摂津が動く日
―――和田惟政視点――
尼崎から北へ向かう街道は、
初夏の湿った風が吹き抜けていた。
儂は馬の歩みを緩め、
遠くに見える伊丹の城下を眺めた。
(……さて、伊丹殿はどう出るか。)
摂津は今、水面下での池田と荒木の争いで揺れている。
その間に挟まれた伊丹親興は、
どちらにも与せず、
しかしどちらにも睨まれぬよう、
ひょうひょうと立ち回ってきた。
惣国連合が摂津の後方支援を求める以上、
この伊丹を味方につけることは必須だった。
(詩乃殿が言っておったな…….摂津が動けば畿内は安定する”と。)
あの子はよく見ている。
だが、摂津を動かすのは容易ではない。
しかし摂津の有力国衆である茨木氏、吹田氏が惣国連合に加入することが決まった。
摂津中央を押さえる茨木に、吹田は摂津東部の要所である。
更に惣国連合の新本部予定地。木の道の”起点”でもある。
摂津の均衡が大きく変わるということだ。
城門をくぐると、
伊丹の家臣たちが静かに頭を下げた。
「和田殿、ようこそお越しくだされました。」
伊丹の家臣たちは皆明るい。
これこそが伊丹親興という者の人柄が出ているのだと思う。
案内されて奥へ進むと、
伊丹親興が座して、酒の準備がされてあった。
年の頃は私よりも少し上だが腰が低く、まるで友人のような話し方をしてくる
と思えばその細長い目は常に周囲を測るように動き、慎重で油断がない。
「惟政はん。
摂津の地まで足ぃ運んでもろて、痛み入りまんなぁ。
ささ、お疲れでっしゃろ。先ずは一献。」
そう言うと杯を渡してくる。
酒を注いでもらいながら伊丹を見据える。
「こちらこそ、伊丹殿。
摂津の安寧のため、どうしても話しておきたいことがありましてな。」
伊丹は静かに頷いた。
「ふむ。前に相談した尼崎の件でっか?それとも池田はんと荒木はんのことでっしゃろか?
いずれにしても摂津が割れそうで、相変わらずどうしようかと悩んでおますのやけど......」
儂は懐から巻物を取り出した。
「まずは、報せがある。
──茨木長隆殿、吹田信友殿が惣国連合に加入されるいうことや。」
伊丹は驚いたように息を呑んだが、すぐに微笑みいつもの調子に戻る。
「茨城はんに吹田はんまで……。
摂津の真ん中から東が惣国に入るぅいうことやなぁ。
あの冒険者組合でしたっけか?
あれがアマ(尼崎)にでけてから、そらぁえらい発展してしもうたがな。
アマにおった商人や海賊衆も軒並み冒険者っちゅうもんになってしもうて......
まさか惟政はんまで惣国に、いうことはおまへんやろな。」
「うむ。入ることにした。」
伊丹は派手に後ろへのけぞる。
「えええ~! 冗談で言うてみたのに惟政はんも加入されはるんでっか。」
「最早摂津を守る手立てはこれが一番や思うてな。」
伊丹は腕を組み、深く息を吐いて、慎重に言葉を選んだ。
「惣国連合の“理”は聞いてます。確かに立派や。
せやけど、摂津は畿内の渦中にある。
池田はんも荒木はんも、惣国連合が力を持つことをええように思わんでぇ。」
「承知しておる。」
「ほんなら惣国連合は、摂津をどう扱うつもりや?」
儂は率直に答えた。
「摂津は“惣国の後背”として、そのままでええのよ。
惣国連合は摂津を奪うつもりはない。」
伊丹は驚いたように眉を上げた。
「……本気で言いうてますのんか?」
「本気や。
惣国連合は“理”を掲げておるが、領土欲は持たへん。」
伊丹は杯を置き、
深く息を吐いた。
「……ならば、協力することもやぶさかではありまへんな。」
儂は伊丹の目をまっすぐ見た。
「伊丹殿。
池田殿と荒木殿の争いを、
そなた一人に背負わせるつもりはあらへん。」
伊丹の目がわずかに揺れた。
「……せやけどこのまま国衆の奪い合いしとったら、
いずれは摂津は割れてしまいますよってになあ。」
「だから、摂津四者──
この惟政、そして伊丹殿、茨木、吹田。
この四つで池田と荒木を抑えるのよ。」
伊丹は息を呑んだ。
「四者で……摂津を守る、と?」
「左様。摂津を守るのは摂津の者。
惣国連合はその“理”を支えるだけ。」
儂は続けた。
「伊丹殿。そなたも惣国連合に加わっていただきたい。」
伊丹は驚き、そして静かに笑った。
「……ワテが、冒険者に?」
「惣国連合の“円”が摂津に流れれば、
池田殿も荒木殿も、勝手はでけへん。
摂津の未来を守るため、そなたの力が必要なんや。」
