魚屋の裏の顔
川沿いを南へ少し下ると、市の喧騒から少し落ち着いた所に魚屋の暖簾が夕風にそよいでいた。
夕陽に照らされた布地がゆらりと揺れ、その奥に灯された行灯の明かりが、ほのかに道へ漏れている。
暖簾をそっとくぐると、外の喧騒がふっと遠のき、洗練された静けさが広がっていた。土間の叩きには打ち水がなされ、ひんやりとした空気が足元をかすめる。大きな木桶の中では、近海で獲れた魚や浜で獲れたアサリや蛤などが鈍い光を放っている。
店奥の帳場には、使い込まれて角の丸くなった算盤と大福帳が置かれ、そこだけが静かな時の流れを湛えていた。
九郎右衛門は弥九郎の肩をバシバシたたいて
「さあ、ここが今日からお前の家じゃ。とは言うても、下津井の方に行く事が多いじゃろうけど。今日くらいは瀬戸内の鯛を腹一杯食うてもらうでー。ささ、入りんせー」
九郎右衛門の太く温かい声が、打ち水で湿った土間に響く。
さらに奥へと目を向ければ、勝手口からは煮炊きの煙が細く立ち上っている。
板間には簡素ながらも手入れの行き届いた調度品が並び、猫獣人の女中が小さな足音を立てぬよう気を配りながら、器を丁寧に拭いていた。
その仕草は猫らしい柔らかさと、商家の者としての几帳面さが同居している。
戦国の世にあっても、この家には商人の誇りと確かな生活の営みが息づいていた。
壁に掛けられた古びた家訓――「まっとうな品を、まっとうな値で売る」。
その言葉を見上げる猫獣人たちの瞳には、九郎右衛門の揺るぎない信念を受け継ぐ静かな光が宿っているようであった。
奥の座敷に入ると九郎右衛門は
「飯の前にちょーっと弥九郎と話しせなおえんけん、二人は先風呂でも入っといて」
とほたると凪を風呂へ案内し、行長を連れて書斎までやって来た。
「さぁさ、やっとゆっくり話が出来るなぁ。…どっから話すかな」
九郎右衛門は耳の後ろを掻きながら
「先ず、羊の事は知っとる?」
と聞いて来たが、「わかりません」と答えると
「そっからかー。羊のこたぁお父上から聞いとってもええのになぁ。まぁええわ」
といい、「羊」について話し始めた
羊とは、十二支という大きな組織の一部であり、主に商売を隠れ蓑にした諜報活動を担っている。
十二支には他にも十一の組織があり、それぞれが独自の役割を持っていた。
たとえば「鼠」は、どちらの軍にも入り込んでいて、スパイのような働きをしているし
「鳥」はハトや鷹などを使って情報伝達を専門に行い、戦国の混乱の中でも最速で情報を届ける役目を負っていた。
こうして集められた情報は、毛利・尼子・浦上・宇喜多といった大名家に売られていく。
もっとも、どの大名も“自分のところだけに通じている”と思い込んでおり、敵方には別の情報が流れているとは露ほども思っていない。
十二支は、どこの大名家にも属しているようで、実際にはどこにも属していない――
そんな不思議で、得体の知れない組織であった。
魚屋や小西家は、その十二支の中でも「羊」に属しているらしい。
「阿部様にも内緒な」と言われたのは、福岡千件(備前福岡の市を主催する商家の総称)とは別に、羊としての“裏の使命”を持っているという意味である。
阿部様――阿部禅定は、福岡千件の商家を束ねる“ドン”のような存在だ。
その阿部禅定にすら知らされない任務を持つというのだから、羊の活動がいかに秘匿されているかが分かる。実家がそんな隠密だったとは驚きである。
各組織が集めた情報は、最終的に「猿」という組織に集約される。
猿は十二支の中でも頭脳役であり、集まった情報をどう扱うか判断し、必要な命令を各組織へ下すのだ。
そして、「猿」から弥九郎に近年この大きく変わっている"下津井"で、ある人物に「羊」のことは伏せたまま協力するようにと命じられたという事なんだそうだ。
「なんで僕なんですか?」
思わず聞き返してしまったが九郎右衛門は冷静に
「いやな、お前が前作ったくりーむとかいうやつな。アレ作った者を探しとってなー。そんで連れて来る事になったんよ。時間が無ーて、こげーな話し出来んかったけんな。まぁ、悪りーようにゃーならんけん、行って来られぇ」
案内は凪がしてくれるという事であった。
「んで、雑賀のほたるはどうするんかのー?もう紀州に帰るんじゃろーか?まだ向こうの方には知られとー無ーみてーじゃけんなー」
それでほたるの居ない時を見計らってこの話をしたという事か。
「ほたるさんに行くかどうか聞いてみます」
「いや、じゃけん、あの子行ったら雑賀に知られるがー」
