摂津の鍵
―――荒木村重視点――
尼崎の港から吹き込む潮風が、
夜の帳とともに湿り気を帯びて流れ込んでくる。
惣国連合の会議を終えた帰り際、
詩乃殿が儂を呼び止めた。
「池田様に会うには……この者をお連れください。」
儂だけでは不安なのかと胸の奥がちくりとした。
だが、すぐに思い直す。
勝正に会うには、間に誰か入れた方がええ。
光秀殿の顔が浮かんだが、あの人は“理”で動く。
勝正に必要なのは“利”を読む男や。
それに光秀殿は今、竹田城におる。
詩乃殿が連れていけと言ったのは――
黒田官兵衛。
播磨の小寺家に仕える若造だが、
今では惣国連合の策謀を一手に担っているという。
正勝とも面識があるらしいが、若すぎる。
ほんまに大丈夫やろか。
半信半疑のまま、儂は官兵衛とともに
尼崎の料理屋の奥座敷へ向かった。
暖簾をくぐると、
官兵衛は慣れた様子で女将に個室を頼む。
部屋に入ると、酒と肴が運ばれてきた。
官兵衛が静かに盃を差し出してきた。
「荒木殿。
まずは、腹を満たしながら話しましょう。」
灯りに照らされた横顔は、
若いのに妙に落ち着いていて、
底の見えん静けさをまとっている。
儂は盃を受け取りながら、この男の正体を探ろうとしたが、
何を考えているのか分からん。
「池田勝正殿に会う前に──
荒木殿と、腹を割って話しておきたいのです。」
初対面で腹を割るも何もあるかいな、
と思った瞬間、官兵衛は微笑んだ。
「勝正殿とは三好に協力していたころからの同じ国衆としてのなじみ。
惣国連合には合っていると判るが、どう切り出して良いか分からない。
下手をしたら喧嘩になりそうだ。違いますか?」
儂の胸の奥が、ぐっと掴まれたように痛んだ。
勝正の顔が脳裏に浮かぶ。
あの癖のある笑い方。
利に敏いくせに、妙なところで意地を張る。
儂と勝正は、三好の下で肩を並べて戦った“同格”や。
だからこそ、一歩間違えば刀を抜くような関係でもある。
確かに……わしが行けば、話がこじれるかもしれん。
儂は盃を指で転がしながら、
低く、吐き出すように言った。
「……図星や。
勝正殿とは、“利”では通じても、“気”では通じん。
わしが行けば、”何を企んどるんじゃ”と疑われるかもしれん。
そうなりゃ、刀沙汰になりかねん。」
官兵衛は当然のように頷いた。
「しかし、あなたは気づいている。
摂津をまとめるには、池田殿が欠けては成立しないと。」
儂は苦笑した。
「摂津をまとめる為にお互い競い合うとるからのぅ。
勝正殿の力はよう知っとう。」
胸の奥に、
詩乃殿の言葉がふっとよぎる。
──争わんでも、富は入ります。
...…せや、争わん道を選んだ以上、勝正とも争いたない。
官兵衛はわしの盃に酒を注ぎつつ話す。
「村重殿からすると領内から吹田や京へ入るには
どうしても池田殿の領地を通す必要がある。
ならば、いっそ惣国に引き込んだ方が安全。違いますか?」
「......ぐぅ。そのとおりや。」
官兵衛は盃を置き、
静かに、しかし確信を持った声で言った。
「池田殿を動かすには……
“摂津の地形”そのものを使うのが一番です。」
儂は眉をひそめた。
「地形……?」
官兵衛は指で卓をなぞり、
摂津の形を描くように線を引いた。
「摂津は細長い国。
西に荒木殿、北に池田殿、東に吹田。
池田殿は“利”で動くお方。
惣国連合の“木の道”と“円”は、池田殿にとって利益が大きい。」
「……せやけど、勝正殿は意地っ張りや。」
「だからこそ、地理を使うのです。」
官兵衛は盃を持ち上げ、淡々と言った。
「はい。荒木殿が惣国連合に入った以上、摂津の道は“池田殿の領”を通る。
池田殿が動けば、摂津は一つになるでしょう。
もし池田殿が道を閉ざせば――
惣国は石山(本願寺)との同盟で海路を使う。
物流は海から木津川を登ることになり、池田殿の領はその分さびれることになるでしょう。」
儂は思わず息を呑んだ。
......そうか。勝正は”惣国に入らんと損する立場”になったんや。
自分の利に気ぃばかり行って、
勝正から見ての惣国の魅力というもんを忘れておったわ。
官兵衛はさらに続けた。
「池田殿は利に敏い。
“摂津の道が自分を通る”と知れば、
必ず惣国連合に興味を持ちます。」
儂は盃を置き、深く息を吐いた。
(こいつ……やっぱりただ者やない。)
官兵衛は静かに締めくくった。
「荒木殿。
池田殿を動かすのは、説得でも、脅しでもありません。
“摂津の地形”という、誰にも逆らえぬ理を見せるだけで良いのです。」
儂は思わず笑ってしまった。
「……なるほどのぅ。あの惣国の姫将が連れていけ言うだけあるわ。」
その晩は、気づけば二人で飲み明かしていた。
官兵衛と話していると、妙に本心を語れる。
解っとるから、いちいち説明せんでもええ。
あれが──軍師というもんなんやろな。




