境目の国
丹後の海は、月の欠片の光を受けて銀色に揺れていた。
その上を、氏家の船が静かに滑っていく。
潮風が頬を撫で、船底を叩く波の音だけが夜の海を満たしていた。
元明は船縁に手をかけ、遠ざかる丹後の山影を見つめた。
胸の奥が、かすかに震えている。
「……ほんまに、若狭へ戻るんやな。」
呟きは海風にさらわれ、闇にとけた。
「なんや元明。もうびびってんのか?」
「そ、そんなことはないっす!」
元明は慌てて言い返すが、揺れは隠せなかった。
孫市は笑い、持っていた干し魚を飲み込んだ。
「若狭の国衆は気難しいで。
けど、お前が“武田の若殿”として立つなら、避けて通れんやん道や。」
元明は唇を噛む。
「……分かってます。でもアニキが一緒に来てくれてホント心強いっす。」
今回は元明が一人では心もとないと孫市に頼み込んだので同行している。
「わぇも若狭を見とこう思うただけや。まあ、気ぃ張りすぎんな。」
そして元明の肩を軽く叩いた。
「お主の元気な顔を見せるだけで上手くいく。」
その言葉に、元明はようやく顔を上げた。
「アニキ……」
波音だけが、しばし二人の間を満たした。
船首に立つ氏家が振り返る。
因幡から惣国連合に加わったばかりの国衆で、今回の若狭攻めでは兵糧輸送を担っている。
「お二人さん。ここから先は神の海や。
潮の流れが変わるで、気ぃつけなはれや。」
氏家の声は落ち着いていたが、
その目は海の先を鋭く見据えていた。
「潮の流れが……?」
元明が問うと、氏家は短く答えた。
「三方の湖が近いんや。あそこは……ちと、特別や。」
孫市が目を細めた。
「特別、ねぇ。」
氏家はそれ以上言わず、舵を握り直した。
海の気配が変わる。
霧が濃くなり、夜の海がゆっくりと“異界”の色を帯びていく。
元明は胸のざわつきを抑えられなかった。
「……なんや、この感じ」
孫市は立ち上がり、海を見下ろす。
「若狭は“境目”の国や。
人が勝手に荒らすと──何が起こるか分からん」
その言葉は、霧の奥に潜む何かを示すようだった。
若狭の本拠は小浜だが、
地元の顔役である逸見清景の本拠は三方にある。
今は朝倉影鏡が逸見を圧迫するため、
小浜から三方への街道のどこかに陣を敷いているはずだ。
だから二人は、若狭湾を大きく回り込み、
常神半島から上陸することにした。
崖が多いが──
今日は“蜘蛛”がいる。
冒険者である巨大蜘蛛が、船底で静かに脚を折りたたんでいた。
常神半島の東には三方五湖が広がる。
淡水・汽水・海水が混じり合い、多種多様な生き物が棲む水の迷宮。
そして、巨大な蛇──いや、龍が棲むとされる場所。
地元では龍神として崇められ、
その怒りは湖も海も呑み込むと語られてきた。
船は常神半島の先端に着いた。
西には、闇の中に御神島が浮かんでいる。
古くから“神の島”と呼ばれ、誰も足を踏み入れぬ禁足地。
氏家は肩をすくめた。
「早う帰って来て下せぇよ。ここにおるだけで、ばちが当たりそうじゃわ」
船は沖へ下がり、二人は蜘蛛に跨がる。
闇に紛れ、崖をするすると登っていく。
夜の海風が、彼らの背を押した。
常神半島の沖に浮かぶ御神島の断崖の上――
月の欠片の光を受けて、
白い影がひとり、崖を登る二人を眺めている。
その足元で、
御神島の岩がかすかに脈打った。
まるで島そのものが、
それの気配に応えるように。
霧が濃くなる。
海がざわめく。
若狭の“境目”が、静かに揺らぎ始めていた。
常神半島の道無き道を、
元明と孫市は蜘蛛に跨がって南へ走った。
海から吹き上げる風は冷たく、
崖の上では松が唸り、
足元では波が岩を砕く音が響く。
蜘蛛は軽やかに崖を登り、
また滑るように下り、
ときには裂け目をひと跳びで越えた。
そのたびに、
海の匂いが薄れ、
代わりに湿った土と杉の香りが濃くなっていく。
「……人の気配が増えてきたな」
孫市が呟く。
確かに木の切り株や人が通ったような道が増えてきている。
