第016話 特権の寝床は鉄壁の守り。王妃の誘いも王子の花束も、睡眠の敵でしかありません
『ふわぁぁ』、という、およそ貴族令嬢にあるまじき気の抜けた音が、静まり返った財務局の執務室に響き渡った。
私の目の前で、十歳の文官セレスティーナ・アデレイドが、その小さな手で口元を押さえながら、目尻に涙を浮かべている。
彼女が先ほどまで、数年越しに誰も解けなかった王室庭園の予算不整合を、まるでお遊戯のように算盤一つで解明して見せた天才児だとは、この姿を見れば誰も信じまい。
だが、その倦怠感に満ちた表情こそが、彼女が仕事を終えた合図であることを、私はこの数日間で痛いほどに学んでいた。
「局長様、わたくしの脳細胞が、糖分と休止を強く求めておりますわ。これ以上の計算は、国家予算に破滅的な打撃を与えかねません」
彼女は懐から、まるで伝説の聖遺物でも取り出すかのような厳かさで、一枚の書状を取り出した。
陛下自らが署名し、王家の家紋が血のような赤の蝋で封じられた『昼寝特権付与状』である。
それを受け取る私の指先が、そのあまりに重すぎる権威に微かに震える。
「承知した、セレスティーナ殿。君の功績は、この国の金庫を救った。その対価として、何者にも侵されぬ平穏を約束しよう」
彼女は満足げに頷くと、財務局の最奥、通常の仮眠室を通り過ぎた先にある『聖域』へと足を向けた。
そこは、私が私財を投じ、最高級の防音魔法と極上の羽毛を詰め込んだ、セレスティーナ専用の安眠室である。
重厚な扉が閉まり、彼女が夢の世界へと旅立ったその瞬間、私の戦いは始まった。
「局長! 正面玄関にフランツ子爵が! 『我が領地の特産品を、有能なる若き文官殿に献上したい』と息巻いております!」
部下の報告に、私は眉間を押さえた。
またか。彼女が文官として任用されてからというもの、この財務局はもはや役所ではない。
国中の貴族たちが、己の帳簿の煤を払ってもらおうと、あるいはその稀代の才を囲い込もうと群がる猟場と化している。
「追い返せ。特産品など、財務局の備品として没収しろ。彼女は今、国家の最重要事項である休息に従事しているのだ。一文の誤差も許さぬ知性が、不純な媚びによって曇ることを、私は断じて許さん!」
私は苛烈な命令を下し、次々と押し寄せる貴族たちの波を、書類の壁で押し返した。
だというのに、騒ぎは収まるどころか、廊下の向こうから高貴なる香気が漂ってきた。
「あら、随分と賑やかですこと。ゼノス・ヴァン・クライン伯爵、私の姿を見て道を空けぬほど、財務局は不敬が常態化しているのかしら?」
現れたのは、正妃ヘレナ様であった。
その後ろには、山のような菓子を運ぶ侍女たちが、軍隊のような整然とした足取りで控えている。
「正妃様、これは恐悦至極に存じます。ですが、本日はあいにく、セレスティーナ殿は……」
「お茶のお誘いですわ。彼女の働きは、私の離宮を清めてくれましたもの。最高級の茶葉と、彼女好みの静かな時間を用意いたしましたわ。さあ、案内なさい」
正妃様の微笑みは、逆らう者を一瞬で凍りつかせる魔力がある。
しかし、私には彼女を守るという、陛下と、そして何より私自身の魂に誓った使命があるのだ。
「……正妃様、誠に申し上げにくいのですが。彼女は現在、陛下直々の特権により、如何なる者との面会も禁じられた『昼寝特権付与状』の時間となっております。例え国母たる貴方様であっても、その安眠を妨げることは、陛下の裁可を否定することに繋がりかねません」
冷や汗が背中を伝うが、私は一歩も引かなかった。
周囲の局員たちも、死を覚悟したような表情で私の後ろに並ぶ。
正妃様は暫し、射抜くような視線を私に注いでいたが、やがて不敵な笑みを漏らした。
「ふふふ、良いでしょう。陛下の御名を盾にするとは。わかりました。その時間が終われば、必ず私の元へ寄越すように」
嵐が過ぎ去ったかのように、正妃様の一団が去っていく。
私は安堵のあまり、その場に崩れ落ちそうになった。
だが、休む暇など与えられないのが、この算盤の聖女を預かる者の宿命らしい。
「局長! 今度は……今度は、レナート殿下です! 白馬に乗ったまま中庭まで侵入され、手には巨大な花束が!」
「……何だと?」
