大木の主
仕事のある九郎右衛門の福岡丸を見送り、行長は一般的な和船に揺られてこの下津井までやってきた。
あのハイテクなスクリュー船に比べれば、とても遅いが波に乗って船は下津井の港に滑り込む。そこには異様ながらもどこか幻想的な光景が広がっていた。
空を見上げれば、大小さまざまな「月のカケラ」が、重力を無視してあちこちにぷかぷかと浮いている。それはまるで、空に撒かれた白い宝石の礫のようだった。カケラ同士が時折触れ合い、風鈴のような涼やかな音を立てる。
「綺麗やねぇ。ここは月のカケラが随分と多いわぁ……」
ほたるが空に浮かぶ石を見上げて呟く。
港の喧騒も、弥九郎が知る戦国時代のものとは一線を画していた。
「おい、そかぁ、邪魔んなるけん、退けぇ」
瀬戸内訛りの声に振り返ると、そこにいた二足歩行の猫や狸の姿をした獣人たちが、のそのそ引き上げていく所であった。
かつての凶暴な肉食獣の面影は薄く、少しふっくらとしたフォルムに知性を宿した瞳。彼らは港の「警備係」として雇われているようで、腰に十手を差し、不審な動きをする者がいないかパトロールしている。
「先生が言うには月のせいで、獣が人になったんじゃって。じゃけど彼らは力が強よーて今じゃ、下津井の重要な労働力よ」
そう言って笑うのは、この船を先導してきた凪だった。慣れた手つきで桟橋の警備兵に通行証を提示している。獣人は堺にも居たが、圧倒的に多い。
「そういえば先生って名前は?」
「言ってなかったっけ?健太郎って言うんよ」
(健太郎……?)
凪が口にしたその名。あまりに現代的な響きに、行長の脳裏には「あっちの世界」の記憶がフラッシュバックする。
「先生って、健太郎っていうのか。……苗字とかは?」
「さあ? 昔はお坊さんだったらしいけど、還俗して侍になった時に『健太郎』って名乗ったんじゃって。みんな親しみを込めて『健太郎先生』って呼んどるわ」
凪は屈託のない笑顔で答える。
(還俗して健太郎……。もし俺と同じ転生者なら、そのネーミングセンスは確信犯だぞ。……スクリューも作ってるとしたら尚更だわ)
下津井の活気ある通りを歩くと、軒先に、聖徳太子の教えとして知られる「以和為貴(和を以て貴しとなす)」の文字が染め抜かれた、大きな旗印が風にたなびく長屋があった。
「ここで先生に連絡できるから。獣人を派遣してる事務所よ」
二足歩行となり言葉を解するようになった獣人に人の社会で働けるように訓練して、人夫貸しのような仕事もしているらしい。
「デカ木島に急ぎの伝言をお願い。凪が、弥九郎を連れてきたって」
昔から亀の形をした島だったその島は今ではデカ木島と呼ばれている。
凪が受付のスタッフ(眼鏡をかけた毛並みの良いキツネ)に頼むと、彼は心得たように頷き、奥のテラスへ向かった。そこには、体長一メートルはあろうかという、色鮮やかな通信用の巨鳥が止まり木に羽を休めている。
キツネのスタッフが手紙書いて鳥に渡すと巨鳥は手紙を咥えて力強く羽ばたき、浮遊する月のカケラの間を縫うようにして、大木の島へと飛び去っていった。
「潮が満ちて来るまでに、まずは本太城へ行って、小舟を借りようか」
月が落ちても潮の満ち引きは変わらないようで、今は潮が引いて干潟になっている。歩くと埋まってしまうので潮が満ちてから小舟で行くみたいである。
それにしても、と思う。行長の胃がキュッと縮まった。
村上武吉。その名を聞くだけで、瀬戸内の漁師は震え上がり、大名ですら貢物を欠かさない。海を割るような咆哮一つで、巨大化したクジラをも退散させたという噂がある。
