力を示そうという、彼なりの誠意なのだろう」
「いいえ、局長。問題はそこではございません。わたくし、先ほど公務として、ヴァランタン侯爵家から提出された昨年度の領地鉱山産出報告書の内容を暗記しておりますの。そこには、採掘された宝石はすべて小粒で不純物が多く、収益は前年比三割減、よって減税を申請すると記されておりましたわ。侯爵様が減税を申請するほど困窮している一方で、その家計からこのような至宝が祝い品として捻出される。……これ、算術的に見て、一文の整合性もございませんわよね?」
私の背後に、ドロリとした黒い算盤のオーラが立ち昇るのを、局長様が戦慄の面持ちで見つめていた。空気が重く沈み込み、執務室内の湿度が、論理によって一気に奪われていく。
「セレスティーナ殿、もしや君は……」
「ええ。媚を売るなら、まずは清廉な納税という名の誠意を見せていただかなくては。わたくしの眼は、帳簿の汚れを洗い流すためにあるのです。……局員の方々、お疲れのところ申し訳ございませんが、ヴァランタン侯爵たちを今すぐ『特別査察室』へお招きして。わたくしが直々に、彼の家の裏帳簿とこの宝石の整合性を、夜通し掛けて精算させていただきますわ」
【ひ、昼寝明けの彼女は、いつも以上に容赦がない……! だが、その理知的なまでの正確さこそが、我が局の、いや王国の宝だ!】
局長様が吹き出しで感嘆を爆発させていたが、今は無視だ。
――――
数分後。
何も知らずに、セレスティーナからのお呼び出しという甘い誘い文句に釣られてやってきたギルベルト侯爵は、財務局の地下にある、窓一つない査察室へと通された。厚さ三十センチの石壁に囲まれたその部屋は、音の一切を遮断し、ただ一つの蝋燭が、不吉な陰影を壁に映し出している。室内には、鉄芯入りの算盤の珠がカチリ、カチリと鳴る音だけが、虚偽への断罪のように響いている。
「おお、セレスティーナ殿。私の贈り物は気に入っていただけたかな?あれは私の領地の誇り……」
「侯爵様、その誇りが、なぜ提出された報告書には『価値なき石屑』として記載されていたのでしょうか」
私が机の上に算盤をドンッと置いた瞬間、侯爵の顔から、夏の夕立のように血の気が引いた。
「え、あ、いや、それは……。あ、あれはたまたま、倉庫の隅に眠っていた先代からの遺産でしてな!」
「では、その遺産の相続税納付証明書を見せていただけますか? それとも、今この場で、わたくしが侯爵家の過去十年の収支をすべて、一点の曇りもなく再計算いたしましょうか?」
パチパチパチ、と硬質な算盤の音が、密閉された室内に死の宣告のように響き渡る。私の瞳に映る数字の奔流に、侯爵は蛇に睨まれた蛙の如く硬直した。
【何だこの小娘は! 目は笑っているが、言葉の端々から脱税の証拠を確実に突き止める殺気が漏れ出している! まずい、鉱山の裏金隠しが見つかれば、爵位剥奪どころか、私自身の首が飛ぶ!】
彼の頭上の吹き出しは、絶望の色彩に染まっていた。
「さあ、侯爵様。このブローチが語る真実を、不整合のまま放置するわけにはいきません。それ相応の追徴課税をご覚悟いただけますわね?」
私が微笑みながら、最後の一珠を力強く弾く。その衝撃音が、侯爵の精神的な防壁を完全に粉砕した。
「わ、分かりました! 認めます! 報告書は一部……いえ、大幅に虚偽でした! すぐに修正申告を行い、不足分は倍にして納付いたします! ですから、その算盤を……その恐ろしい音を止めてくれ!」
「話が早くて助かりますわ。では、そこに並んでいるオズワルド侯爵やランカスター侯爵令嬢の真心についても、同様の整合性チェックを行わなければなりませんわね」
査察室の外で、順番待ちをしていた貴族たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ出そうとする気配がした。
だが、その逃走経路は既に、完璧な予算執行の檻によって塞がれている。そこにはクライン局長率いる文官たちが、逃亡を阻止すべく壁となって立ちはだかっていた。
「逃がさんぞ、貴公ら。セレスティーナ殿がせっかくお目覚めなのだ。君たちの不透明な財産を、彼女の算盤という名の聖火で焼き清めてもらうが良い!」
局長様の咆哮が響き渡り、財務局は一晩にして、王国最大の断罪の場へと変貌を遂げた。深夜の財務局に、貴族たちの悲鳴と算盤の快音が、奇妙な二重奏となって響き続ける。
結局、その日のうちに、アデレイド邸の庭園を一つ造り替えられるほどの莫大な追徴課税が国庫に転がり込んだ。私にとっては、単なる数字の整理。混沌とした帳簿に、秩序という名の光を当てたに過ぎない。だが、それを見守っていた局員たちの眼には、私がまるで数字を司る慈悲なき女神に見えていたようだ。
「うふふ、局長。これで少しは、王国の予算も潤いますわね。わたくし、これで心置きなく、明日の午前中のお昼寝を予約できますわ」
満足げに算盤を仕舞い、私は局員たちが用意した、不自然なまでに高級な紅茶を啜った。皮肉なことに、この世界で最も心が休まるのは、ベッドの中よりも、数字が完璧に整った後のこの瞬間なのかもしれません。
セレスティーナ・アデレイド。
十歳の徴税官。
彼女の算盤が弾く音は、今日もまた、安眠を妨げる不届き者たちの不透明な嘘を、容赦なく粉砕していくのである。
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