とその時、霧がふっと薄くなる。
そこには山肌に寄り添うようにして
永源寺が姿を現した。
苔むした石段が山の奥へと続き、
杉の巨木が並び、
山門は静かに口を開けている。
「……ここが永源寺……」
元明は、寺に満ちる“水の気”に思わず息を呑んだ。
ここが三方五湖の龍神信仰の中心──
そんな空気が、霧の奥から滲み出ていた。
孫市は腕を組み、霧の奥をじっと見つめる。
「雰囲気が濃いな。ここは……ただの寺やないで」
その言葉に応えるように、
山門の奥から風が吹き抜け、霧が渦を巻いた。
そして、この下の集落には逸見清景の館がある。
蜘蛛は最後の崖を静かに登りきり、
三方の集落を見下ろす小道へと降り立つ。
空がわずかに白み始める。
夜の名残を抱えた家々の屋根から、
細い煙が立ち上り始めていた。
漁に出る支度をする者、
井戸端で水を汲む女、
鶏を追い立てる子ども──
静かだが、確かに“朝”が動き出している。
「……戻ってきたんやな」
元明は胸の奥が熱くなるのを感じた。
だが、清景の館の前だけは違った。
門の前に、
槍を持った見張りが二人、
夜通し立ち続けたままの姿勢で佇んでいた。
朝倉影鏡が圧力をかけている今、
ここは若狭でもっとも緊張した場所のひとつだった。
孫市が小声で言う。
「驚かしたら刺されるで。蜘蛛から降りよや」
二人は静かに蜘蛛を降り、見張りへ近づいた。
そのうちの一人が、ふと気配を感じて振り返る。
目が合った瞬間──
見張りの男は、槍を取り落とし、尻餅をついた。
「……も、元明……様……?」
顔がみるみる青ざめ、
次の瞬間、男は地面に膝をついた。
「ひ、ひぃっ……! こ、これは……怨霊……!
朝倉に従う我らを呪うておられる……!」
両手を合わせ、震えながら拝み始める。
元明は慌てて手を振った。
「ち、違う! 生きとる、生きとるから!ほら、触ってみぃ!」
孫市が呆れたように笑う。
「おいおい、元明。お前、死んだことになっとったんか」
見張りの男は恐る恐る元明の袖に触れ、
その温もりを確かめた瞬間、目に涙を浮かべた。
「……生きて……おられたんですか……!若様……!」
次の瞬間、男は立ち上がり、館の中へ駆け込んだ。
「清景様! 清景様ぁ!
若様が──元明様が戻られましたぁ!」
館の奥で、慌ただしく人の気配が動き始める。
朝の光が山の端から差し込み、
霧の中で館の屋根が静かに輝いた。
元明は深く息を吸い、両手で顔をはたく。
館の前で見張りが駆け込んでいったあと、
元明と孫市は式台口(現代で言うと玄関にあたる)で立ち尽くしていた。
孫市が肩をすくめた。
「えらい騒ぎになりそうやな」
元明は苦笑しようとしたが、
胸の奥がざわついて笑えなかった。
その時──
館の奥から、足音が近づいてきた。
廊下の奥から現れたのは、
白髪混じりの髪を後ろで束ねた男。
深い紺の直垂をまとい、
背筋はまっすぐ。
湖の底のように静かな眼差し。
逸見清景。
彼は式台の前で立ち止まり、元明を見つめた。
その目に、抑えきれぬ涙が光った。
元明は思わず背筋を伸ばした。
「……清景殿。武田元明、戻りました」
声が震えた。自分でも驚くほどに。
清景は平伏して涙ながらに話し始める。
「……生きておられたか。ようもまあ、こげな山奥まで」
その声は、震えていて静かに胸へ染み込んだ。
元明は堪えきれず、目を伏せた。
「……すまん。皆に迷惑を……」
清景は首を振った。
「迷惑などではございませぬ。
若殿が戻られた──それだけで、三方の民は救われる」
その言葉に、元明の胸が熱くなる。
孫市が横で鼻を鳴らした。
「ほれ見ぃ、元明。
お前が思っとるより、若狭はお前を待っとったんや」
清景は孫市に目をやり、問う。
「このお方は......?」
元明は胸を張り、誇らしげに言う。
「雑賀の孫市殿や。将軍の援軍に行くいうて正國寺に行った時から
お世話になっとるんや。」
清景は目を見開く。
「雑賀の孫市殿!あの紀州の雑賀衆の!
