第014話 正妃様のお茶会は、甘い罠と次期国王の熱視線で溢れています
肥料泥棒の尻尾を掴み、財務局の面々を恐怖と感嘆で震え上がらせたその足で、私は本来、陛下より賜った『お昼寝特権』を正当に行使するはずであった。
前世の社畜時代、デスクの下で縮こまって貪った十五分の仮眠とは違う。王家の紋章が刻まれた、法的な裏付けのある二時間の深い休息。それを目前にした私の前に立ち塞がったのは、安らかな寝床ではなく、薔薇の香りが染み付いた一枚の招待状である。
「セレスティーナ、正妃様が貴女をお呼びよ。文官としての初仕事を祝して、特別なお茶会を開いてくださるそうですわ」
届けに来た侍女の頭上には、打算と羨望が泥のように混じり合った、不透明な色彩の吹き出しが浮かんでいた。
【何という幸運な子。十歳にして正妃様の私室に招かれるなど、もはや将来の王妃内定も同然ではないか。今のうちに媚を売っておかねば、私の給与査定に響くかもしれない。この幼い顔のどこに、あの大臣たちを黙らせる知恵が隠れているというのか】
……またこれだ。私が求めているのは、甘い菓子でも王妃の座でもなく、一寸の誤差もない帳簿と、誰にも邪魔されない深い眠りだけだというのに。
だが、正妃からの招きを断ることは、現在の私の役職では国家予算への反逆にも等しい暴挙である。私は重い溜息を喉の奥で飲み込み、重厚な執務室の椅子を引いた。
――――
正妃ヘレナが待つ離宮『静寂の間』は、その名に反して、私の脳内にある算盤を激しく弾かせる、贅の暴力に満ちた空間だった。
一織りごとに本物の金貨を溶かし込んで編み上げたような絨毯は、一歩踏み出すごとに柔らかな沈み込みを見せ、その歩行音すらも贅沢に吸い取っていく。壁に掲げられた絵画の額縁、窓辺を飾るカーテンの房飾り、そして空気中に漂う香料の煙に至るまで、それら全てが王家の権威という名の、目も眩むような支出項目として私の眼に飛び込んできた。
希少な獣の骨を極限まで薄く削り出した茶器の中で、琥珀色の液体が揺れている。テーブルの上に並べられた色とりどりの菓子は、王宮専属の職人が数日がかりで仕上げた芸術品だ。その一つ一つが、財務局の若手文官が一生をかけても稼げぬほどの金額であることを、私の事務的な眼は残酷なまでに暴き出してしまう。
「ようこそ、セレスティーナ。堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。今日は財務局の人となった貴女を、政治の道具としてではなく、ただ一人の愛らしい令嬢として慈しみたいのです」
正妃ヘレナは、完璧に整えられた女神のような微笑みを浮かべて私を隣に誘った。だが、その頭上の吹き出しは、慈愛の仮面を焼き切るほどの強烈な所有欲で真っ赤に燃え盛っている。
【この小さな手。この細い指先が、あの不透明な肥料代の山から一瞬で真実を掴み出したというのか。素晴らしい! 財務局などという埃っぽく、男たちの加齢臭が漂う場所に置いておくのは国家の損失だわ。早急に養女として囲い込み、王宮全体の不正を監視する私の『目』として、一生私の側に縫い付けておかなければ。この才能は、私が独占してこそ意味がある】
「正妃様、勿体なきお言葉にございます。わたくしはただ、数字の不自然さが眠りを妨げるゆえ、それを正したに過ぎません。歪んだ帳簿を抱えたままでは、枕を高くして眠ることも叶いませんもの」
私が感情を押し殺し、礼儀正しく応えると、正妃の瞳に宿る熱が一層深まった。彼女にとって、この「子供らしくない落ち着き」こそが、国庫に眠る最高級の宝石よりも価値あるものに見えているらしい。
「母上、あまりセレスティーナを困らせてはいけません。彼女は今日、我が国の汚れを一つ、その幼き指先で摘み取ったばかりなのです。その疲れを癒やすのが、この茶会の目的でしょう?」
