石山本願寺
次の日、孫市と茶々麿は馬に跨って、堺の町を北へ、石山本願寺へと進んでいった。町を離れると、景色は一気に静かになり、広い田畑には稲穂が風にゆれ、黄金色の波が道の両側にひろがる。道はやがて葦の沢山生えた湿地帯に差しかかった。
「昨日のカモは美味かったなー。土産に持ってったら怒るかいなー?」
一向宗は肉食を厳しく禁じないが、流石に本拠地ともなると孫市でも気が引けるのであろうか。
昨日、宿に帰って一眠りした後、さっきの湿地帯の手前にある溜池まで来て、さっと鴨を仕留めた。分厚い孫市も鉄砲を撃つ姿はとても美しい。鴨は今井宗久という商人の家に持って行き、捌かれ、葱や茸と共に鍋になった。
「雑賀の鉄砲は、味も損なわんよーに撃てるんですかいのー」
「当たり前よ、宗久。羽をかすめて首を落とすのがわぇの流儀よー」
味を落とす事なく仕留めるには1発で即死させなければならない。普通は羽を撃って、バタバタと暴れて、筋肉が焼けて身が不味くなるものである。
鴨は噛みしめるほどに、力強い脂の甘みが、口いっぱいに広がって、本当に美味しかった。
孫市は小西家でも火薬を買っているが、鉄砲は主にこの今井宗久から買っている為、仲は良さそうだが、信長陣営とも繋がっている宗久に本願寺の御曹司を合わせて、圧をかけておこうくらいに思っていたかもしれない。
「頼旦殿は好きでしょうけど、雷礼さんは怒るでしょうね。」
下間頼旦に雷礼。それに最高司令官の頼照を加えて本願寺の下間三悪とこっそり呼ばれている。「悪」は"切れ者すぎて怖い"と言う意味で現代においての悪とは少し違う。頼旦は少し腹黒いところはあるが。
「あいつは融通という言葉を知らんからの。やめとこ、やめとこ。めんどくさいわ。」
ルールを遵守する雷礼と自分がルールである孫市とは折り合いが悪く、何時も周りの僧がハラハラして見ている。この時代、魚などは食べるが、武士でも鳥を食べる者は少数であった。大きな鴨を担いで石山に持っていくだけで二人の喧嘩が始まりそうである。
湿地帯を抜けると大阪の上町台地だ。そこを登ると、視界が開け、大阪の町が一望できる。茶屋がぽつりぽつりと並び旅人や商人が道を歩いているのが良く見える。そして台地の北端に差しかかると、視界の先に異様なほど巨大な土の壁が現れる。それが石山本願寺だ。
高さ10mほどもある巨大な土居が横たわっていて、むき出しの土の色は、夕日を受けて赤茶色に染まり、まるで大地そのものが盛り上がって壁になったようだ。
土居の上には、濃い茶色の板塀(柵)がずらりと並び、武装した僧兵が見張りに立っているのが見える。寺というより、まるで大地そのものが城になったような姿に馬が思わず鼻を鳴らすほどの威圧感がある。
淀川の水を引き込んだ堀は、濁った深い緑色をしていて、底が見えない。
堀に架かる木橋を渡ると、目の前に巨大な門がそびえる。厚い板で組まれた黒褐色の門扉で、両脇には土居が迫り、門前は枡形のように狭くなっている。上部には櫓が組まれ、僧兵がこちらを鋭く見下ろしている。
石山本願寺の重厚な「下間門」を警護する僧兵たちは、茶々麿を見かけると即座に背筋を伸ばした。
「……御帰還である。一同、控えよ!」
先頭に立つ組頭の僧兵が、雷のような声を上げた。
彼らは使い古された鉄錆色の腹巻(鎧)に身を包み、手には磨き上げられた十文字槍を握ってる。その立ち姿は、宗教者というよりも、天下の要塞を守るプロの武家集団そのものであった。
茶々麿が門の前に差し掛かると、左右に並んだ十数名の僧兵たちが、地響きを立てて一斉に片膝をついた。
「茶々麿様、紀州へのお使い、大任お疲れ様にございます!」