伊丹はしばらく沈黙し、やがて静かに頷いた。
「……はぁ、分かり申した。
惟政はんからこないに言われたら断れまへんわ。
そんならワテも微力ながらに惣国連合に付き合わさせてもらいますわ。」
伊丹は儂をまっすぐ見た。
「摂津が乱れれば、惣国連合の“理”も揺らぐ。
そなたに任せますで。近いうちにその四者で会いましょか?」
儂は深く頭を下げた。
(……摂津を守らねば。
惣国連合のためだけではない。
この地に生きる民のために。)
伊丹の城を出ると、
夕暮れの風が頬を撫でた。
その風は、
北陸から吹いてくる“変革の風”のように感じられた。
―――詩乃視点――
尼崎の冒険者組合は、朝からざわついていた。
和田惟政。
伊丹親興。
茨木長隆。
そして吹田信友。
摂津の均衡を保つ四人が、
惣国連合の呼びかけに応じて2階の会議室に集まっている。
(......摂津四者が一堂に会するなんて、普通はありえん。)
普段は騒がしい冒険者たちも息を呑んで2階を見上げていた。
惣国連合の主催というのは表向きで、
惟政様が伊丹様を惣国連合にお誘いした際、
なんなら四者で会談しよう、惣国の主催という事にして。
というような取り決めがあったらしく、
惣国連合としても、吹田様にまだ本部をそちらに置く旨を伝えて無かったので
丁度よいという事になった。
しかし、惣国連合の代表としての主催は──私。
(ほんまに、私でええんやろか……)
胸の奥が少しだけ重くなる。
でも、父──光秀は言った。
「詩乃。摂津は惣国連合の要じゃ。
そなたの“理”を示す時が来た。」
その言葉を思い出し、私は深く息を吸った。
尼崎は荒木村重の勢力圏。
冒険者組合の建物の外には、荒木家の兵がちらほらと見える。
しかし畿内での冒険者組合支部は現時点で尼崎しかない。
荒木様の耳にも入っているに違いない。
とはいえ、池田様と村重様がどう出るかが、
今日の一番の議題になる事は明白だった。
惟政様は
「荒木殿も池田殿も利に敏い。話せば分かる」
と言っていたけれど、
私はまだ確信が持てなかった。
惣国連合の“理”は正しい。
でも、戦国の現実はもっと荒々しい。
それでも……摂津をまとめるには、今日しかない。
最初に到着したのは惟政様。
落ち着いた足取りで、私に軽く会釈をする。
「詩乃殿。準備、ご苦労である。」
「惟政様こそ、遠路ありがとうございます。」
続いて伊丹親興様。
慎重な目つきで周囲を観察しながら入ってくる。
「……尼崎で会議とは、なかなか大胆ですなぁ。」
「荒木様の地元でこそ、話す意味があります。」
伊丹様は少し驚いたように私を見たが、
すぐに静かに頷いた。
三人目は茨木長隆様。
控えめな足取りだが、
摂津中央を押さえる者の落ち着きがある。
「此度は惣国連合での初仕事ですな、これからもよろしゅう願いますぞ。」
最後に吹田信友様。
年の割に軽い喋り方をする。
「ご苦労さんですぅ。わ、皆さん揃いはってるわ。お待っとさんですぅ。」
(……四者が揃った。)
私は深く頭をさげ、重圧を払いのけるように努めて明るく話始める。
「皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます。
このような席にこんな小娘をとお思いでしょうが、どうかお付き合いくださいませ。」
すると惟政様が笑みを浮かべ答える。
「ここに居る者は誰もそんなことは思うてはおりませんよ。
むしろ、其方に会いに来たのじゃ。」
伊丹様も続く。
「せやせや。惣国の姫将云われとる姫がどんなお人かちゅうんも今日の楽しみですねん。
せやけど、どんなごっつい人やねんな思うとったら、えらい別嬪さんで、驚いてるとこやわ。」
皆様が笑い、場が和む。
私も伊丹様の冗談に緊張がほぐれるが、少し照れ臭い。
「別嬪やなんて......そない褒めても何もでませんよ、伊丹様。
今日は摂津を良うするため、皆様のお力をお借りしたいんです。」
その時だった。
一階のロビーが騒がしくなる。
何だろうと思っていると、受付嬢が戸をノックする。
「失礼します。今荒木様がおいでになり、ここに入れろと息巻いておられますが...」
―—荒木村重様
尼崎で集まる言うたらやはり乗り込んで来てしまうタイプなんだわ。
でも、ここで引くわけにはいきません。
私は会議室の4人に向けて頷いてから返事をした。
「ええですよ。入って来て頂いて。」
バンッ!!