背後から響いたのは、凛としているが、どこか獲物を追い詰める猟師のような独占欲を帯びた少年の声。次期国王の呼び声高いレナート殿下が、護衛も連れずに室内へと足を踏み入れてきた。
殿下は私の前に膝を突くと、戸惑う間もなく私の右手をとり、先ほどまで算盤の珠を弾いていたその指先に、熱を帯びた接吻を落とした。その瞬間に浮かび上がった、殿下の巨大な吹き出し。
【あぁ、ようやく触れることができた。肥料代の不正を暴いたあの厳しい眼差し。兄を追い落とした時の、あの情け容赦のない数字への忠誠心。これだ、私が求めていたのは。着飾ることしか知らぬ人形のような令嬢ではなく、私の隣で、この国という巨大な組織を共に導く知性。君を逃すくらいなら、私はこの王冠さえ、君を繋ぎ止める鎖に変えてみせる。君の算盤の音が聞こえない王宮など、私には耐えられない】
……危ない、実に危ない。この王子様、初恋の熱量というには、あまりに政治的で、それでいてひどく湿り気を帯びた執着を抱えていらっしゃる。
「レナート殿下、わたくしの手は帳簿の墨で汚れておりますわ。高貴なるお方が触れるようなものではございません。どうぞ、そのお口を汚さぬよう、お控えください」
「いいや、セレスティーナ。君の手は、どの淑女の白い手よりも気高く、尊い。君が数字で未来を紡ぐなら、私はその数字が守るべき盾となろう。君がいない王宮など、私にとっては一文の価値もない、がらんどうの器だ。どうか私に、君の安眠を守る権利を与えてくれないか」
殿下の視線は、もはや獲物を逃さぬ鷹のそれであった。正妃と殿下。王国の頂点に立つ二人の強すぎる執着が、お茶会の甘い香りを、逃げ場のない包囲網の気配へと変えていく。
正妃は満足げに目を細めると、銀のトングで砂糖菓子を私の皿へと置いた。その動作一つでさえ、私を逃がさないという意志の表れのように感じられる。
「セレスティーナ、貴女が望む安眠は、私が責任を持って保障しましょう。ただし、それはこの王宮という名の揺り籠の中でのこと。貴女が算盤を弾き、レナートが剣を振るう。その光景こそが、この国の正しい帳尻だとは思いませんか?貴女が外の世界で誰かに汚されるくらいなら、私がこの腕の中で守り抜いてあげましょう」
正妃の言葉は、優しさの形をした連行宣告である。お茶会の甘い時間は、私を「将来の王妃」という名の巨大な資産項目に組み込み、二度と手放さないための、周到な審議だったのだろう。
(ああ、前世の部長に言いたい。接待ゴルフより、この接待お茶会の方が、よほど命を削りますわよ。私の安眠への道は、どうやら王宮という巨大な帳簿の一部に組み込まれることで、ようやく確保されるようですわね。自由を代償にした安眠……。それが、この世界の私に課せられた税金というわけですか)
私は、冷めかけた茶を一口啜り、腹を括った。逃げられないのであれば、この状況を逆手に取り、最大限の利益を引き出すしかない。
「正妃様、殿下。……このお茶会の費用に見合うだけの働きは、必ずや果たしてみせましょう。わたくしが算盤を弾きことで、この国の数字が正しく整うのであれば。ですが、わたくしの休み時間の確保については、改めて厳格な約束を求めさせていただきますわ。一分の狂いもない休息こそが、次なる正確な計算を生むのですから」
十歳の文官、セレスティーナ・アデレイド。
彼女の初仕事は、お茶会の甘い罠を算盤で切り裂くどころか、自らを国家最高機密という名の資産として登録されることから始まるのだ。
窓の外では、夕闇が王宮を包み込もうとしていた。明日の朝、財務局へ戻った私を待っているのは、果たして安らかな執務か、それともさらに激しさを増す周囲の狂乱か。いずれにせよ、私の手にある算盤の音は、もはや誰にも止められない調べとなって、王国の心臓部を震わせ始めているのだ。
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