「……そうやね。凪も久しぶりだろうし、挨拶はしとかんとな」
「なによぅ弥九郎、足が震えてるわよぉ。ふふふ、あっしの後ろに隠れとくぅ?」
ほたるが銃を担ぎ直し、揶揄うように鼻で笑う。
「震えてない!……少し武者震いしてるだけ」
行長は虚勢を張り、一行は派遣事務所を後にした。
坂を登るにつれ、本太城の威容が圧倒的な質量で迫ってくる。
それはもはや「城」というより、海に突き出した巨大な砦だった。石垣には、なにやら巨大な魚の骨が装飾のように埋め込まれ、門の左右には主砲級の大筒が何門も海を睨んでいる。
城内に入れば、そこは荒れ狂う「海の男」たちの巣窟だ。
上半身裸で、巨大な錨を軽々と担ぐ荒くれ者たち。そして、彼ら以上に目を引くのが、重装甲を纏ったヒグマの獣人たちだ。彼らは人間三人分はあろうかという巨体で、抜き身の巨大な大太刀を杖代わりに、鋭い眼光で行長を威圧してくる。
「お嬢! お帰りんせぇ!」
「お父ちゃん、中にいる?」
「へぇ! 奥の広間で、因島村上から届いた書状を睨んでおられます。機嫌は……あまり良うありませぬな」
手下の海賊が困ったような声で答える。広間の奥からは、時折「ぬうっ」という、大気が震えるような低い唸り声が漏れ聞こえてきた。
(因島村上との折衝中か……。武吉の怒鳴り声を浴びる前に、あの島へ行ければどれだけ楽か……)
視界の端には、常にあのデカ木島が、嵐の前の静けさを湛えて、海面にその巨大な影を落としていた。
行長(弥九郎)が震える手で重厚な板戸を押し開けると、そこには「海」そのものが座っているかのような巨躯があった。
村上武吉。
鯨の皮をなめした陣羽織を羽織り、岩のような拳で因島村上からの書状を握りつぶさんばかりに睨みつけている。その背後には、二足歩行の巨大なヒグマの近習たちが、抜き身の大太刀を抱えて石像のように控えていた。
「……ぬうっ、因島の連中め。何を血迷うたか。我ら『海賊』の名を捨て、毛利の顔色を伺って『警護衆』などと、なまぬるい名に改めるとぬかしおる……。わやじゃ。海に生きる誇りまで売る気か!」
地鳴りのような怒声が広間に響き、天井からパラパラと埃が舞い落ちる。
行長は思わずほたるの背中に隠れそうになった。
(これが……瀬戸内の魔王……)
その時だった。
「お父ちゃん! ただいま!」
凪が弾んだ声で駆け寄る。
殺気立っていた広間の空気が、一瞬で「溶けた」。
「……な、なーー! なーぎーーー!」
さっきまで鬼のような形相をしていた武吉の顔が、見る間にデレデレと崩れていく。
握りしめていた書状は床に放り出され、巨体を揺らして愛娘に歩み寄った。
「よう帰ったのう!怪我ぁないか? 腹ぁ減っとらんか? ほれ、手ぇ見せてみい、刺し傷とかないじゃろな? あと、ちゃんと寝とるか? 夜更かししとらんか?」
「お父ちゃん、落ち着きんさい」
凪が苦笑するが、武吉は止まらない。
「おい、弥九郎。あのおっさん、本当にあの村上武吉なん?『瀬戸内の魔王』やなかったん?ただの親バカやん」
ほたるが呆れ顔で耳打ちしてくる。
「ちょっ!聞こえるで」
ここは凪の顔を見て上機嫌のままでいてほしい。下手に刺激したくない。
武吉は凪の頭を大きな手で撫でまわしていたが、ふと、その背後に立つ行長とほたるに気づいた。その瞬間、眼光が再び鋭利な刃物のように光る。
さっきまでの親バカ顔が、一瞬で“魔王”の顔に戻った。聞こえてしまったのだろうか?
「……んで、その後ろに居る、ひょろっとした男は誰なん?
