第096話 正妃様が、ようやくわたくしの人生を認めてくださいましたわ
午後の財務局は、いつもと変わらない忙しさに包まれていた。私は手元の帳簿へ数字を書き込みながら、先ほどから妙に落ち着かない気持ちを抱えていた。
朝から何度も王宮からの連絡がないか気にしている自分に気づき、私は小さく息を吐く。昨日までなら、ヘレナ妃がまた何か仕掛けてくるのではないかと警戒していただろう。王命を使うことはないと言われても、妃殿下が私を王家へ迎えることを諦めていないのは明らかだったからだ。だから今日も、突然呼び出されるかもしれないと思っていた。そんな私の予想に反して、昼を少し過ぎた頃、執務室の扉が控えめに叩かれた。
「セレスティーナ様、正妃殿下がお見えです」
「……妃殿下が?」
私は反射的に聞き返す。王宮へ呼ばれるのではなく、ヘレナ妃自身が財務局まで来たという。それだけでも、今までとは何かが違う気がした。
私はペンを置き、机の上の書類を整えてから立ち上がる。執務室の外へ出ると、廊下の奥にヘレナ妃の姿が見えた。いつものように侍女を何人も従えているわけではない。今日は一人の侍女だけを伴い、豪華な衣装も身につけていなかった。その姿を見た瞬間、私は少しだけ驚いてしまう。妃殿下が何をしに来たのか分からない。私は警戒を解かないまま、ゆっくりと頭を下げた。
「お待たせいたしました、妃殿下」
「いいえ。仕事中に突然来た私が悪いわ」
ヘレナ妃の声は穏やかだった。以前なら、その穏やかさの奥に何か別の意図が隠されていないか考えただろう。私は妃殿下の顔を見つめ、様子をうかがってみる。その表情に無理をしている様子はない。それでも、何を言われるのか分からない以上、簡単に気を許すわけにはいかなかった。
「こちらへ。人に聞かれたくないお話でしたら、執務室をお使いくださいませ」
「そうさせてもらえるかしら」
私は妃殿下を執務室へ案内した。二人きりになると、ヘレナ妃は扉のほうへ一度視線を向けたあと、私の正面に置かれた椅子へ腰を下ろし、私は向かい側へ座る。いつもなら、この席に座ればすぐに王家やレナート殿下の話が始まっていた。私は無意識に身構えていた。
ところが、ヘレナ妃はなかなか口を開かなかった。
「……妃殿下?」
「ごめんなさい。どう話せばいいのか、少し迷っているの」
「珍しいですわね」
「そうね。私自身もそう思うわ。今までの私は、あなたへ何かを言うとき、いつも自分のほうが正しいと思っていたの。王家のことを考えている。王国のことを考えている。あなたの才能を考えている。だから、あなたもきっと分かってくれると思っていた。でも、陛下に叱られて、ようやく気づいたわ。私はあなたの人生を考えているつもりで、自分が望む形へあなたを動かそうとしていたのね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に張りつめていたものが緩んでくる。私はすぐには返事をしなかった。謝罪を受ければ、それだけで過去のことが消えるわけではない。私が拒絶したことも、妃殿下が王家へ迎えようと動いたことも、なかったことにはならない。それでも、ここまで自分の考えを認めて口にしたことは、今までとは違っていた。
「……妃殿下」
「何かしら」
「どうして、そこまで私を王家へ迎えたかったのですか?」
「あなたが優秀だから、というだけではないわ」
「では?」
「レナートのことを考えていたの。私は、あの子にはあなたが必要だと思っていた。あなたならレナートを支えられる。王家の財政にも詳しい。王国を支える力もある。何より、あなたほど強い人なら、王族として生きてもきっと大丈夫だと思っていた」
「……」
「でも、私は間違えていたわ」
「……」
「レナートは、私より先にあなたの意思を受け入れたもの」
