第015話 セレスティーナ不在のアデレイド邸、愛が重すぎて迷走中
王都の北側に位置するアデレイド伯爵邸。
主を待つ静謐が支配しているはずのその邸宅は今、かつてないほどの熱気と、ある種の狂乱状態に包まれていた。
石造りの壁一枚隔てた外側までは、いつもと変わらぬ静かな街並みが続いている。しかし、一歩門を潜れば、そこには家中の人間が放つ異様な熱気が渦巻いていた。誰もが言葉少なに動き回りながらも、その瞳には一様に、ある種の発熱を伴った期待が宿っている。
本来、十歳の令嬢が王立学院への入学を横に置き、国家の屋台骨を支える財務局へ文官として任用されるなど、貴族社会の常識を遥かに超越した栄誉である。
陛下自らが『余の安眠を守る賢者』と称え、公式にその才を求めた事実は、アデレイド家が王国の歴史において不動の地位を築いたことを意味していた。
この邸宅の住人たちにとって、それは単なる出世の報せではなく、神の啓示にも等しい福音である。
十歳の少女が、大人たちでも音を上げる財務局の扉をこじ開けた。その事実だけで、使用人たちは自分たちの主が特別な存在であることを再認識し、身が震えるほどの高揚感に包まれていたのである。
「聞いたか! セレスティーナ様が、あの鉄壁の城と謳われる財務局に、史上最年少の文官として迎え入れられたのだぞ! しかも陛下直々の指名、正妃様も直々に激励に訪れたというではないか!」
邸宅の家令が、普段の厳格さをかなぐり捨て、廊下を全速力で駆け抜けながら叫んだ。
その顔は、喜びに満ちている。
これまでは主人の一挙一動に目を光らせていた厳格な管理職が、今は自ら先頭に立って邸内を走り回り、指示を飛ばしている。
彼は主人の不在をいいことに、執務室の窓から財務局のある王宮の方角を仰ぎ、深々と頭を下げた。
その姿には、単なる敬意を超えた、畏怖に近い何かが混ざり合っているようだった。
そんな中、邸宅の正面玄関を蹴破らんばかりの勢いで飛び込んできた影があった。
セレスティーナの兄、エドワード・アデレイドである。
彼は妹を溺愛するあまり、王宮での任用を聞きつけるや否や、騎士団の訓練を放り出して駆け戻ってきたのだ。
息を切らし、泥のついた長靴のまま広間へ踏み込んだ彼の姿は、普段の冷静な騎士候補生のものとは程遠かった。
「父上! 母上! セレスティーナが財務局に入ったというのは真実ですか! ああ、なんということだ! あんな埃っぽくて陰気な男ばかりの場所に、我が家の天使を放り込むなんて、陛下は何を考えておいでか!」
エドワードは、悲劇の主人公のような大袈裟な身振りで叫んだ。
しかし、その瞳の奥には隠しきれない誇らしさが満ち溢れている。
『妹が国を救うのだ』という誇りと、『妹が他人の目に晒される』という危機感が、彼の心の中で激しく衝突していた。
「エドワード、落ち着きなさい。セレスティーナは自らの意志で、あの王冠の番人となったのです。これほど誇らしいことが他にありましょうか」
伯爵夫人が扇を優雅に揺らしながら答えると、エドワードは拳を固く握りしめた。
「分かっています、母上。ですが……ですが!彼女のあの繊細な指先が、紙の端で傷つくことさえ私は耐えられないのです!」
そのまま鼻息荒く言葉を続ける。
「分かっています! 分かっていますとも! セレスティーナの知性は、もはや神の領域だ。だが、財務局の連中が、彼女の可憐さに当てられて仕事の手を止めるのではないかと心配で夜も眠れません!いっそのこと、私が財務局の門番として志願すべきでしょうか!?」
「およしなさい。あなたが門番などしたら、お昼寝をしているセレスティーナを起こすまいとして、王宮中の動きを止めてしまうでしょう?」
伯爵の苦笑混じりの言葉に、邸内の使用人たちは一斉に頷いた。
エドワードの妹愛は、すでに邸内では周知の事実であり、もはや一つの災害に近いのである。
『妹の眠りを守るために、王宮の大鐘を止めてこよう』と真顔で言い出しかねない男を、国家の重要機関に近づけるわけにはいかないのである。
「おい、聞いたか!エドワード様が財務局への殴り込みを検討されているぞ! 我らも負けてはいられん! お嬢様が帰られたとき、ここが世界で一番の楽園であると思い知らせるのだ!」
料理長の怒号が厨房に響き渡る。
「お嬢様のために特製の計算能力を育む薬膳スープを仕込むぞ! 具材の切り出しは、お嬢様の算盤の珠と同じ、寸分違わぬ大きさに揃えろ! 一分の誤差も、お嬢様の感性を狂わせる毒となると思え!」
料理人たちは、もはや包丁を握る手つきすら、精密な職人のような正確さを求められていた。
