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黒龍大明神の社へ

成願寺は、若狭の山裾にひっそりと佇んでいた。

霧が薄く漂い、八重の霧とは違う。

もっと古く、もっと重い―――土地そのものの霊気が満ちている。


龍の咆哮は、ここまで届き、

山の木々がわずかに震え、本堂の瓦がかすかに鳴った。


元明は思わず空を見上げた。

「……ここまで響くのか。」


八重は霧を揺らしながら答える。

「封印が壊れて時間がたったからの。力が戻ってきておる。」


元兼が静かに言った。

「急がねばなりませんね。成願寺は色々な記録を残している寺です。

 ご住職は慧玄(けいげん)殿。知恵者として皆が相談に来る方です。」


元兼は本堂の扉を押し開けると、薄暗い空間に一本の蝋燭が揺れていた。

その前に白髪の僧が静かに座している。


元兼が膝をつき、深く頭を下げた。

「慧玄様。逸見元兼にございます。若狭の龍について相談があり──」


僧はゆっくりと目を開いた。

「……元兼殿か。龍が起きてしまいましたなぁ。」


穏やかな声だが、その瞳は深い霊性を宿していた。


元兼が二人を紹介する。

「朝倉勢が姫宮御前の祠を焼いてしまいまして......

 龍を鎮める手がかりを求めて参りました。

 こちらは若狭武田家の若殿、元明様。

 そして──百二十年前に龍を封じた八重殿です。」


慧玄は八重を見つめ、静かに頭を下げた。

「……霧の巫女様。本当に今でもいらっしゃったのですね。

 私は姫宮御前の弟から数えて七代目にあたります。」


八重は遠い目をして頷いた。

「こづえはここの出だったからのぅ。七代も経つのか。」


慧玄は目を閉じ、深く息を吐いた。

「龍のことは、私はほとんど存じません。

 曾祖父が詳しく調べておったと記憶しているくらいでしょうか。」


元兼が頭を下げる。

「その調べていたものを拝見できますか?」


慧玄は本堂の奥を指した。

「蔵には古文書がようけございます。曾祖父が種類ごとに纏めて置いております。

 千年前のものから最近のものまで。

 何かお役に立つようなものが見つかると良いのですが。」

 