僧兵のひとりが顔を上げる。その頬には古い刀傷があり、数々の実戦を潜り抜けてきた男特有の凄みがあるが若君を見上げるその瞳には、熱烈な信仰心と「この幼きお方が、いずれ信長と渡り合う我らの旗印となるのだ」という熱い期待が宿っていた。
茶々麿は(こういうのは苦手なんよなー)と思うが長男なので受け入れている。孫市はハァーとため息を吐きながら小指を耳につっこんで耳を掻いている。
「道中、不審な影はございませんでしたか」
「……案ずる必要あらへん。
それに“雑賀の頭”が共に在る。戦力としてはオーバースペックも甚だしいよ」
「おーばーすぺ?」
よくわからない言葉を吐く茶々麿に僧兵たちは思わず顔を見合わせ、また変な言葉を作ってしまわれたかと呆れ顔である。この若様は時々意味の分からない事を云う時がある。
門をくぐった瞬間、外の静けさとはまるで別世界のように、
格子町の町屋が肩を寄せ合い、軒先からは香の煙や焼き物の匂いが漂ってくる。
商人たちは声を張り上げ、値切り交渉の笑い声が飛び交い、
米俵を積んだ荷車が軋む音と、材木を運ぶ若者の掛け声が混ざり合っていた。
石山の内側は、堺ほどの規模こそないが、
外から見ただけでは到底想像できない熱気に満ちている。
「ここも賑わって来たなー」
孫市の思わず漏れた言葉に、周囲の喧騒が応えるようにざわめいた。
昔からそれなりに栄えてはいたが、ここ数年の発展は目を見張るものがある。
本願寺の勢力が増すにつれ、人も物も金も、まるで潮のように流れ込んでくるのだ。
石山は、ただの寺内町ではなく、
いまや一つの“城塞都市”として膨れ上がりつつあった。
格子町の喧騒を背に、二人は本願寺の中心部へと続く石畳を歩き出した。
町屋の密集した通りを抜けると、徐々に人の声よりも僧たちの読経が耳に届きはじめ、
石山の“寺としての顔”が静かに姿を現してくる。
石段を上るにつれ、町の喧騒は遠ざかり、
代わりに本堂へ向かう僧兵たちの足音や、
鉄砲の手入れをする金属音が響いてくる。
孫市は横目で茶々麿を見やり、
(ほんま、この子は将来どうなるんやろな)
と、ふと胸の内で呟いた。
幼いながらも、ただの“若様”ではない。
雑賀衆でもきつい雑賀風特訓を最後まで完遂した。あの歳で完遂出来たのは茶々麿だけである。
石山も信長が台頭して来た手前、厳しい判断を迫られる。その背には否応なしに本願寺の命運がのしかかってくるだろう。
「……行こか。顕如はん、待っとるで」
孫市が歩調を少し早めると、
茶々麿も迷いなくその後に続いた。
二人の影が、石山本願寺の巨大な伽藍へと吸い込まれていく。
その先に待つのは、ただの報告ではなく、
石山の運命を左右する“始まり”の一歩だった。
奥にあるもう一つの門を超えた途端に、外の喧騒や武装した僧兵の気配が、すっときえる。
空気は澄み、ほのかに香木の香りが漂い、足元の砂利が静かに音をたてる。上を見ると堂宇(お寺の建物)の屋根が幾重にも重なり、まるで山の峰のように連なっている。今では迷宮のようになった奥の本堂まで足をのばす。
本堂奥の襖が静かに開くと、香の煙がゆらりと揺れ、
その向こうに顕如が端座していた。
灯明の淡い光が、彼の白い法衣と落ち着いた面差しを照らし、
まるで闇の中に浮かぶ“静かな炎”のようだった。
孫市と茶々麿が座ると、顕如は目を細め、
二人を包み込むような、しかし底の見えない視線を向け、
「やあ、おかえり」
と柔らかな口調でほほ笑んだ。その声は穏やかでありながら、一言で場の空気を支配する魅力を持っていた。
顕如の一言で孫市は今までの本願寺への不満は吹き飛んでしまう。念仏嫌いで説教嫌いの孫市が(コイツは危険。引き込まれてまう)と頭では思っているが、いざ目の前で話をすると(もっと喜ばせたい)と思ってしまうのだ。
