武田の血と逸見の誇り
常神半島の山道に、
海霧がゆっくりと満ちていく。
最初は薄かった霧が、
元明と孫市が進むにつれ、
まるで意志を持つように濃くなっていった。
蜘蛛の脚が止まり、
孫市が眉をひそめる。
「……元明。これは自然の霧やない。なんか変やぞ」
霧の奥から、何かがこちらを見ている気配がする。
元明はゴクリと喉を鳴らした。
その刹那──
霧が裂け、白い影が現れた。
長い白髪が霧に溶け、白い肌が淡く光る。
孫市が鉄砲を構える。
「元明、下がれ。あれは……人やない」
元明は逆に前へ出た。
胸の奥が熱くなる。霧の中の少女は恐ろしいほど美しかった。
初めて見るはずなのに、どこかで会ったことがあるような感覚。
それは元明をじっと見つめ、言葉を発した。
「お主、武田信栄の子孫かえ?」
元明は息を呑む。
「信栄様は、確かうちの...若狭武田の初代様や。なんで……分かるんや」
「信栄とはここの龍を一緒に封印した仲じゃからのぅ
ワシは霧でお主に触れとるからわかるんじゃ。
信栄の血を継ぐ者だけが持つ“気”を。」
それがまだ八百比丘尼と呼ばれていた遠い記憶がよみがえる。
水折は可哀そうなやつじゃった。
元々は三方五湖に住まう大蛇じゃった。
あやつはここの霊力に触れ、水を操る事が出来た。
若狭の守護 一色義貫とは良い関係を築いとった。
おかげで若狭が干ばつになる事はなかった。
じゃが、時の将軍足利義教は義貫が力を持つことを恐れ、
その大蛇を討伐せよと命じるが義貫は断り、誅殺された。
水折は......義貫が死んだ夜、泣いとった。湖が震えるほどにのぅ。
そしてすべての人間を恨むようになった水折は怒れる龍となったのじゃ。
将軍義教は都で霊験あらたかであった武田信栄を派遣する。
ワシは信栄に協力した。
八百比丘尼とは呼びにくいからと八重と呼ばれたのがうれしかった。
信栄が叫ぶ。
「八重! 水折を鎮める術はないのか!」
八重は首を振る。
「……封じるしかない。でも、ワシの力だけでは足りん。
お主の血が要る」
信栄は迷わず手を差し出した。
ワシはその手を握り、水折を封じ込めた。
その代償に──
信栄は右手を失う。
ワシは八百比丘尼としての力の大半を失い、
“死んだこと”にして禁足地に籠った。
(信栄……懐かしいのぅ)
孫市が前に出る。
「元明に近づくな。お前は何者や。」
それは孫市を一瞥し、霧を揺らすように微笑んだ。
「ワシか……そうじゃのぅ、ここいらの守り神とでも思うてよいぞ。」
元明は一歩踏み出した。
「もしかして...その龍とは水折様の事では?
