逆鱗石の試練
黒龍大明神の社に霧が満ち、
龍の咆哮が遠くの谷を震わせていた。
玄蕃は矢筒を肩にかけたまま、
ヒヒヒと笑いながら三人を見た。
「ほんまに逆鱗石を取りに行くんじゃな?
ほんなら、まずは谷の話をせんとなぁ。」
元明が息を呑む。
玄蕃は社の床に指で円を描き、
その中心を軽く叩いた。
「谷に棲む生き物は、全部“霊脈喰い”になっとる。
霊脈そのものを餌にして生きる化け物じゃ。」
八重の霧がわずかに震えた。
玄蕃は続ける。
「中でも逆鱗蟻は最凶よ。
人の体ほどの大きさで、何でも噛み砕く。
今は霊脈の乱れで常に興奮しとる。
その蟻が谷から出られぬ結界がもうすぐ壊れる。
それを直すには逆鱗石が必要なんじゃ。」
元兼が眉を寄せる。
「ではその蟻をかわして逆鱗石を取ってくるのですね。」
「ヒヒヒ。それは不可能じゃ。
あやつらは何の為にか知らんが逆鱗石を女王の間に溜めとるでの。」
元明が眉をひそめる。
「では、どうやって......。」
「匂いで蟻になるのよ。蟻は匂いで自分の仲間を見分けとるからの。
その匂いを作り出せるのがハネカクシいう虫なんじゃ。
儂の分家がハネカクシを飼うとっての。その体液を体に塗りつけて女王の間まで行くのよ。」
玄蕃は口元を歪めた。
「けどな──逆鱗蟻より怖いのがおるんじゃ。」
元明が身を乗り出す。
玄蕃は楽しそうに言った。
「百垂よ。ムカデが霊脈喰い化した化け物じゃ。
逆鱗蟻を食うほどの顎を持っとる。
いつからか巣の前に縄張りを張って、獲物を待つようになって
採りにいけれんようになったんじゃ。」
八重が低く呟く。
「……ハネカクシの体液は効かぬのじゃな。」
玄蕃はヒヒヒと笑った。
「効かん。百垂は蟻を喰うからの。仮に蟻じゃと思うても襲うてくるわ。」
玄蕃の案内で、三人は山の麓にある小さな集落へ向かった。
そこは、一色一族の分家──
ハネカクシを養殖する一族が暮らす場所だった。
家々の軒先には木箱が吊るされ、
中には黒い細長い虫がうごめいている。
一族の長が壺を差し出した。
「逆鱗蟻が触角で触ってきたら息をしてはなりません。
なんぼう恐ろしゅうても息を止めてやり過ごせば襲っては来ませんが、
息をして蟻一匹にでも気づかれたら、
そこらじゅうの蟻にも伝わり、一斉に噛みついてきます。」
元明は壺を開けた。
強烈な匂いが鼻を刺し、
思わず顔をしかめる。
八重が顔をそむける。
「うっ……これ、ほんまに塗るんか……?」
「ヒヒヒ。塗らねば逆鱗蟻に食われるだけじゃ。」
元兼も体液を手に取り、
皮膚に塗りながら震えた声で言う。
「これは……気持ち悪いですね……」
体液は黒く粘り、
肌に貼りついて離れない。
一族の長が静かに告げた。
「汗で流れたら、逆鱗蟻が本当の匂いを嗅ぎつけます。
その瞬間、谷は地獄になります。」
玄蕃はヒヒヒと笑った。
「帰るまで汗をかかんよう祈っとけ。
まあ、祈っても汗はかくじゃろうがなぁ。」
三人は体液を塗り終え、
霧の中で互いの顔を見た。
元明は拳を握る。
「逆鱗石を取ってくる。若狭を守るためや。」
八重は霧を揺らしながら頷いた。
「行くぞ。早うその石を採って風呂に浸かりたいわ。」
玄蕃は社の前で立ち止まり、壺を差し出した。
「ヒヒヒ……ほな、行ってこい。念のため、予備の体液も持っていけ。
気づかれたらなんぼう塗っても効かんが、気休めじゃ。
逆鱗石はようけあるが拳ほどのを一つで十分じゃからのぅ。」
霧が揺れ、
谷へ続く道がゆっくりと開いた。
谷は静かだった。
しかしその静けさは“死”ではなく、
“霊の飢え”だった。
地面には無数の噛み跡があり、
木々は根元から食い荒らされている。
遠くで、
カチカチ……と顎の音が響いた。
逆鱗蟻だ。
赤い甲殻が霧の中で光り、
人の体ほどの大きさの蟻が、
