第097話 わたくしは、ようやく自分の恋と向き合えますわ
財務局から戻った日の夜、私は自室の窓辺に置かれた椅子へ腰を下ろし、開いたままの帳簿を膝の上に置いていた。
いつもなら、数字を追っていれば自然と頭の中が仕事へ切り替わる。収入と支出を確認し、数字の食い違いを探し、明日の決裁に必要な書類を整理する。そうしていれば、余計なことを考えずに済むからだ。
ところが今夜は、何度数字を追っても内容が頭へ入ってこない。窓の外では王都の明かりがいくつも揺れている。私は帳簿を閉じ、膝の上へ両手を置く。
ヘレナ妃との話が終わったことで、私はようやく一つの問題から解放された。それなのに、胸の中には別の問題が残っている。今まで仕事を理由に考えないようにしてきたものだった。
「……困りましたわね」
誰もいない部屋で呟くと、自分の声が妙に大きく聞こえる。レナート殿下との婚姻を断ったから、アレクサンドル様が気になるようになったわけではない。それは自分でも分かっている。もし殿下との婚姻を求められていなかったとしても、私はきっと同じように彼のことを考えていただろう。
最初に出会った頃は、ただ不思議な方だと思っていた。言葉と本心に差がなく、私へ向ける態度にも余計な飾りがない。財務局で数字と向き合っているときと同じように、私は人の言葉の裏側を考えてしまう。だからこそ、アレクサンドル様と話しているときだけは、その必要がなかった。それがいつからなのか、私は思い出せなかった。
私は机へ移動し、明日の仕事に使う書類を一枚ずつ重ね直した。何度も同じ書類を整えていることに気づき、思わず苦笑する。これでは仕事をしているのか、仕事から逃げているのか分からない。
ふと机の端へ置かれた封書へ目が留まる。アレクサンドル様から届いたものではない。ただの財務関係の書類だ。それなのに、その名前を見ただけで胸が動いたような気がして、私は自分でも驚く。
こんな些細なことで心が揺れることなどなかった。数字なら、増えれば増える、減れば減る。帳簿に書かれた金額には明確な答えがある。なのに、人の気持ちには答えがない。そのことが、今の私には少しだけ怖かった。
「わたくしは……どうして、こんなに気になるのでしょう?」
独り言を口にすると、思い浮かんだのはアレクサンドル様の顔だった。あの方と話すと、もっと話したいと思う。別れたあとには、もう少し話しておけばよかったと考えてしまう。名前を耳にするだけで意識してしまい、姿を見つければ自然と目で追ってしまう。そんな自分に気づくたび、私は何度も「仕事の関係ですわ」と理由をつけてきた。
財務局で関わることがあるから。
王宮で顔を合わせる機会があるから。
話していて楽しいだけだから。
いくつも理由を並べて、自分の気持ちに蓋をしていたのだ。だが、今夜はもう逃げる理由がない。ヘレナ妃も、レナート殿下も、私の人生を決めようとはしないと言ってくれた。ならば、私自身が自分の気持ちを決めなければならない。
私は窓辺へ戻り、夜の王都を眺めた。遠くに見える王宮の塔には明かりが灯っている。あの場所で、私は何度も自分の人生について考えさせられた。
王族になるのか。
財務官として生きるのか。
誰かの妻になるのか。
一人で生きていくのか。
前世では、自分が何を望んでいるのかを考える余裕などなかった。求められれば応え、必要とされれば働き、自分より他人を優先しているうちに、自分自身が何を欲しがっているのか分からなくなっていた。
だから今度こそ、自分の気持ちだけは誤魔化したくない。王族になりたくないからアレクサンドル様を選ぶのではない。レナート殿下を断ったから、彼を選ぶのでもない。誰かに押しつけられた道から逃げるために、別の道へ進むのでもない。
「わたくしは、アレクサンドル様と一緒にいたいのですわ」
口にした瞬間、胸の奥が大きく鳴りうるさい。私は自分の言葉に驚いて、思わず唇へ指を当てる。誰かに聞かれたわけではない。それでも、今まで心の中でしか認めていなかったことを声にしたことで、何かが変わったように感じてくる。
アレクサンドル様と話すと嬉しい。会えば自然と笑ってしまう。もう少し近くにいたいと思うし、もっと彼のことを知りたいとも思う。仕事の話だけではなく、好きなものや苦手なもの、子供の頃のことまで知りたい。そんなことを考えている時点で、答えなど決まっていたのだろう。私は小さく息を吐き、胸元へ手を置いた。
「……私は、アレクサンドル様が好きなのですわ」
言葉にすると、思っていたよりもずっと素直な気持ちだった。怖さもあった。嬉しさもあった。そして何より、長い間自分の中で曖昧になっていたものが、ようやく一つの形になったことに安堵してしまった。
私は恋というものを、もっと複雑なものだと思っていた。相手の身分や家柄、将来の生活、王家との関係、財務局での立場。そんなものまで全部考えて答えを出さなければならないと思っていた。でも、今の私が知りたいのは、もっと単純なことだった。アレクサンドル様といると嬉しい。会いたいと思う。話したいと思う。その気持ちを、私はもう否定しなくていい。
ただし、そこで私は一つの現実へ気づいた。私はアレクサンドル様の気持ちを知らない。以前、他の貴族の子女たちに囲まれている彼を見たことがある。そのとき、彼は相手へ笑顔を向けながら、私には見えない何かを抱えていた。私と話すときだけは違う。私には、言葉と本心が同じように感じられる。それが嬉しくて、私は彼との会話を特別なものだと思うようになった。だが、それだけで彼も私を好きだと決めつけることはできない。私が一方的に想っている可能性だってある。それを考えると、胸が少しだけ苦しくなった。それでも、今までの私は「分からないから考えない」と逃げていたのだ。もう、それはしたくなかった。
「もし……違っていたら、どうしましょう」
私は窓へ映る自分の顔を見ながら呟いた。返事をする人はいない。だからこそ、自分で答えるしかない。
「そのときは、そのときですわ」
私は少しだけ笑った。恋が叶うと決まっているわけではない。アレクサンドル様が私と同じ気持ちだと決まっているわけでもない。それでも、自分の気持ちを知った以上、なかったことにはできない。
私はこれまで、数字が合わないときには原因を探してきた。分からないからといって帳簿を閉じることはしなかった。ならば、自分の恋についても同じでいい。彼が何を思っているのか分からないなら、いつか自分で確かめればいい。怖いなら、怖いままでいい。それでも一歩ずつ進めばいい。
私は机の上に置いていた算盤へ目を向ける。いつもなら、手に取れば仕事の顔へ戻れる道具だ。今夜はそれを見ながら、私は不思議なほど穏やかな気持ちになっていた。人生は帳簿のように、すべてを数字へ置き換えることはできない。利益と損失だけで決められるものでもない。だからこそ、自分の心が何を望んでいるのかを自分で確かめなければならない。
「アレクサンドル様。次にお会いしたときは、逃げませんわ」
私は窓を閉め、机の上の書類を片づけ始めた。明日も財務局で仕事がある。王国の数字を確認し、決裁を進め、やるべきことを終わらせなければならない。それは今までと変わらない。変わったのは、仕事の外にある自分の心を、もう無視しないと決めたことだった。
アレクサンドル様が私をどう思っているのかは、まだ分からない。だからこそ、確かめたい。
私は自分の恋から逃げない。誰かに決められた人生ではなく、自分で選ぶ人生を歩くために、今度は自分の心にも正直でいよう。
そう決めて、私は明日の仕事のために灯りを残したまま、机へ向かうことにしたのだった。
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