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備前へ

 

 水平線の向こう、淡路の島影が朝靄に溶けている。

和泉灘の潮風はまだ冷たく、真鍋甚助は岩場にしゃがみ込み、海面に漂う白い霧をじっと見つめていた。

目の前には、眠りから覚めようとする堺の港が横たわっている。

朝陽を浴びて黄金色に輝き始める会合衆の蔵敷、そして整然と並ぶ無数のマスト。天下の台所と呼ばれるその豊穣な景色は、いつもなら甚助の誇りでもあった。だが、今日ばかりは胸の奥がチリチリと焼けるように重い。

「……ありゃあ、今から出るのは納屋衆の朝一番の船か。露払いにしちゃあ、随分と喫水が深いやないか」

静寂を切り裂くように、港の入り口から一艘の大型船が、艪の音も高らかに滑り出してきた。かつてはあの船の無事を祈り、適当な通行料をもらって見送るのが甚助たちの「仕事」であり、海の秩序だった。

それが今や、上洛を果たしたばかりの織田信長とかいう「尾張の成り上がり」の一言で、獲物ターゲットに早変わりした。信長の要求した矢銭二万貫を、堺の会合衆が「そんな殺生な」と突っぱねたせいだ。


「……やれやれ。天下様のお声がかりとあっちゃあ、断るわけにもいかへんか」

甚助は立ち上がり、湿った袴の裾を払った。

「なー、甚助の親分! モヤが晴れてまうでー、やっちゃりますか!」

冷えた手足を持て余していた若い衆が、錆びた槍を握り直し、期待に満ちた声を上げる。甚助は耳の裏をガリガリとかき、潮の香りを深く吸い込んでから、重い腰を上げ

真鍋甚助は、愛用の安宅船の縁に腰掛け、鼻を鳴らした。


「ああ、やらないでか。……ったく、商人どもも、あの魔王みたいな男に逆らわんと尻尾振っとったらええのに。おかげで儂らぁ、長年のお得意様に泥棒を働く汚名を被らんとあかん」

甚助は腰の刀を軽く叩き、海風に目を細めた。

「まあええわ、仕事や。おめーら、船を寄せぇ! 殺すなよ、荷を奪って『次はもっと高こうなるぞ』とだけ伝えちゃれ」


朝日に染まる波を蹴立て、甚助の小船団が商船へと襲いかかる。その背中には、権力者の身勝手な命令への毒づきと、それでも時代の波に乗り遅れまいとする、小勢力ゆえの切ない覚悟が滲んでいた。


安宅船が大型船と並走を始めた、その時だった。

標的の商船の影から、見慣れぬ快速船が割り込んでくる。舳先には、朝露に濡れた鉄砲を抱えた女が一人。名はほたる。雑賀の血を引く、死神のように冷ややかな女だ。

「寄せて。……30間でいい」

彼女のいつものおっとりとした口調よりは少しはきはきとした静かな声が響くと、船は波を切り裂き、甚助の約五十メートルの距離まで肉薄した。

「おい、あの女、まさか――」

「なまんだぶ」

若い衆が怯えを見せるより早く、ほたるの念仏が唱えられた瞬間、乾いた銃声が朝の静寂をぶち抜いた。

――パァンッ!