凪、まさか変な男にたぶらかされたわけではなかろうな。
もしそうなら、今すぐこいつを錨に縛り付けて、下津井の底に沈めちゃる」
「違うわー、お父ちゃん。こん人は堺から来た弥九郎よ。けーからデカ木島へ案内するんよ。じゃけん船貸して」
「デカ木島じゃと……?」
武吉は行長を下から上に、ゆっくりと睨み上げた。
その圧力に、行長は生きた心地がしない。
「……ふん。健太郎のところへ行くんけ。まあええ、凪の頼みなら許しちゃろう。
じゃがな小僧――」
武吉はぐっと顔を近づけ、低く唸るように言った。
「凪に指一本でも触れてみい。そん時ゃ瀬戸内の魚のエサにしてやるけんの。わかったか」
「は、はい! 肝に銘じます!」
行長は精一杯の声を振り絞った。
武吉の親バカっぷりに圧倒されつつも、行長は安堵の息をつく。
だが、武吉の背後に見える窓の向こう、昼の光を浴びてキラキラ光るデカ木島は、相変わらず沈黙を守っていた。
潮が満ち始め、干潟がゆっくりと海へ沈んでいく。
本太城の桟橋には、村上武吉が腕を組んで仁王立ちしていた。
「よし、行くぞ。健太郎のところへは、わしも顔を出さんとな」
「えっ、お父ちゃんも来るん?」
凪が目を丸くする。
「当たり前じゃ。あいつとは昔からの付き合いじゃけんの。
最近は忙しゅうてのう、顔も見とらん。
それに――」
武吉はちらりと行長を見下ろした。
「小僧の見張りもせにゃならん」
「見張りは余計じゃわ!」
凪が頬を膨らませるが、武吉は意に介さない。
行長は内心で(絶対に逆らえん……)と悟った。
小舟が波に揺れながら、ゆっくりとデカ木島へ向かう。
武吉は船縁に片肘をつき、潮風を気持ちよさそうに受けていた。
「健太郎はのう、ああ見えて気ぃ遣いじゃ。
わしが行くと、いつも茶を淹れてくれるんじゃ。
あの木の中で淹れる茶は、妙にうまいんよ」
「へぇ……そんな仲なんや」
行長が思わず呟くと、武吉は鼻を鳴らした。
「仲も何も、あいつは凪の先生じゃけんの。
わしにとっては、半分身内みたいなもんじゃ」
凪も頷く。
「先生はね、わたしが小さい頃から色々教えてくれたんよ。
字も、算術も、海のことも。
お父ちゃんよりよっぽど優しいわ」
「おい凪、それは聞き捨てならんぞ」
「事実じゃもん」
ほたるが吹き出した。
島が近づくにつれ、行長は息を呑んだ。
島全体を覆う一本の巨木。
幹は天守ほどの太さで、根は海面にまで垂れ下がり、
まるで巨大な生き物の触手のように揺れている。
枝は雲を突き抜けるほど高く、
葉は月のカケラの光を受けて淡く輝いていた。
風が吹くたび、木の葉がざわめき、
その音はどこか人の声に似ている。
「……喋っとるみたいじゃな」
行長が呟くと、武吉が笑った。
「喋っとるよ。あの木は健太郎の相棒じゃけん。
わしも最初は腰抜かしたが、今じゃ慣れたわ」
凪も続ける。
「先生はね、この木と話せるんよ。
虫とも話せるし、あちしらとは違う世界の言葉も知っとる」
(いやいやいや……なんでそんな普通に言えるん……)
行長は心の中で全力でツッコみながら、
それでも目を離せずにいた。
巨木の根元に開いた洞へ足を踏み入れた瞬間、
行長は思わず立ち止まった。
中は驚くほど広く、木の内壁は滑らかで、
まるで磨かれた琥珀のように淡く光を返している。
天井には自然にできたとは思えない文様が走り、
どこからともなく柔らかな光が満ちていた。
(……なんじゃこりゃあ……!)
外観の時とは違う種類の衝撃が、行長の背筋を走る。
(木の中って、普通もっと暗くて湿っぽくて、
キノコとか生えとるもんやろ……?
なんでこんな“神殿”みたいになっとん……?)
凪は慣れた足取りで奥へ進む。
「ほら、弥九郎。遅れとるよ」
「お、おう……」
武吉も当然のように歩いていく。
「ここはのう、健太郎が木と相談して整えたんじゃ。
樹液が垂れる場所も決めとるけん、ここは濡れんのよ」
(木と相談……?
相談って……どういう意味の相談なん……?