窓から階下を見下ろせば、そこには太陽の光を反射させるほどに輝くレナート殿下が、英雄のような風貌で立っていた。
「セレスティーナ! 起きてくれ! 君がいない間に、私は君のために、この国で最も美しい百合を集めてきた!君の寝顔を飾るには、これでも足りないほどだ!」
殿下の声は、財務局の堅牢な石壁をも突き抜ける勢いで響き渡る。
このままでは、彼女が目を覚ましてしまう。
彼女が安眠を奪われた際に見せる、あの氷よりも冷たい絶望の表情を、私は二度と見たくない。
「総員、配置に付け! 殿下を如何なる手段を使ってもこの敷地外へ誘導しろ! 文官としての知識を総動員して、法律、礼儀、あるいは物理的な壁を持ってして、あの情熱を遮断するのだ!」
私の号令と共に、普段は帳簿を繰るだけの中年文官たちが、まるで戦士のように駆け出した。
「殿下! ここは神聖なる財務局です!」
「そうだ!殿下、あちらの庭園に、もっと珍しい多肉植物があると聞き及んでおります! さあ、あちらへ!」
「放せ! 私はセレスティーナにこの花を届けるのだ! 彼女が数字という冷たい世界で凍えぬよう、私の愛で温めねばならぬのだ!」
殿下は、必死に縋り付く文官たちを引きずりながら、セレスティーナの部屋を目指して突き進む。
その光景は、もはや喜劇を通り越して、何かの宗教儀式のようであった。
「殿下、おやめください! 彼女が起きたら、私の給与が、いや、我が局の予算が減らされるのです! 彼女の不機嫌は、国家的な経済損失なのです!」
局員の一人が涙ながらに叫んだ。
その必死の訴えが届いたのか、あるいは数人がかりで殿下の足を掴んだのが功を奏したのか、殿下の進撃が止まった。
「……経済損失だと? 私の愛が、彼女を苦しめるというのか?」
「左様にございます! セレスティーナ殿の安眠一時間は、金貨千枚の価値があるとお考えください!」
私は階段を駆け下り、殿下の前に立ちはだかった。
「殿下、誠の愛をお持ちであれば、今はその花を置き、静かにお引き取りください。彼女が目覚めたとき、最高の体調で、最高の計算を成し遂げることが、この国の民の幸せなのです」
レナート殿下は、手に持った花束を見つめ、苦悶の表情を浮かべた。
やがて、彼は震える手で花束を私に預けると、背を向けて歩き出した。
「分かった……。私の愛が、彼女の眠りを妨げる罪になるというのなら、私は耐えよう。だが、伯爵。彼女の枕が少しでも低かったり、部屋の温度が一度でも不適切であったりすれば、私はこの財務局を解体してでも彼女を救い出すからな!」
捨て台詞を残し、殿下はやっとの思いで去っていった。
嵐の去った後の中庭で、私と局員たちは、ボロボロになった服のまま、勝利の余韻に浸ることなく深く息を吐いた。
私たちの手元に残ったのは、不自然なほどに豪華な花束と、正妃様が残していった最高級の菓子。
「……さて、これらは彼女が起きたら、『匿名の人徳者からの差し入れ』として提供しろ。王家の名を出せば、彼女はまた、仕事の匂いを感じて逃げ出してしまいかねん」
「局長、お疲れ様です……。私たちの戦いは、いつまで続くのでしょうか」
「彼女がこの国の帳簿を全て綺麗にするまでだ。それまでは、この財務局が、世界で最も強固な揺り籠とならねばならぬ」
夕暮れの光が、鉄の城を優しく包み込む。
その静寂の中で、私たちはまた、明日やってくるであろう新たな外敵に備え、傷ついた制服を整えるのであった。
その頃、聖域の奥深くにいる少女は、自分が引き起こした狂騒曲など露知らず、ただ一人、完璧に計算された温度の寝床で、幸せな夢の中にいた。
彼女の寝息一つ守るために、この国の重鎮たちが命を懸けているという事実は、おそらく、どの帳簿にも記されることはないだろう。
だが、私だけは知っている。
この小さな少女の安眠こそが、崩れかけたこの王国を支える、最も重要な資産であることを。
「……さあ、今のうちに、溜まった雑務を片付けるぞ。彼女が起きた時に、不整合な書類が一枚でも残っていれば、今度は私たちが、あの算盤の錆にされるからな」
私の言葉に、局員たちは一斉に頷き、再び静かな、しかし熱い戦場へと戻っていった。
財務局の夜は、今日もまた、静かに更けていくのである。