霊脈の匂いを嗅ぎながら歩いている。
元明は息を止めた。
逆鱗蟻が近づく。
触角がゆっくりと動き、
元明の体液の匂いを嗅ぐ。
八重も元兼も息を止める。
蟻の触角が、
元明の頬に触れた。
一瞬でも息をしたら終わりだ。
逆鱗蟻はしばらく匂いを嗅ぎ、
やがて興味を失ったように去っていった。
三人は静かに息を吐く。
元明は震える声で言った。
「……これ、続けるんか。」
八重は霧を揺らしながら答える。
「まだ始まりじゃ。蟻の巣はもっと奥じゃ。」
何度か蟻と対面したが、その度に息を止めてやり過ごす。
谷の奥へ進むと、
巨大な穴が口を開けていた。
赤黒い壁。
霊脈が風を巻き起こし時折轟々と吹き荒れる。
巣の入口では、
逆鱗蟻が何匹も行き来していた。
そのとき──
霧の奥から巨大な影が滑り出た。
影は逆鱗蟻に飛びかかり、
バリバリと甲殻を噛み砕く。
赤い破片が散り、
霊脈の光が血のように地面を照らした。
八重が小さく呟く。
「……百垂じゃ。」
元兼が囁く。
「蟻を食べている間に巣に入りましょう。」
三人は百垂のすぐ後ろをそっと通り抜け、
巣の中へ滑り込んだ。
巣の中は暗い。
だが、霊脈を吸った苔が青白く壁を照らしている。
逆鱗蟻が無数に歩き回り、
触角が空気を探っていた。
三人は汗をかかぬよう、
壁に沿ってゆっくり進む。
逆鱗蟻がすぐ横を通る。
触角が八重の腕に触れそうになる瞬間――
逆鱗蟻がピタリと止まった。
元明の心臓が跳ねる。
逆鱗蟻はゆっくりと触角を伸ばし、
三人の方向を探る。
八重が霧を静める。
元兼が目を閉じる。
元明は息を止め続ける。
数秒が永遠に感じられた。
やがて逆鱗蟻は興味を失ったように歩き去った。
三人は静かに息を吐く。
元明は胸に手を当てる。
「危ねぇ。汗かきなんで、心配ですわ。」
八重が霧を広げて女王の間を探っている。
「汗は霧で抑えてやっておるわ。心配せんでもええ。
それより、この巣は広いのぅ。ワシの霧でもまだ女王の間に届かん。」
元兼が餌を担いでいる蟻を見つけた。
「あれについて行きましょう。餌の貯蔵庫か、幼虫の部屋か......
どちらにしても女王の間には近づけるはずです。」
三人は餌を担ぐ蟻にぴったり寄り添い、
その後ろを進んだ。
途中で別の蟻とすれ違うが、
先頭の蟻と触角を絡めて情報交換しているらしく、
後ろの三人には何もしてこない。
元明は嬉しそうに囁く。
「しめた。先頭だけ確認してるんやな。
このまま奥まで行けるで。」
巣の奥へ進むと、
空気がさらに重くなった。
八重が囁く。
「女王の間がわかったぞ。こっちじゃ。」
餌を担ぐ蟻と別れ、
霧の奥へ進むと──
巨大な空間に出た。
中央には、
腹が人の何倍もある女王蟻が静かに佇んでいる。
後方では世話をする蟻が群れ、
その奥には黒く光る石が積まれていた。
逆鱗石だ。
元明は息を止め、蟻の間をすり抜けゆっくりと逆鱗石へ手を伸ばした。
指が石に触れた瞬間、一匹の蟻が近づいて来る。
八重が霧を振るわせると蟻の注意は八重へと向く。
触角が八重の頬を撫でる。
八重は目だけで元明に「早う取れ」と促した。
元明は逆鱗石を掴み、
そっと懐に入れる。
蟻は女王の下へ戻っていった。
三人はそっと女王の間を後にした。
今度は外に出ていく蟻を見つけてそれについて行く。
やがて明かりが見えた。
三人は自然と早歩きになる。
そして──外へ出た。
巣の暗闇から急に光へ出たため、
眩しさに目が慣れない。
最後尾の元兼が太陽を手で遮った瞬間──
背中から突き上げられ、宙を舞った。
百垂だ。
巣から出て来る蟻を狙っていたのだろう。
元兼は冒険者組合の鎧のおかげで致命傷は免れたが、
咥えられ上空で振り回されている。
元明は振り向きざまに銃を構えた。
「これでも喰らえ!