いやいやいや、そんなファンタジーみたいな……)
ほたるが振り返り、くすっと笑う。
「弥九郎、口開いとるわよ。虫入るで」
「あをん!」
言葉にならない返事をして口を閉じながら、行長は再び周囲を見回す。
壁は自然の木目とは思えないほど均一で、
床は根が編み込まれたように滑らかで、
奥へ進むほどに空気が澄んでいく。
(……なんじゃここ。
木の中というより、もう“建物”じゃろ……
いや、建物より綺麗じゃん……)
凪が振り返って言った。
「大丈夫よ。すぐ慣れるけん」
(慣れるかこんなもん!)
心の中で全力でツッコみながら、
行長は震える足で奥へと進んでいった。
入口から斜めに登って行った先、ちょうど入ってから一回転した所に戸があった
戸を開けるとそこはカウンターがあり、その奥にはキッチンがあった
行長はもう驚かないぞと心に誓った時、木の奥から、柔らかい声が響いた。
「やあ、待ってたよ」
その声は、木の反響を受けてどこか神秘的に聞こえる。
だが、姿を現した青年は――驚くほど普通だった。
質素な着物に、落ち着いた目元。
だがその奥に、戦国の誰とも違う“知性の光”が宿っている。
凪がぱっと笑顔になる。
「先生!」
青年――健太郎は、凪の頭を軽く撫でた。
「無事で何よりだ。武吉殿も、よく来てくれた」
武吉は豪快に笑う。
「おう、健太郎! 久しゅう会っとらんかったのう。
木も元気そうじゃ」
「ええ。最近は潮風が良いので、機嫌がいいですよ」
(木の機嫌……ねぇ……)
行長は心の中でまたツッコむ。
ほたるが肘でつつく。
「弥九郎、また口開いてるわよぉ」
「おおん!」
また変な返事をしてしまった。しかも今度は初対面の健太郎の前で
「初めまして。尼子健太郎勝久です」
その名を聞いた瞬間、行長の背筋がびくりと跳ねた。
(……尼子勝久……!
いや、待て。尼子って言うたら――)
行長の脳裏に、現代で学んだ歴史の断片が一気に蘇る。
(尼子氏は山陰一帯を治めた名門。
京にも名が響いた大大名で、毛利元就と死闘を繰り広げた戦国の雄……
本家は滅び、残ったのは“尼子再興の旗印”として担ぎ上げられた若き当主――
それが、この勝久……)
目の前の青年が、どこかで読んだ本に載っていた“悲劇の名将”と重なり、
行長は思わず息を呑んだ。
(そんな人物が……下津井の木の中にいてるんか……?
これ、歴史的にめちゃくちゃ重要人物じゃろ……)
健太郎は行長の動揺を察したのか、穏やかに微笑んだ。
「はい、”あの”尼子です。
ですが――ここでその名を大きく言うと、下津井が騒ぎになります。
尼子の名は、今でも毛利にも浦上にも、そして尼子残党にも重い。
だから……ここでは“ただの健太郎”と呼んでください」
(……そりゃそうや。
尼子の名が下津井におると知れたら、
毛利も浦上も血相変えて探しに来るわ……)
武吉が豪快に笑う。
「そうじゃそうじゃ! ここで“尼子様”なんて呼んだら、
港中の獣人が耳ぴくぴくさせて集まってくるわ!」
凪も頷く。
「先生はね、偉そうにされるの嫌いなんよ。
“健太郎先生”が一番しっくりくるんよ」
ほたるが肩をすくめる。
「まあ、確かに“尼子勝久様”なんて呼んだら、
この木の中じゃ浮くわねぇ」
健太郎は苦笑しながらも、どこか嬉しそうだった。
健太郎は行長に向き直り、静かに言った。
「あなたのことは――安国寺殿から聞いています」
「安国寺……恵瓊?」
行長の眉がわずかに動く。
(安国寺恵瓊……名前は聞いたことある。
確か……毛利の外交僧で、後に豊臣政権でも重用される人物……
くらいの知識しかないけど……
なんでその恵瓊が、僕のことを……?)
行長の胸がざわつく。
(猿からの命令で来たのに、恵瓊の名……
猿と恵瓊……何か繋がりがあるのか?……)
だが健太郎はそれ以上は語らず、
木の奥へと手を差し伸べた。
「さあ、どうぞ。
まずは、ゆっくり話しましょう」




