第012話 陛下の感謝は、少女の安眠を妨げる残業の合図です
第一王子ヴィンセントとその一派が、衛兵によって無残に引き立てられていった後の謁見の間には、嵐が過ぎ去った後のような静寂が横たわっていた。広大な空間を支配する大理石の床には、先ほどまでそこに跪いていた罪人たちの絶望が、目に見えぬ冷たい澱みとなって沈殿している。
私は、玉座へと続く赤い絨毯の端に立ち、ドレスの裾を整えながら、こみ上げてくる欠伸を気力だけで押し殺す。前世でブラック企業の経理を勤め上げ、最後は過労の果てに異世界の門を叩いたはずの私であったが、どうやら転生先でも『働き方改革』という概念には見放されているらしい。
玉座に深く腰を掛けた国王陛下は、去りゆく長男の背中に向けた厳しい眼差しを解くと、傍らに控える正妃様と、緊張の面持ちで立つ第二王子殿下へ視線を移した。そして、その鋭い眼光は最終的に、私の隣で貴族としての優雅な立ち姿を維持するゼノス・ヴァン・クライン伯爵へと向けられた。
「ゼノスよ。余は驚いたぞ。今回のヴィンセントの不始末、そなたが財務局の官吏を動かして暴いたものと思っていたが……。まさか、アデレイド卿の愛娘がこれほどの才を発揮したとはな」
陛下から発せられた重みのある言葉に、謁見の間に残っていた数少ない重臣たちの間に、さざ波のような驚きが広がった。
王は当初、私を単なる賑やかし、あるいは伯爵の公務に付き添う子供程度にしか考えていなかったのだ。ただの財務局の手伝いだと思っていた七歳の幼女が、国家を揺るがす汚職の根源を断ったという事実に、陛下は心底からの驚嘆を隠さずにいた。
「セレスティーナ、少々背を伸ばせ。陛下が直接お話しになっているのだ」
伯爵が小声で私を促した。
【ああ、この小さな背中に、私はどれほどの重荷を背負わせてしまったのだ。七歳の少女が、王位継承権の剥奪という国家の大事を成し遂げ、今や王宮医師団よりも正確に、この国の末期的な内臓疾患を特定している。彼女がいなければ、私は今頃、殿下の二日酔い代を捻出するために、自身の領地を切り売りしていたに違いない。だが、彼女の眠そうな顔も実に愛らしい。いや、今はその無垢な瞳に宿る、数字への執念を称えるべきだな】
彼の頭上に浮かぶ吹き出しは、罪悪感と深い敬愛、そして少々の親馬鹿的な思考が混ざり合った、実に複雑な色彩を放ちながら表示されている。
「陛下、財務局一同、粉骨砕身の覚悟で任務に当たっております。アデレイド家の娘、セレスティーナも、その卓越した計算能力を王家のために捧げることを無上の喜びとしております」
【陛下、感謝は結構ですが、彼女をあまり褒めそやして、これ以上公務を増やさないでいただきたい。私の可愛い監査役が、仕事の山に埋もれて消えてしまったら、この国は再び不透明な帳簿の闇に沈むことになるのですから】
ゼノスの吹き出しは、陛下に対しても毒気を隠しきれない色に染まっていた。
「セレスティーナ。そなたが暴いた第一王子の醜行、および第二妃に連なる寄生虫どもの摘発。これらは剣で戦うよりも遥かに多くの民を救い、国庫を潤した。余はそなたに、直々に感謝を伝えよう。そなたのような幼き賢者が我が国に生まれたこと、神に感謝せねばなるまい」
陛下の隣で扇を優雅に畳んだ正妃様も、私に向かって慈愛に満ちた、しかし確かな敬意を込めた眼差しを向けられた。
「そなたの働きにより、この国の歪んだ天秤はようやく正しき均衡を取り戻しました。これからは、そなたが守ったこの国庫の重みを、次期国王としてこの子が正しく導いていくことでしょう」
正妃様に促され、一歩前へ出た第二王子殿下が、私とクライン伯爵に向かって恭しく一礼した。王位継承順位が繰り上がった直後の緊張感で、その肩には計り知れない重圧が乗っているはずだが、その瞳には腐敗を許さぬ強い覚悟が宿っている。
「ゼノス・ヴァン・クライン伯爵、セレスティーナ・アデレイド。兄の不始末を正してくれたこと、心より感謝する。君たちが銅貨一枚の誤差も許さず守り抜いたこの国の富を、私は決して無駄にはしない。共に、この国を立て直していこう」
【この七歳の少女が、あの狡猾な兄の隠し資産を全て暴き出したというのか!? 財務局の監査役とは、これほどまでに恐ろしい存在だったのか。彼女に認められる王にならねば、私の代でも真っ先に首が飛ぶな。いや、まずは彼女の睡眠時間を確保してあげるのが、王としての最初の賢明な判断かもしれない】