こう見えてもアニキに鉄砲を習ろうた身じゃ。
狙いは外さんでぇ!」
ドン、ドン、ドン──
低い音とともに弾丸が百垂へ吸い込まれる。
元明の手にしている銃も冒険者組合製の最新型だ。
青い体液が飛び散り、
百垂は元兼を放り投げた。
元兼は三間(5.4m)ほど飛ばされ、地面に激突して動かなくなる。
元明は引き金を引き続ける。
弾は命中するが、
百垂は動きを止めない。
八重の霧が盾となり、
噛みつきを防ぐ。
盾は崩れてもすぐ張り直される。
八重は元兼のもとへ走る。
「おい、大丈夫か?」
元兼の頬をたたくと反応があった。
死んではいないようだ。
そこで八重は百垂がムカデだったことを思い出す。
「そうじゃ、元明。尻尾の方から節の真ん中を狙え。
ムカデじゃったら節ごとに脳があるからそれを破壊していけば動けんようになるぞ。」
ムカデは節ごとに左右の足を動かす脳のような神経節を持っている。
後ろから動かなくしていけばやがて全体も動けなくなるはずだ。
「八重様。そうは言われましても、
目の前にこう頭ばかりあれば尻尾のほうの節は狙いづらいです。」
「さっきの威勢はどうしたんじゃ。アニキとやらに教わったんじゃろが。」
アニキの名を出されると元明の表情が変わった。
転がりながら尻尾へ回り込み、節の中央へ銃弾を叩き込む。
同じ辺りに何発か当てると、その節は動かなくなった。
「やれば出来るんじゃないか。」
「簡単に言わんでくださいよっと。」
元明は転がりながら百垂の後ろに回り込みながら
一つづつ節を攻撃していった。
一節、また一節── 動きが止まっていく。
残り三節になったところで百垂は体を支えきれなくなって
もぞもぞとしか動けなくなった。
「元明。もうええぞ。それより、蟻に気づかれたようじゃ。
囲まれとるぞ。」
元明も周りをぐるりと囲む赤い群れに気が付く。
「でぇええ。どなんしましょう?」
八重は元兼の懐から割れた壺を取り出し、
ハネカクシの体液と霧とを混ぜて周りを包み込んだ。
「これで少しは気づかれにくい。
動けんようになった百垂は蟻の餌じゃ。
そのうちに谷から出るぞ!」
そういうと元兼の肩を担ぎ、谷を登り始めた。
元明も元兼の反対側の肩を担ぐ。
振り返ると蟻が百垂にまみれている。
「うぇ......気持ち悪。さっさと登ってしまいましょう。」
結界まで五十間──約百メートル。
元明が振り返ると、
百垂の姿はもうない。
谷の底は逆鱗蟻の赤で埋め尽くされ、
その赤い海が谷を登り始めていた。
「八重様! 一斉に来ますよ!
百垂倒したのに、この恩知らず!」
八重は霧で長い盾を張る。
「文句は後じゃ! 走れ!」
二人は元兼を担ぎ、崖をよじ登る。
だが逆鱗蟻が盾を登るのに時間はかからなかった。
――追いつかれる。
その瞬間だった。
谷の上から、
一本の松明が落ちてきた。
赤い群れの先頭に突き刺さり、
炎が轟々と燃え上がる。
続けざまに、
二本、三本、十本──
松明が雨のように降り注ぎ、
谷の斜面を炎の壁が覆った。
逆鱗蟻は火を嫌い、
触角を震わせて後退する。
元明は驚いて顔を上げた。
谷の上には、
ハネカクシの里の衆が並び、
次々と松明を投げ込んでいた。
その中央で、玄蕃がしゃがんで笑っている。
「ヒヒヒ……よう百垂を倒したのぅ。
蟻は火に弱いでな。
煙を吸わんように上がってこいや。」
炎の壁が赤い群れを押し返し、
二人は最後の崖を駆け上がった。
結界の光が目前に迫る。
八重が霧を広げ、
元兼を抱えたまま結界へ飛び込む。
元明も続き、
結界の外へ転がり出た。
背後で、
逆鱗蟻の群れが結界にぶつかり、
霊脈の火花が散った。
谷の怒りは、
結界の外へは出てこられない。
二人は地面に倒れ込み、
しばらく動けなかった。
玄蕃が近づき、
ヒヒヒと笑いながら言った。
「よう生きて帰ったのぅ。
さあ──逆鱗石を見せてみい。」