元明は深く頭を下げた。

「ありがとうございます。必ず手がかりを見つけます。」


八重は霧を揺らしながら言った。

「こづえはここの書物をよう読んどった。必ず何かある。」


元兼が頷く。

「では──蔵へ向かいましょう。」



蔵はひんやりと冷たく、

古い紙の匂いが満ちていた。


棚には無数の巻物が並び、

どれも千年の重みを感じさせる。


元兼が巻物を手に取り、元明と八重に言った。

「三人で手分けしましょう。

 龍封印、祠、義貫様──

 何か手がかりがあるはずです。」


元明は頷き、

古びた巻物を開いた。

「こづえ様が参考になさった書物があるでしょうから、そういうのを探してみます。」


八重は霧を薄く広げ、巻物の魔力の流れを探る。

「……この巻物、霊脈の図が描かれてる。

 龍に昇華したことと関係があるかもしれぬ。」


慧玄も後ろから付いてきて、別の棚を見ながら言った。

「私も探しましょう。今回のことは若狭の、いや日ノ本の危機ですからのぅ。」


四人は静かに、

しかし急ぎながら巻物を開いていく。


日が傾きかけた頃、ようやく龍の事を書いた古文書を見つけ出した。


【昔、此の地に大蛇あり。里を荒らし、田畑を踏み、

 人を呑むこともありて、民大いに困窮す。

 黒龍大明神、これを憐れみ、大蛇に告ぐ。

『人と争うは益なし。共に生きる道を選べ』と。


 大蛇、これを聞きて心改む。

 以後は人を害せず、山の守りとなりて民を助く。】


そして同じ棚から龍に関する事柄が書かれたものが見つかった。

どうやら慧玄の曾祖父が纏めていたのがこれなのであろう。


巻物の内容は、大蛇は悲しみと人への怒りから、黒龍大明神の力を取り込んで

自らを龍に昇華したとある。

しかし、膨大な力を制御できず、

人に対する怒りだけが残り、自我は無いという。


八重は腕を組む。

「この黒龍大明神の力を切り離せる事が出来れば良いのじゃが。」


慧玄は少し考え、本堂の南を指した。

「この山の南に、黒龍大明神番衆大神を祭る社がございます。

 しかも、何の因果か、その社を管理する者は一色義貫公の末裔になりますのぅ。

 代々大蛇の世話と共に黒龍大明神を祀っておる一族でな。」


元明が驚く。

「若狭の守護に武田がなってからも、役目を果たし続けているんや。

 私は一色殿のことを知りませんでした。」


八重は霧を揺らし、静かに言った。

「その一族が義貫の末裔ならば、

 丁度良いではないか。是非とも協力してもらおう。」


慧玄は少し困ったように眉を寄せた。

「ただ......現在の一色の長は玄蕃(げんば)と言うのですが、

 相当な偏屈者でございましてな。」


元兼が固まる。

「偏屈者......?」


慧玄は苦笑した。

「人と関わることを嫌っておりますのや。

素直に協力してくれるかどうか……それが問題でございます。」


八重はため息をつく。

「龍を鎮めるために必要な者が、偏屈とは……

 面倒なことになったのぅ。」


元兼は静かに言った。

「しかし、行くしかありません。

 黒龍大明神がなんらかの手がかりであることは違い無いですから。」


元明は決意を込めて頷いた。

「そうやな。黒龍大明神の社へ向かいましょう。

 玄蕃殿を必ず説得します。」


慧玄は蝋燭の火を見つめ、

静かに告げた。

「紹介状をしたためましょう。何もないよりはマシでしょうからの。」


八重はもう一つ、巻物を手に取っている。

「慧玄。これはこづえが参考にしとった巻物じゃと思うんじゃが、

 いざという時の為にワシが持っておいてもよいかのぅ。」


慧玄は深く頭を下げる。

「霧の巫女様。どうぞお持ち下され。

 黒龍大明神の社は、この寺から南へ半日の道のり。

 山道は険しく、霊脈が乱れております。

 何もないところですが今日はここでお休みになりませ。」


八重はその巻物を懐に入れた。

時折、本堂の外で、水折の咆哮が夜気を裂くように響く。


明日の朝──

偏屈な一色玄蕃が待つ黒龍大明神の社へ向かう。


龍の怒りを鎮めるための、

最初の試練が始まろうとしていた。



――次の日、雨が降っていた。


梅雨の走りの冷たい雨は、肌に当たるとこの季節でも震えるほどだ。

だが八重が頭上に霧のバリアを張っているため、三人は濡れずに進めた。

それぞれが乗る蜘蛛も、霧の笠からはみ出ぬよう寄り添いながら山道を急ぐ。


霧の膜の外では、雨粒が激しく叩きつけている。

だが膜の内側は静かで、ただ霊脈のざわめきだけが耳に届いた。


黒龍大明神の社が近づいた頃、

突然、地面が沈むような音がした。


元明が蜘蛛の背で身を引いた瞬間、

前方の地面がぱっくりと割れた。


「落とし穴……!」


もちろん蜘蛛に乗っているため落ちはしなかったが、

穴は深く、底には鋭い杭が並んでいる。


八重が呆れたように言う。

「どんだけ人を嫌っておるんじゃ……。

 先が思いやられるのぅ。」


元明は穴の横に立つ立札を見た。


〈これより先、許可無き者の立ち入りを禁ずる〉


「入ったらあかんって……」


八重は霧を揺らしながら笑う。

「慧玄から許可を得とる。

 しかし、これは……偏屈どころの話ではないのぅ。」


元兼は真剣な顔で周囲を見渡した。

「玄蕃殿は本気で人を寄せつけぬつもりですね。

 気をつけましょう。」


三体の蜘蛛は慎重に足場を選びながら進み、

やがて雨が弱まり、霧が辺りを包み始めた。


黒龍大明神の社は、

山の霊気が濃く集まる場所にあった。


雨が上がり、霧が白く漂う。

蜘蛛から降りた三人は、

苔むした石段を上り、社の扉へと向かった。


元明が扉に手をかける。

「失礼します──」


扉を開いた瞬間、

鋭い風切り音が走った。


八重が霧を広げ、瞬時にバリアを張る。


次の瞬間、

矢が三本、霧の膜に突き刺さった。


「っ……!」

元明が息を呑む。


八重は霧を揺らしながら冷静に言った。

「扉を開くと矢が放たれるようになっとる。

 ほんに、偏屈者じゃのぅ。」


霧が揺れ、矢が地面に落ちる。


「ヒヒヒ……当たらなんだか。」


奥から現れたのは、一色玄蕃だった。

三十代前半。

黒い法衣をまとい、長い前髪の隙間から覗く目は、

どこか常人とは違う光を宿している。


玄蕃は矢筒を肩にかけたまま、

口元を歪めて笑った。


元兼が一歩前に出る。

「一色玄蕃殿とお見受けする。

 龍を鎮めるため、慧玄様より紹介状を預かっておりますれば、

 協力してほしいんじゃが。」


玄蕃は紹介状をちらりと見ただけで、

鼻で笑った。

「帰れ帰れ。

 今はその龍のおかげで霊脈が乱れとって、頭が痛いんじゃ。

 話すことなど何もない。」


元明が慌てて前に出る。

「待ってくれ!

 龍は若狭の民を苦しめてるんや。

 このままやと、若狭が沈んでしまう!」


玄蕃は肩をすくめた。

「ヒヒヒ……沈めばええがな。

 人間が龍を怒らせたんやろ。

 滅ぶのは道理じゃ。」


元明は食い下がる。

「それでも守りたいんや。

 若狭の民も、山も、海も……全部や。

 龍を鎮めるためなら、何でもする。」


玄蕃の笑いが止まった。


霧の中で、玄蕃はゆっくりと元明を見つめる。

その目は、試すような、値踏みするような光を宿していた。

「……何でも、するんか?。」


元明は迷いなく頷いた。

「する。」


玄蕃は口元を歪め、

ヒヒヒと気味の悪い笑いを漏らした。

「ほんなら──条件を出したるわ。」


八重が霧を揺らしながら言う。

「条件……?」


玄蕃は社の奥を指した。

「黒龍大明神の“逆鱗石”を持ってこい。

 崖の途中に落ちとる。

 霊脈が荒れとるけぇ、普通の人間なら死ぬで。」


元兼が息を呑む。

「逆鱗石……!」


玄蕃は楽しそうに笑った。

「ヒヒヒ……それを持ってこれたら、

 協力したるわ。」


霧が濃くなり、

遠くで龍の咆哮が響いた。


黒龍大明神の社で、

最初の試練が始まった。







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