王子の頭上の吹き出しには、純粋な決意と、私に対する畏怖に近い警戒心が入り混じっていた。
「陛下、王妃様、および王子殿下。勿体なきお言葉でございますわ。私はただ、合うべき数字が合わないのが、一人の少女として我慢ならなかっただけにございます。望みなど、滅相もございません。……と言いたいところですが、一つだけ、切に願うことがございますの」
私は、できるだけ純真無垢な子供を演じるべく、潤んだ瞳で陛下を見上げた。
「ほう、申してみよ。金貨か? それとも名誉か?」
「いいえ、陛下。わたくし、お昼寝が大好きでして。今後、王宮の監査のお手伝いをするにあたり、一日のうち、必ず二時間は誰にも邪魔されぬ安眠の権利を保証していただきたいのです。たとえどんな巨額の横領が発覚したとしても、わたくしが夢の中にいる間は、世界が滅びるとしても放置していただく。その許可さえいただければ、わたくし、死ぬ気で残りの時間を計算に捧げますわ」
私の願いに、謁見の間は一瞬、時間が止まったかのような静寂に包まれた。クライン伯爵は頭を抱え、国王陛下は驚きに目を見開いている。だが、次の瞬間、陛下はこれまでにないほどの豪快な笑い声を上げた。
「くっ。くはははは!お昼寝だと!国家を救った英雄が求めるのが、ただの安眠とは。よかろう、セレスティーナ!余が直々に署名した昼寝特権付与状を発行させよう。そなたが眠っている間は、たとえ余であっても、そなたを起こすことは許さぬ!だが、それ以外の時間は、次期国王のため、そして余のためにその知恵を振るってもらうぞ」
陛下、その余のためにという一言が、すでに契約書の罠のように聞こえるのですが。
【なんと無欲な。あるいは、これほどの知性を持ちながら、自らの野心を隠し通すための高度な演技か。どちらにせよ、これほど安上がりで頼もしい味方はおらぬ。安眠さえ与えておけば、この国の帳簿は永遠に清廉であり続けるというわけだ】
王の吹き出しには、すっかり丸め込まれた様子が映し出されていた。
「ありがとうございます、陛下。これでわたくし、明日からも元気に数字のネズミたちを、一匹残らず駆除できますわ。銅貨一枚の不足も、わたくしの夢の中には持ち込ませません」
私はもう一度、深く頭を下げた。
「セレスティーナ、君は本当に。王の信頼を勝ち取ると同時に、自分の首をさらに深く仕事の鎖で繋いでしまった自覚はあるのかい?」
陛下たちが満足げに去った後、クライン伯爵が溜息混じりに囁いた。
「あら、伯爵様。二時間の保証された睡眠があるなんて、天国のような環境ですわ」
「……」
【彼女を救わねば。いずれ、王の感謝という名の重圧に、彼女の小さな身体が押し潰されてしまう前に。まずは、この山積みの書類を半分、私が引き受けるところから始めるか。いや、彼女に任せた方が三倍速いというのが、また私の心を折るのだが】
クライン伯爵の吹き出しは、相変わらず情けない本音で溢れかえっていた。私は懐の算盤の感触を確かめた。第一王子の廃嫡という、この国を揺るがす大事件の後処理は、まだ始まったばかりだ。剥奪された権利、没収された財産、および散り散りになった太鼓持ちの商人たちが抱えていた未払い金。それら全てを、銅貨一枚の誤差もなく整理し、新たな王位継承者となるべき第二王子殿下へ引き継ぐ土壌を作らねばならない。
(うふふ、陛下、あなたの感謝はありがたく頂戴するわ。でも、その感謝の裏側で、第二妃様が隠し持っていた慈善活動費の裏金が、まだ私の算盤の珠から逃げ回っているのよ。安眠の権利を手に入れた以上、それを脅かす不浄な数字は、一文残らず消去して差し上げましょう)
私は歩き出しながら、すでに頭の中で次なる監査対象のリストを整理し始めた。
(さて、次は王立大劇場の修繕に紛れ込んだ崩落寸前の格安木材の件ね。伯爵様、休んでいる暇はありませんわ。王のお墨付きをいただいた以上、今度は公的な力をもって、あの利権にまみれた建築ギルドの腐った根性を、数字の刃で叩き直してあげましょう。銅貨一枚の誤差も、私の査察からは逃げられないわ)
私は、いつか訪れるであろう、誰にも邪魔されない二時間の午睡を勝ち取るために、目の前の巨悪を計算式という絶対的な力で斬り捨て、新たな歴史のページを苛烈に捲るのだ。私の算盤が奏でる旋律は、陛下から賜った安眠の許可証と共に、より一層その鋭さを増していくのであった。
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