会議室の扉が乱暴に開かれた。
「……面白いことをしておるやないけ、惣国連合。」
低く、湿った土の匂いを含んだような声が、
会議室に響き渡り、空気が一段重くなる。
その体つきは細身だが、
しなる竹のように無駄がなく、
動けばいつでも斬りかかれる獣の気配をまとっている。
頬はややこけ、
しかし目だけは異様に鋭い。
黒曜石のような双眸が、
怒りとも、興味ともつかぬ光を宿して
こちらを射抜いていた。
髷は乱れ気味で、
羽織の裾には尼崎の潮風が染みついている。
その姿は、
“摂津を荒らし、摂津を治める男”
そのものだった。
村重はゆっくりと歩みを進め、
詩乃たちの前に立つと、
口の端だけで笑った。
「惣国の姫将が摂津を動かす会議……
おもろいもん見せてもろてるわ。」
(……来た。)
私は背筋を伸ばし、
村重様の視線を真正面から受け止めた。
黒曜石のような眼がこちらを射抜く。
広間の空気が重く沈む中、
私は一歩も退かないよう注意して、静かに口を開いた。
「荒木様。
面白いかどうかは……摂津の民が決めはることです。
私らは、そのために集まってます。」
声は震えていない。
むしろ、村重の威圧を正面から受け止め、
その上で“理”を返す強さがあった。
「荒木様が来てくださったんは、
摂津のことを本気で考えてはる証やと、
私はそう思うてます。」
怒りでも媚びでもなく、ただ真っ直ぐな言葉。
村重様は私をじろりと見下ろし、
口の端を歪めて笑った。
「……摂津の民が決める、か。
ほう、よう言うたな、小娘。」
その声は低く、
広間の空気をさらに重くする。
村重は一歩、詩乃に近づいた。
羽織の裾が揺れ、潮風の匂いが漂う。
「せやけどな──
信長様はどう思われるかの。
摂津の国衆が勝手に寄り集まって、惣国連合やら何やら……
そんなもん、信長様の耳に入ったら、どないなると思うてるんや?」
その目は怒りとも怯えともつかぬ光を宿し、
詩乃を射抜いていた。
「わしはな、信長様に逆らう気はさらさらあらへん。
摂津のことは摂津で決める言うても、最後に裁かれるんは“信長様の御心”や。」
村重は鼻で笑い、
しかしその笑いにはどこか焦りが滲んでいた。
「惣国の姫将とやらが、
信長様の御心をどう読んどるのか……ちぃと聞かせてもらおか。」
私は村重様の鋭い眼差しに屈しないように努め、
一拍置いて静かに口を開いた。
「……荒木様。
信長様の御心を量るんは、摂津を預かる皆様のお役目です。
私は“民が困らん道”を示しに来ただけです。」
村重様の眉がわずかに動く。
ここで惣国連合の摂津の扱いを示す。
「惣国連合は、
信長様に逆らうためのものやありません。
摂津の争いを減らし、
荒木様も、池田様も、伊丹様も……
誰も損をせん道を作るためのものです。」
なんとか声を震わすことなく、毅然と、しかし敵対はしないように柔らかく、
村重様の“怒り”と“怯え”の両方に届くように話す。
「信長様がどう思われるか──
それは、摂津がどう変わるか次第です。
荒木様が摂津を守るお方やと、私は信じております。」
少しだけ自尊心を刺激すると、
村重様の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「荒木様。
摂津の争いが続けば、誰が得をするんでしょうか。」
村重の眉が更に動く。
私は、広間の中央に置かれた地図へ歩み寄り、
指先で“尼崎”から“吹田”へと線を引いた。
「ここに──“木の道”を通します。
尼崎から吹田へ。さらに茨木、高槻、伊丹へ。」
村重は腕を組んだまま、黙って見ている。
「木の道が通れば、
荷は早う運べる。盗賊も減る。
そして──“円”が流れます。」
村重の目が細くなる。
「……円、やと?」
私は頷いた。
「はい。荒木様。
土地を奪わんでも、富は入ります。