人参も大根も、まるでお嬢様が弾く算盤の珠そのものに見えるまで、彼らは何度も切り直した。
お嬢様が外で戦うのであれば、我らは栄養管理という名の後方支援で、豆一粒の無駄も許さぬ完璧な食事を提供せねばならぬ。
その熱意は、もはや料理の域を超え、宗教的な儀式に近い厳かさを帯びていた。
庭園では、庭師たちが、お嬢様の安眠のためにと、香りの強い花々を一本残らず、鎮静効果の高い薬草へと植え替える作業に没頭していた。
長年かけて育て上げた自慢の薔薇も、今の彼らにとっては『眠りを妨げる過剰な彩り』に過ぎなかった。
庭師たちは無言で土を掘り返し、深い眠りを誘うハーブを植えていく。
「陛下からお昼寝の許可をいただいたと聞いた! ならば、この庭を世界で最も深い眠りに誘う聖域にせねば、アデレイド家の名が廃る!小鳥どもめ、お嬢様が昼寝をされる時間帯にさえずることは万死に値するぞ!」
庭師の決意は固く、羽ばたく音一つ立てさせぬよう、庭中の木々に特殊な消音の魔法を施した布を巻き付けるという、もはや造園の域を逸脱した防音工事を開始していた。
さらに彼は、お嬢様の部屋から見える景色の中に、一羽の蝶さえ迷い込まないよう、網を手に庭の隅々まで目を光らせていた。
主役が不在の子供部屋では、メイドたちが彼女の机を磨き上げ、最高級の羊皮紙と、一本の狂いもない羽ペンを並べていく。
彼女たちは、セレスティーナが愛用する算盤の珠一つ一つに、絹の布で磨きをかけ、摩擦抵抗を極限まで減らすための特殊な油脂を薄く塗り広げていた。
指先一つで滑らかに動くその珠は、お嬢様の高速な計算を妨げないよう、鏡のような光沢を放っている。
「お嬢様が帰られたら、すぐにでも次の不正を暴けるよう、完璧な環境を整えておかなければ。うふふ、お嬢様の算盤が奏でるあの音。あれを聞くと、私たちの心が洗われる気がするのよね」
メイドたちは、主人が財務局の頂点に登り詰めれば、この邸の繁栄も約束されたものだと、切実な私欲と崇拝を混ぜ合わせながら、隅々まで塵一つ残さず清掃を続けていた。
彼女たちの間では、すでにセレスティーナを『算盤の聖女』と呼ぶ秘密結社のような連帯感すら生まれつつあった。
彼女たちにとって、お嬢様が不正を暴くことは、世界の汚れを洗い流す神事のように感じられていたのである。
エドワードは、磨き上げられた妹の部屋の扉の前で、そっと祈りを捧げるように呟いた。
「セレスティーナ……。君が王宮の闇を数字で照らす間、私は君が帰るこの場所を、世界一温かい光で満たしておこう。もし誰かが君の邪魔をするなら、この兄が例え火の中水の中だ!」
彼は扉のノブにそっと手を触れ、その感触から妹の面影を感じ取ろうとしていた。彼の決意は、もはや騎士としての誓いよりも重く、執念深いものとなっていた。
アデレイド伯爵邸の面々は、それぞれの方法で最年少文官の誕生を祝っていた。
彼らにとって、セレスティーナが学院に行かずに就職したことは、悲劇ではなく、一族が王国の心臓部に君臨するための輝かしい第一歩に過ぎないのだ。
「さあ、お嬢様がいつ帰られても良いように、全ての準備を整えろ!一分の遅れも許されんぞ!我が邸内において、もてなしの不備は反逆罪に等しいと思え!」
家令の号令が、再び邸内に響き渡る。
その背後では、執事たちが山のようなお祝いの品々を、一分の隙もなく整理していた。
届けられた箱の数は、広間を埋め尽くさんばかりであったが、彼らは誰に言われるでもなく、贈り主の官位と価値を瞬時に分類し、完璧な目録を作り上げていた。
セレスティーナ・アデレイド。
彼女が知らないところで、実家はすでに『財務局長官誕生』を既成事実化し、彼女の安眠と引き換えに、さらなる繁栄を勝ち取ろうとする熱気に支配されていたのだ。
王家さえもが彼女を求めたという事実は、この邸の人々の誇りを制御不能なレベルまで肥大化させているのだ。
彼女がこの邸宅の現状を見れば、むしろ仕事場の方が心が休まると懐古するのではないか。
それほどまでに、この邸宅の愛情は鋭く、重くて逃げ場のない完成度を誇っている。
主人が帰宅して、この完璧に整えられすぎた邸宅を目にしたとき。
感謝の言葉よりも先に『この備品の並び、少し角度が甘いわね』と冷ややかに指摘されることを、使用人たちは密かに期待しているのだが……。
彼らにとっては、その厳しい指摘こそが『自分たちはまだお嬢様の領域に達していない』という、奇妙な安心感をもたらすのである。
アデレイド伯爵邸の夜は、期待という名の高揚感に包まれながら更けていくのであった。
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