「えんやないですかー?そりゃあ、「羊」の事は言わんよーにしますんで」
行長はほたると離れるのは嫌なので頑張って食いついている。
「まぁええかー。お嬢も隠そうとせんかったし。……お、風呂空いたみてーなけん、入るか」
情報は上げるが、命令には理由がついて来ないので結局のところ九郎右衛門も良くは分かっていないのである。ちなみにこの報酬は福岡丸を安く購入する事だったのは行長には内緒である。
風呂から上がると、行長は食事をする座敷へ案内された。
襖を開けると、ほたると凪はすでに座って待っていた。ほたるは髪をほどき、湯上がりの頬がほんのり赤い。凪は相変わらず胡座で、どこか気の抜けた姿勢だ。
「ほたるさん、いつ紀州に帰るんですか? 出来れば……下津井にも行ってみます?」
行長はできるだけ自然に言ったつもりだが、声がわずかに上ずっている。
もっとほたるに居てほしい。しかし、それを正面から言うのは気恥ずかしい。
だから“ついでに”を装って誘ったつもりなのだが、耳まで赤くなっているのは隠しようがなかった。
「えー、どうしよっかなー?」
ほたるは扇子で口元を隠しながら、わざとらしく首をかしげる。
「弥九郎はぁ?どうして欲しいん?」
その声音は、行長の照れを楽しんでいるのがありありと分かる。
妖艶な笑みを浮かべ、じっと見つめられた行長は、ますます視線の置き場に困ってしまう。
「帰れ帰れ」
凪が、胡座のまま右手を後ろにつき、左手をひらひら振りながら言った。
「別にこっちに居ったら鉄砲が必要な事は無んじゃけん。雑賀に情報持って帰られるだけ損じゃわー」
「ちょっと凪ちゃん、言い方が乱暴よ」
ほたるが笑いながら軽くたしなめると、凪は鼻を鳴らした。
「ほたるが居ったら弥九郎が落ち着かんのんじゃ。ほら見てみぃ、さっきから顔がまっかじゃが」
「なっ……!これは風呂で.....」
行長は思わず声を上げたが、否定しようにも言葉が続かない。
ほたるはそんな行長を見て、ますます楽しそうに目を細めた。
「ふぅん……じゃあ、もう少しだけ居よっかな。弥九郎がそんな顔するんじゃぁ、帰りづらいわぁ」
その一言に、行長の胸がどきりと跳ねた。
凪は「はぁ……めんどくさ」と呟きつつも、どこか呆れたように笑っている。
もっとも、ほたるも備前には来たもののまだ福岡丸の謎もしっかり見ていないので帰ろうにも帰れないのであるが。
夕飯には鯛の刺身とアサリの汁物など、瀬戸内海の豊富な海の幸がずらりと並べられていた。
湯上がりの身体に、潮の香りと出汁の匂いがふわりと染み込んでくる。
瀬戸内の鯛は流れが急なため身が締まり、餌の豊富さから脂もよく乗っている。
口に入れた瞬間、プリプリとネットリが同居した食感が舌を包み、鯛の旨みが脳天を直撃する。
幸福感がじわりと広がり、思わず目を細めてしまうほどだった。
大きすぎて部位ごとに切り分けられたアサリの汁物も、出汁がしっかり効いていて、舌がとろけるような味わいだ。
「うん、やっぱり生け締めにして熟成さしたやつは美味いなー」
凪は鯛をガツガツ食べながら、どこで覚えたのか分からないうんちくを得意げに披露している。
「おー? 味分かんねや」
ほたるがからかうように凪の方を見て、唇を尖らせた。
「はぁ? 村上は美食家じゃけんな。熟成とかした事無ー奴がよー言うわー」
凪はむすっとしながらも、どこか楽しそうだ。
いつの間にか、ほたると凪は軽口を言い合えるほどの仲になっていた。
「でも熟成って、どうするんやろーか?」
行長が素朴な疑問を口にする。
冷蔵などできないこの時代では、確かに不思議でしかない。
「それも“下津井”なんよなー」
凪は胸を張り、どこか誇らしげに九郎右衛門を見た。
九郎右衛門は得意げに桶を担いでくると
「この桶に海の水張って、魚入れとったらな、ぼっけぇ美味しゅうなるけん。この鯛もなぁ、四日も前のやつじゃけんなー」
「四日前……?」
行長は思わず箸を止めた。
それは、ほとんど革命のような話だった。
九郎右衛門が持ってきた桶を見ると、福岡丸と同じような素材でできていることが分かる。
これも木の汁を固めたものなのかと尋ねてみたが、九郎右衛門も詳しい仕組みは分からないらしい。
凪は胸を張って
「これも先生が作ったんじゃー。すごいじゃろ?」
そのドヤ顔に、行長は思わず笑ってしまう。
“下津井には一体何があるのか――”
明日から向かうその場所に、行長の胸は強く惹きつけられていた。