「ぐ、おっ……!?」

衝撃と共に、甚助の視界が火花を散らす。左の目蓋を熱い鉄の塊がなぞり、鮮血が頬を伝った。あと数ミリ深ければ、頭蓋を貫かれていただろう。

 鉄砲を撃つ時、念仏を唱える。すると命中率が上がるといって雑賀衆の中で流行っている撃ち方だ。

「お、親分! 左目が!」

「……阿保ぅ騒ぐな。こいつは『目抜き』や」

甚助は震える手で傷口を押さえ、忌々しげに吐き捨てた。

雑賀衆の中でも一握りの手練れしか成し得ない、警告のための超絶技巧。狙って目を掠めるその弾丸は、「次はお前の眉間をぶち抜く」という、雑賀からの明確な絶縁状である。

「……野郎ども、面舵や! さっさとズラかるでぇ」

「えっ、でも信長様の命令が……」と食い下がる手下を、甚助は残った右目で睨みつけた。

「アホ抜かせ! 相手は雑賀や。これ以上居座っとったら、今度は儂らぁの眉間に穴が開くわ。……仕事料より命んが高ぅつくわ!」

甚助の船団は、獲物を前にして蜘蛛の子を散らすように反転した。

霧の向こうへ消えていく海賊たちの背後で、ほたるは静かに銃口の煙を吹き消し、再び朝の海へと視線を戻した。



朝霧が完全に晴れ上がった紀淡海峡。

福岡丸は、淡路島東岸の要衝へと舳先を向けた。先程の戦闘の後ほっとしたのも束の間、前方に立ちはだかるのは、切り立った断崖にそびえる洲本城、そして海を睨む由良城の威容である。

そこは淡路水軍の雄、安宅あたぎ一族の本拠。また海賊である。

海上に目を転じれば、巨大な城郭がそのまま浮いているかのような「安宅船あたけぶね」が数艘、海路を塞ぐように回遊している。船楼には無数の盾が並び、その隙間からは織田の鉄砲を遥かに凌ぐ大口径の「大筒」が黒い砲口を覗かせていた。

「おわー、安宅の番船や。……大丈夫なんかな」

浮き城のような安宅船の威圧感に気圧され、行長は少し身構えた。並の船なら即座に停船を命じられ、手荒い臨検を受ける場所だ。

「安心せぇ。…この方を乗っけとる」

九郎右衛門が視線で促した先、船室から一人の少女が悠然と甲板へ姿を現した。

少女が懐から取り出したのは、安宅の当主直筆の裏書がある「過書かしょ」、そして一族の重鎮であることを示す特別な印。いわばこの海域における顔役だ。

少女がその木札を高く掲げると、威嚇するように近づいてきた安宅船の甲板がにわかに騒がしくなった。

「――真偽は確かか! ……おお、間違いない。通せッ! 道をあけろ!」

先ほどまで殺気立っていた安宅船の太鼓が、合図の音を変える。

巨大な浮き城がゆっくりと左右へ割れ、その中心に一本の「道」が開かれた。

「……流石よねぇ、あの子。あんな小さい子ぉでも顔役出来るんやねぇ。安宅の城門もただの門やわ」

ほたるは銃を傍らに置き、洲本城の天守を見上げながら小さく鼻を鳴らした。


「凪様は村上様のお嬢じゃけん、この辺じゃ一番強い顔役なんよ」


何故か九郎右衛門が得意げに話している

安宅の威光を傘に、自分たちの船は何のお咎めもなく、物々しい警戒網の真ん中を堂々と通り抜けていく。


安宅の巨大な船団を背に、船が再び穏やかな波を切り始めた。

緊張から解放された甲板で、顔役を務めた女が豪快に笑いながら、手にした木札を懐へ仕舞い込んだ。彼女の名は村上 なぎ。瀬戸内を震え上がらせる能島村上氏の家長である村上武吉の娘であり、幼いながらも顔役ということも相まって、その顔の広さは兄弟の中では随一を誇る。