レナート殿下が私のもとへ来たときのことを思い出す。自分の気持ちを残したまま、それでも私が望む人生を選んでほしいと告げてくれた。そのときの殿下の顔には、苦しさがはっきり浮かんでいた。それでも、私を自分のために縛ろうとはしなかった。
「私は、あの子より大人なのにね。母親である私のほうが、息子より諦めが悪かったわ」
「妃殿下……」
「レナートは苦しみながらも、自分で手放したのよ。あなたの人生はあなたが決めるものだと分かっていた。でも私は、どうしても納得できなかった。あなたほどの人を王家の外へ置いておくのが惜しかったし、レナートの隣にあなたがいる未来を捨てたくなかった」
それは、以前のヘレナ妃なら決して口にしなかった言葉だと思う。王国のためという大義だけではなく、自分自身の願望まで認めている。だからこそ、私は初めて妃殿下の気持ちをそのまま受け止めることができた。
「私は、王家を嫌っているわけではありませんわ」
「分かっているわ」
「レナート殿下のことも、嫌いではありません」
「ええ」
「ただ、私は自分で自分の人生を決めたいのです。財務局で働くことも、誰かを好きになることも、誰と人生を歩むのかも、私自身が決めたいのです。それを認めていただけるのであれば、私は王家に敵対したいわけではありませんわ」
「もう、あなたの人生に口を出さないわ。レナートとの婚姻も、王家へ迎える話も、私からはもう言わない。あなたが何を選んでも、私はそれを受け入れる」
「……本当ですの?」
「ええ。本当よ」
妃殿下の目には以前のような強い執着は感じられなかった。少なくとも、私の人生を自分の望む方向へ動かそうとする意思は消えているように思えた。
「ありがとうございます」
「私のほうこそ、今まであなたを苦しめたわ」
「もう、それはよろしいですわ」
「許してくれるの?」
「許すかどうかを決めることも、私自身ですもの。ですが、これから私の人生を私に任せてくださるのでしたら、それで十分ですわ」
「本当に、強くなったわね」
「そうでしょうか」
「ええ。以前のあなたなら、ここまで自分の意思を言葉にしなかったでしょう」
「……そうかもしれません」
私は窓の外へ目を向けた。財務局の中庭では、午後の日差しを受けた木々が風に揺れている。私はその景色を眺めながら、胸の奥に残っていた緊張が少しずつ消えていくのを感じていた。
誰かに許してもらったから、自由になれたわけではない。
私は、自分が望まない婚姻を拒んだだけだ。
王命という言葉を突きつけられても、自分の意思を曲げなかった。そして、何度説得されても、自分の人生を自分で決めるという考えを手放さなかった。だから今、ようやくこの場所に立っている。
「妃殿下」
「何かしら」
「これからも、王国のために必要な仕事なら、私は喜んでいたしますわ」
「ありがとう」
「ただし、私の結婚相手についてだけは、財務局の決裁書のように処理なさらないでくださいませ」
「分かったわ。そこまで言われたら、私も諦めるしかないわね」
「はい」
王家との婚姻問題は、ようやく終わった。
誰かに人生を許してもらったのではない。
誰かに自由を与えてもらったのでもない。
私は自分の意思で拒み、自分の意思で立ち続けた。
その結果として、ようやく自分の人生を自分の手へ取り戻したのだ。
ヘレナ妃は立ち上がる。
「あなたには、あなたの仕事があるものね」
「ええ。まだまだ財務局には、片づけなければならない数字が山ほどございますわ」
妃殿下を見送り、扉が閉じたあと、私は一人で執務机へ戻った。
椅子へ腰を下ろして、ペンを握る。目の前には、いつもと変わらない帳簿が並んでいる。なのに、今日は少しだけ違って見えた。
誰かの望む人生ではない。
私が選んだ人生を、これからも歩いていけばいい。
そう思いながら、私は新しい書類を一枚手に取るのだった。
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