若殿をお守りいただき、感謝いたします。」
孫市は照れくさそうに肩をすくめた。
「まあ、こいつは放っとけん性分でな」
清景は微笑み、館の方へ手を差し向けた。
「さあ、若殿。
朝倉景鏡が動いております。
話さねばならぬことが山ほどございます。」
清景は式台から静かに歩み寄り、元明と孫市を座へ促した。
「……まずは、戻られたこと。
三方の民にとって、何よりの吉報にございます。」
そう前置きしてから、清景の表情がわずかに陰を帯びた。
「しかし、若殿。今の若狭は、静かに見えて静かではござらん。」
元明は息を呑み、清景の言葉を待った。
「朝倉景鏡は、
“逸見が朝倉に忠を尽くす証”として
人質を差し出せと申してきました。」
清景の拳が震えた。
「景鏡は人質が届くまで小浜から三方へ続く街道に陣を敷き、
行き交う者をすべて検めております。
兵糧も、薬も、自由には通りませぬ。」
「……三方を締め上げる気か。」
「はい。我らを屈服させるための圧でございましょう。」
清景は深く息を吐いた。
「民は怯え、時折、小さな一揆が起こります。
景鏡の兵が村を荒らし、それに耐えかねた者たちが立ち上がるのです。」
元明は目を伏せた。
「……私がいなかったせいで」
「若殿のせいではござらん。
だが、若殿が戻られたことで、
民は再び“旗”を見つけるでしょう。」
清景の声がさらに低くなる。
「そして──
景鏡は、三方五湖の周りに潜む者たちを炙り出すため、
湖畔に火を放とうとしております。」
元明は顔を上げた。
「湖に……火を?」
「はい。湖の霧と葦原は、逃げる者の隠れ蓑となる。
それを焼き払うつもりなのでしょう。」
孫市が眉をひそめた。
「そんなことしたら、益々おさまりがつかんようになるで。」
清景は元明をまっすぐ見つめた。
「若殿。この三方は、ただの土地ではござらん。
湖と山と霧が結ぶ“異界との境目”。
ここを守れるのは、若狭武田の血を引く者だけです。」
元明はごくりと唾をのみ、静かに頷いた。
「……分かった。私が、若狭を取り戻す。」
清景は微かに微笑んだ。
「その言葉を、三方の水も聞いておりましょう」
広間の外で、朝の光がようやく霧を割り始めた。
広間に朝の光が差し込み始め、
霧がゆっくりと晴れていく。
清景の報告を聞き終えた元明は、
深く息を吸い、静かに口を開いた。
「……清景殿。
私ら惣国連合は、本願寺と同盟をくみ、若狭奪還のために動いています。
雑賀衆も、丹後の国衆も、皆、協力してくれる。
ただ──」
元明は拳を握った。
「もう少し時間が必要なんです。
熊谷殿にも、粟屋殿にも話を通さなあかん。
それに、兵を連れて戻るにも日数がいる」
清景は静かに頷いた。
「承知しております。
しかし景鏡は、数日中に人質を差し出せと迫っております。
時を稼ぐのは……容易ではござらん」
孫市が腕を組んだ。
「時間を稼ぐための“餌”がいる、ちゅうことやな」
元明は唇を噛んだ。
その時――襖が静かに開いた。
朝の光を背に、若い武者が姿を見せた。
逸見元兼。
湖の風に焼けた肌、
まだ線は細いが、その目には強い意志が宿っていた。
「父上。……やはり私が、人質に参ります」
元明も孫市も、息を呑んだ。
清景は振り返り、息子を鋭く睨んだ。
「元兼。何を申すか。控えておれ!」
元兼は一歩、前へ出た。
「いいえ。控えませぬ。
景鏡の兵が村を荒らし、湖畔に火を放とうとしている。
民は怯えています。
このままでは……三方が壊れます」
そして元明をまっすぐ見た。
「若殿。
あなたが戻られた今、若狭は必ず立ち上がる。
ならば──
その時までの時間を、私が稼ぎます。」
元明は言葉を失った。
孫市が低く呟く。
「……若いのに、肚が据わっとるな。」
清景は拳を震わせた。
「元兼……お前は逸見の後継。
この地の未来そのものだ。死地に送るわけにはいかん。」
元兼は静かに頭を下げた。
「死にに行くのではありません。
若殿が戻られた今、私は“生かされる”のです。」
その言葉に、広間の空気が震えた。
この後元明が兵を引き連れ、清景が応じるとなると、
元兼は確実に殺されることは分かっている。
しかし、元明は立ち上がり、元兼の肩を掴んだ。
「……元兼。お前を死なせへん。
絶対に、迎えに行く。
若狭は……私が取り戻す」
元兼は微笑んだ。
「その言葉があれば、十分です」
それは死を覚悟した者の顔であった。
後には引けぬと感じた清景は目に手をあてて、天井を仰ぐ。
「く......。
分かり申した。粟屋は小浜にいるため、伝えられませんが、
熊谷には若が戻って来られることを伝えることはできまする。
一刻も早いお戻りを願いまする。」
その目には迷いは無くなっていた。
粟屋には戻って来た折に本願寺がいう声を大きくする”術”で伝えることとして
急いで丹後まで戻ることになった。