「ま、安宅の連中も()()()の顔見りゃ、矢の一本も放てりゃへんわな」

凪はそう言って、船の隅で帳面を広げていた若い男に歩み寄った。商人の端くれらしい地味な身なりだが、その眼差しにはどこか一筋縄ではいかない聡明さが宿っている。

「で……あんたが、堺の薬種商の倅じゃっちゅう、小西弥九郎(行長)け?」

僕は静かに帳面を閉じると

「はい。あ、この度は村上様の御威光、痛み入ります。明日から備前福岡の魚屋(ととや)に修行に向かう所です」

小さな女の子とはいえ、村上海賊のお嬢様なので丁重に答えた。

「魚屋に修行ねえ……」

凪は面白そうに行長の顔を覗き込んだ。

「九郎右衛門から何も聞いてねんじゃ。 あんたは()()()と下津井の方に行くんでー」

「えー、そんなはずは...」

初耳である。


下津井ーー瀬戸内中の海賊がこぞって拠点を作っている地域で瀬戸内海の心臓部である。もちろん能島村上海賊の拠点もあり、本太城(ほんだじょう)という。


そういえばこの福岡丸も「備前福岡よりちょっと西」で造られたと九郎右衛門が言っていた。

「知らんかったんじゃー。九郎右衛門も悪りーやっちゃな」

凪は笑いながら肩をすくめた。

「姫さん、その話はまた後でしますけん、今は...」

九郎衛門が両手を前に出して抑えるような仕草をしている。    

うん?雑賀には内緒なんかな?九郎右衛門が焦っているので、明日からどういう生活になるのか気にはなるが、それは後で教えてくれるであろう。

「そういえばこの船もその辺で造られたとよーりましたね」

「そそ、()()()の先生が造ったんよ。すげーじゃろ」

先生というとこの時代は家庭教師だろうか?

「だとすると本太城です?」

()()()ね、となりー。()()()()から見えるけどねー」

本太城近辺は小さな島が沢山あり、各島に色んな海賊や大名の出張所的なものがある。そのどれかに造船所もあるのだろう。

つまり、()()()()()に何かあるんだろうとくらいにしか、その時は思っていなかった。


 船が備前の西の大川(現在の吉井川)の河口を遡り、備前福岡の活気ある喧騒が風に乗って聞こえ始めた頃。

泥まじりの川波を潮とは逆に遡っていく。手漕ぎであると殆ど進まないが福岡丸はスーッと港まで入って来た。警備の獣人が集まってきたが、九郎右衛門を見ると引き返していく。


船を降りた一行の前に広がっていたのは、京や堺の洗練とはまた異なる、むせ返るような生命力に満ちた備前福岡の景観であった。

 視界を埋め尽くすのは、幾重にも重なり合った瓦屋根と、迷路のように入り組んだ土壁の蔵。街道沿いには数多の旗印がはためき、行き交う人々の熱気が陽炎となって揺れている。

「……すげぇ、人。それに獣人が沢山働いてるなあ」

行長が呟いた通り、荷を背負った熊の獣人が、仕事を終えたのか肩をぐるりと回しながら帰路につき、狐の獣人の娘は尻尾をふわり揺らして店先の灯りをともしている。堺よりもこちらの方が良く目立っている。夕暮れの光が彼らの毛並みに柔らかく反射し、まるで町そのものが温かな息をしているようだった。

 船着き場では、獣人の船頭が耳をぴくりと動かしながら、明日の荷の段取りを仲間と話している。

「弥九郎や、あれを見んせー。あそこが『福岡の市』よ。あそこで売れんもんは、この世には()ぇと言われとるけんなー」

九郎右衛門が指差した先には、巨大な市が広がっていた。

名刀「備前長船おさふね」が鈍く光り、山のように積まれた瀬戸内の塩が朝陽を照り返す。さらに奥には、九州や大陸からの渡来品を扱う怪しげな露店までが軒を連ねている。

その喧騒を見下ろす北の小高い丘には、宇喜多直家が虎視眈々と周辺を窺う妙善寺城が、鋭い眼光を放つように鎮座していた。

「……城が、近いんやねぇ」

ほたるが短く呟く。

商業の光と、戦国大名の野心が、吉井川の泥濘ぬかるみのなかで混ざり合う。

行長はその光景を網膜に焼き付けた。堺が「自治」の街なら、ここは「欲」が剥き出しになった街だ。

「さあ、立ち話も何だ! 今日は疲れたろ。家ぇ入ろっか」

九郎右衛門の威勢の良い声に促され、一行は人混みの波へと足を踏み入れた。


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