という事は......八重様?」
「武田の家は伝えておったか。いかにも、ワシが八重じゃ。」
孫市は鉄砲の構えをとく。
「なんや、武田家と関係あるんか?」
元明は孫市に説明する。
「そうなんすよ!うちに代々伝わる話があって、
”水折様の封印が解かれし時、八重様に従え”と。
それでも八重様があのような御方とは全くわかりませんでした。」
八重は嬉しそうに少し頬を赤らめ、下を向く。
「信栄もしっかりしとるではないか。子孫にワシの事まで伝えよって。」
元明は蜘蛛から降り、膝をつく。
「八重様。お願いがございます。
三方五湖が焼かれそうなんや。朝倉勢が火を放とうとしてる。
若狭が……終わってまう。何とか出来んでしょうか?」
八重の表情が変わった。
「……火を? 湖に……?」
霧が震え、八重の声が低くなる。
「そんなことしたら──
封印が解けてしまうぞ」
孫市が驚く。
「封印……? 何の話や」
八重は元明を見つめたまま言った。
「信栄と……ワシが封じた龍じゃ。
あれが目覚めたら、若狭は......いや京まで沈むぞ。」
元明は拳を握る。
「だから……お願いします。
私は若狭を守りたい。父も祖父も守ってきた若狭を……」
八重はしばらく元明を見つめ、
やがて静かに頷いた。
「……しゃあないな。
信栄の子がそこまで言うなら、うちも動くしかないわ。」
霧が晴れ、八重の姿がはっきりと現れる。
八百比丘尼は元は16歳の娘が不老不死となって歳をとらなくなったという。
なるほど、八重はまだ幼さの残る顔立ちをしていた。
1000歳は超えているはずであるが。
「行こか、元明。封印が解けてしもうたら、再び封印は出来ん。
そうなったら厄介なことになるからのぅ。
急がな、間に合わんぞ。」
そう言うと元明の乗っていた蜘蛛に乗る。
孫市は舌打ちしながらも、元明の背中を押した。
「……しゃあない。お前は影鏡が火を放つのを防げ。
わぇが田辺(現在の舞鶴)まで行って
待機しとるはずの兵を連れて戻ってくるさけ。」
既に惣国連合と本願寺の兵が田辺に集結している手筈になっている。
霧の中、孫市を乗せた蜘蛛は氏家の待つ船へ。
元明と八重を乗せた蜘蛛は元来た道へ。
若狭の命運をかけ、歩き出した。
――—逸見元兼視点――
田井の山は、夕暮れの光を受けて赤く染まっていた。
湿った風が吹き抜けるたび、どこか遠くで木々が軋む音がした。
俺は人質として、影鏡の陣へと引き立てられていた。
影鏡は永源寺谷口に陣に陣を敷いていた。
逸見の館を見下ろし、圧をかけるためだ。
だが──
「ちょくちょく一揆を企てている国衆が田井に潜んでいる」との報が入ると、
影鏡はすぐに陣を田井へ移した。
ここからなら、山全体を焼けるからだ。
影鏡は山を指差し、薄く笑った。
「この一帯に火を放つ。
反抗する国衆どもが潜んどる場所を焼き払うんじゃ。」
元兼の心臓が跳ねた。
田井は──触ってはならぬ場所だ。焼くなどもってのほか。
理由は知らない。ただ、父も祖父も、代々そう言ってきた。
「……やめてくれ。ここは……触ってはならぬ。」
影鏡は鼻で笑った。
「ならぬ場所?そんなもん、ワシが決めるんじゃ。」
松明が俺の目の前に突きつけられる。
炎が揺れ、熱が頬を刺す。
「逸見の忠誠を示せ。
お前が最初に火をつけろ。」
元兼の喉がひきつった。
火をつければ──
ご先祖様に顔向けできぬ。
逸見の名が地に落ちる。
ただ、焼いてはならぬということだけは、骨の髄まで刻まれている。
出来るわけがない。
俺は松明を落とし、その場に膝をついた。
「……焼くなら、俺を焼いてからにしてくれ。
ご先祖様に申し訳が立たぬ。
その代わり、逸見は……最後の一人になるまで抗う事になりましょう。」
人質として来たにも拘わらず、反抗している自分に笑えて来た。
父や母の顔が浮かぶ。
――すまん、父上。
俺は……逸見の名を守れんかもしれん。
影鏡は理解できなかった。
忠誠を示せと言っているのに、
この男は意味の分からぬ禁足地を守ろうとする。
影鏡の顔が歪んだ。
「ほう……人質の分際で逆らうか。」
次の瞬間、拳が頬にめり込んだ。
視界が揺れ、地面が遠ざかる。
もう一発。
また一発。
殴られるたび、田井の土の匂いが鼻に入り、
血の味が口に広がった。
兵たちは誰も止めない。
影鏡の拳は、怒りというより、
“理解不能な反抗”への苛立ちそのものだった。
やがて、元兼の身体は動かなくなった。
地面に横たわり、息だけがかすかに続いている。
影鏡は吐き捨てるように言った。
「……火をつけろ。」
兵たちが松明を構え、田井の山へ向かって歩き出す。
夕暮れの赤が、炎の色に変わり始めていた。