尼崎は海の玄関口。
木の道が通れば、摂津の富は全部、尼崎を通るんです。」
村重の喉が、ごくりと鳴った。
おお、効いてる!やはり利に敏いというのは本当みたい。
「荒木様が“冒険者組”を束ねてくだされば、
その富は、荒木家を通る。
争わんでも、荒木家は摂津一の富を得られます。」
村重の目が、怒りから“計算”の色へと変わる。
ゆっくりと近づき、低く問い返す。
「……尼崎を通るだけで、
荒木家に富が入る、言うんか。」
近い。こわい。近い。
けれど表には出さない。
「はい。荒木様が争わんでも、
摂津の富は荒木家を通るようになります。」
その瞬間だった。
村重様の肩が、
わずかに、しかし確かに落ちた。
まるで、
長年背負ってきた“摂津の争い”という重荷が
一瞬だけ軽くなったかのように。
村重様は目を伏せ、短く息を吐いた。
「……争わんでも、か。」
その声には、
これまでの威圧も虚勢もなかった。
村重様の目が、ふっと揺れた。
怒りでも、威圧でもない。
あの黒曜石みたいに硬かった光が、
一瞬だけ──
水面みたいに、柔らかく揺れた。
(……今の、何やろ。)
胸の奥がきゅっと締まる。
怖さでも、安心でもない。
もっと複雑で、もっと深い何か。
村重様は、ずっと“荒木村重”やった。
摂津を荒らす男。
信長様の顔色ばかり伺う男。
怒鳴って、睨んで、
自分の強さを見せつけることでしか
立っていられへん人。
せやのに──
「……争わんでも、か。」
その声は、
まるで別人みたいだった。
肩が、少しだけ落ちた。
あの人が、あんなふうに力を抜くなんて。
私は思わず息を呑んだ。
(この人……ほんまは、争いたくないんや。)
そのことに気づいた瞬間、
胸の奥がじんわり熱くなった。
荒木村重は、
ただの乱暴者やなかった。
ただの信長様の犬でもなかった。
摂津を守りたい。
荒木家を守りたい。
そのために、
ずっと“戦うしかない”と思い込んでた人なんや。
(……ほんまは優しい人なんやな。)
そう思ったら、怖さがすっと消えた。
村重様が顔を上げる。
その目は、もう私を“子供”として見てない。
「……おぬし、惣国の姫将と呼ばれるだけのことはあるの。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
(ああ──この人、変わった。)
荒木村重という大きな岩が、
ほんの少しだけ動いた音がした気がした。ただ、“本当にそんな道があるのか”
という、純粋な驚きと希望が混じっていた。
広間に、しばし静寂が落ちた。
村重は腕を組んだまま、
地図の上の“木の道”をじっと見つめていた。
尼崎──吹田──茨木──高槻──伊丹。
やがて村重様は、鼻で笑うように息を吐いた。
「……なるほどな。争わんでも、富が入る道、か。」
村重様はゆっくりと顔を上げ、私を見た。
「惣国の姫将。
おぬしの言うこと……まんざら嘘でもなさそうや。」
伊丹様も、茨木様も、吹田様も、息を呑んで次の言葉を待つ。
村重様は、地図の“池田”の位置を指で軽く叩いた。
「……これ、勝正殿にも勧めるべきやろ。」
その瞬間、
広間の空気が変わった。
伊丹が目を丸くし、
茨木が思わず身を乗り出す。
吹田信友は、静かに頷いた。
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「池田勝正は、
儂と競うより利を取る男や。
木の道が通る言うたら、まず飛びつくやろ。」
そして、村重様は口の端を上げた。
「……摂津を動かすんは、こういう“理”や。
おぬしの言う通りやな。」
私は深く頭を下げた。
村重様は、その姿を見て満足げに笑った。
「よし、勝正殿には、わしから話つけたる。
惣国連合──おもろいもんになりそうやないか。」
その言葉は、
摂津の未来が動き出した合図だった。