「堺はあかなよー。宗久は信長に付きよるで。会合衆も、よりにもよって三好を頼る事にしーたみたいやな。ほんで、三好が負けたら信長に2万貫支払う腹積もりや」
「三好は負けるでしょうか?」
控えていた下間頼照が割って入った。本願寺の最高指揮官であり、顕如も信頼を寄せている。
「十中八九負けるわや。堺にも門徒はぎょーさんいてるやろーに、本願寺と組まんかったんが、そもそも本気やないんよ」
「本願寺に付いたら雑賀の鉄砲もついて来ますもんね」
茶々麿が茶化すように言った。
「せやねん。堺は鉄砲ぎょーさんこと扱っちゃーるんやから、どっちが勝つんかは、もう判っとるで。信長に2万貫払ろーても南蛮と貿易した方がお得っちゅうこっちゃ」
三好三人衆の軍と信長軍では鉄砲の保有数が圧倒的に違う。南蛮との貿易も信長の方が規模が大きい。孫市は今井宗久の屋敷で探ってきたことを得意げに話している。
孫市が報告をしている間、顕如は微動だにせず耳を傾けている。
その静けさは、聞いているのか、心の奥底で何かを量っているのか、
判別がつかないほど深い。
報告を終えると、顕如の視線がふと孫市に向けられた。
その瞬間、孫市の背筋に冷たいものが走る。
(……あかん。この人の前に長う居ると、胸の内まで覗かれそうや)
顕如は決して威圧しているわけではない。
ただ、あまりに澄んだ眼差しが、人の心の“濁り”を照らし出してしまうのだ。
「孫市殿、苦労をかけました」
「苦労なんてしてへんよ。コイツもまぁ下手な雑賀衆くらいには撃てるようになったで」
顕如の言葉に何やら急に照れ臭くなって、「ほんならなー」とそそくさ本堂を後にした。
襖が閉まると、部屋は再び静寂に包まれる。
顕如は茶々麿に視線を移した。
「……さて、茶々麿。そなたはどう見る」
茶々麿は一瞬だけ息を呑んだが、
すぐに父の目をまっすぐに見返した。
「父上。高野山と連携すべきかと存じます。
山内でも動きがあると聞きます。
石山だけで構えるより、外の力を結びつけた方がよいかと」
顕如は目を閉じ、深く沈思した。
その沈黙は、石山の未来を天秤にかけるような重さがあった。
やがて顕如は、脇に控えていた下間頼照に目を向けた。
「頼照。そなたはどう見る」
頼照は静かに進み出て、深く頭を下げた。
「……叡山と組むよりは御山の方が宜しいかと。近頃山内でも内紛があったみたいですが、何やら不思議な術を使う僧が多く居って、侮り難い存在になっております。向こうは信徒を増やすつもりは無いでしょうが、信長は寺の荘園には反対みたいですからのぅ。
ゆえにこそ、こちらから働きかければ道は開けましょう。
茶々麿様のご提案、理に適っております」
寺は独自に荘園を持っていて、そこには誰も税を掛けていないが信長は税を掛けかけない。
顕如はゆっくりと目を開いた。
その瞳には、決断の光が宿っていた。
「……よい。茶々麿の言を採る。
ならば確かめてこい。高野山の意図を、己の目で」
顕如は頼照に続けて命じた。
「頼旦を同行させる。
高野山との縁は細くとも、断たれてはおらぬ。
頼旦の目と耳で、道を開かせよ」
頼旦が深く頭を下げた。
茶々麿は父に向き直り、静かに礼をした。
「承知いたしました、父上」
顕如はわずかに微笑んだ。
その微笑は厳しさの奥に、確かな期待を宿していた。
「行け。石山の未来は、そなたらの手にもかかっておる」
茶々麿と頼旦が退出すると、
顕如は再び静寂の中に身を置いた。
その背には、
宗教都市・石山本願寺を背負う者の孤独と、
揺るぎない決意が滲んでいた。




