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天空の茶室と黒翼の帰路

置塩城の西に寄り添うように建つ、ひときわ異質な館がある。

木の道の内部に穿たれたその空間は、

明智詩乃が惣国連合の業務のために造らせた“別邸”であった。

執務室、実験場、資料庫──用途の異なる部屋が迷路のように連なり、

その最奥にだけ、異様な静けさがある。


大きな一枚窓から姫路の城下と瀬戸内の海が一望できる茶室。

太の光が海面に反射してキラキラと輝く、

雲の切れ間から光が差し込むその光景は、

いつしか人々に “天空の茶室” と呼ばれるようになっていた。


本願寺の三名が置塩城を訪れた日の昼下がり、

ここで昨年の年末から続く、今井宗久・細川藤孝・明智詩乃──

畿内の未来を左右する三人の六回目の茶会が開かれようとしていた。


だが今回は、もう一人。


和田惟政が客として招かれていた。

惟政は将軍の側近であるが、信長から高槻城をもらい受け、

摂津を纏める役割を与えられている。

将軍家の奉公衆でありながら信長の家臣であるところは

光秀や藤孝と共通している。


夕暮れの光が“天空の茶室”を群青と金に染める中、

和田惟政が静かに茶碗を置いた。

その仕草は穏やかだが、指先にはわずかな震えがあった。

摂津を預かる者だけが知る、あの重圧が滲んでいる。


藤孝が気づかぬふりで声をかける。

「惟政殿──摂津の様子、いかがでござる。」


惟政は深く息を吸い、海の方へ視線を向けた。

瀬戸内の水平線は、まるでこれから語られる“危機”を

静かに受け止めるように広がっている。

「……尼崎が栄えすぎましてのぅ。」


その第一声に、宗久が眉を上げた。

「栄えるのは良いことではおまへんか?」


惟政は首を振る。

「良いことばかりではござらん。

 尼崎の繁栄は、摂津の均衡を壊しつつある。

 例えば池田殿は、尼崎を“摂津の喉元”と見ております。

 あそこを押さえた者が摂津を制す、と。」


池田勝正は摂津の三守護の一人として信長に従属している。

後の二人は和田惟政と伊丹親興(ちかおき)である。


宗久が小さく笑う。

「商人の目で見ても、そうですな。

 尼崎は物流の要。金の流れが変わる。」


惟政は苦い表情を浮かべた。

「池田殿は焦り、家中でも不穏な動きが見え始めております。」

 それに、荒木殿は……もっと厄介です。」


藤孝が目を細める。

「村重殿は、動く時は早い。」


惟政は頷き、さらに声を落とした。

「……実は、伊丹殿──親興殿からも密かに相談を受けましてな。」


茶室の空気がわずかに揺れた。


宗久が茶筅を止める。

「伊丹殿が、惟政殿に?」


惟政は静かに続けた。

「はい。伊丹殿は摂津の商人衆を束ねる立場ゆえ、

 尼崎の急激な発展に強い危機感を抱いておられる。

 池田殿と荒木殿の争いに巻き込まれれば、

 伊丹の町はひとたまりもない、と。」


詩乃が小さく息を呑む。


「……だから置塩へ?」


惟政は深く頷いた。


「摂津の三守護のうち、池田殿は焦り、荒木殿は野心を燃やし、

 伊丹殿は板挟みで動けぬ。

 このままでは摂津は割れます。

 ゆえに、わしは伊丹殿の願いも背負って、

 惣国連合の理を頼りにここへ参ったのです。」


詩乃の表情がわずかに曇る。

「荒木殿は池田殿の家臣ではないのですか?」


惟政は答える

「元はそうでありましたが、力を持ったものに摂津を任せるという信長公の方針でして。

 おかげで摂津はギスギスしております。

 荒木殿は尼崎を奪えば池田殿を超えられると考えている。

 すでに商人の買収、尼崎周辺の地侍への接触が始まっております。」


この時期、荒木村重は既に摂津で最も勢いのある国人として、

信長の信頼も村重の方が厚くなりつつある。


藤孝は静かに目を閉じた。

「……摂津の三守護が揃って揺らいでおる、ということか。」


惟政は苦笑した。

「はい。

 摂津は、もはや一人では支えきれませぬ。

 そして──茨木、吹田の両家が、惣国連合に入りたいと申してきました。」


茶室の空気が一瞬止まった。


宗久は驚いて茶筅を持ったままなかなか動かせない。

「北摂の両家が動いたか。」


藤孝は静かに頷く。

「惟政殿はご存じでありましたか。上郡が惣国連合に入れば、摂津の勢力図は塗り替わる。」


惟政は続けた。

「彼らは池田殿も荒木殿も信用しておりませぬ。

 尼崎の発展を見て、惣国連合の理に魅力を感じたのでしょう。」


詩乃は窓の外を見つめた。

昼下がりの太陽によって、海が黄金に輝いている。

「……惣国連合が摂津の“避難所”として見られているのでしょう。

 実はそのことについて父は朝から信長公の下へ向かいました。

 摂津の扱いについて、裁可を仰ぐために。」


惟政は頷き、静かに口を開いた。

「......このままでは摂津は三つ巴の争いに突入しますからの。

 池田殿、荒木殿、そして上郡の国衆。尼崎を巡って、必ず衝突が起きる。」


宗久が茶碗を惟政の前に置く。

「ならば、光秀殿が戻るまでに、我らで道筋を整えましょう。

 摂津の未来を決めるために。」


詩乃は深く頷いた。

「惣国連合は、争いを減らすためにあります。

 尼崎がその証です。 摂津にも、その理を広げましょう。」


惟政はその言葉に救われたように息を吐いた。

「……どうか、力を貸してくだされ。」


惟政の言葉が途切れた瞬間、

藤孝が静かに茶碗を置いた。

「……実はな、惟政殿。」


その声音には、朝のうちに光秀へ告げた“ある進言”の重みが宿っていた。

「光秀殿が出立する前、わしはこう申したのだ。

 『茨木と吹田の加入、いっそ信長公から許しを取ってしまえ』とな。」


惟政が目を見開く。

「上郡を……惣国連合に、ですか。」


「うむ。」

藤孝は頷き、窓の外の黄金の海へ視線を向けた。


「池田殿と荒木殿がどう動くかは、まだ読めぬ。

 だが、上郡が惣国連合に入れば、摂津の“北の要”は固まる。

 その上で──本部を吹田に置くのはどうかと光秀殿に提案した。」


宗久が茶筅を止め、興味深そうに笑う。

「吹田は上郡の中心。

 尼崎と堺を結ぶ商流にも近い。

 悪くない場所ですな。」


惟政は腕を組み、深く考え込んだ。

「……確かに。

 吹田に本部があれば、池田殿も荒木殿も軽々しく動けぬ。

 摂津の均衡が保たれましょう。」


その時、詩乃が静かに口を開いた。

「実は──今朝、本願寺から使いが参りました。」


茶室の空気が一瞬張りつめる。


藤孝が眉を寄せた。

「本願寺が……?」


詩乃は頷き、淡々と続けた。

「まだ内容は分かりませんが、尼崎の発展を聞きつけ、

 『惣国連合の仕組みを詳しく知りたい』とのことです。

 摂津の動きと無関係とは思えません。今は孫市様と競鳥に因幡へ行っています。

 夕方には戻られるので、そこで父と面会する手はずです。」


宗久が低く唸る。

「本願寺が動くとなれば、摂津はますます騒がしくなる。」


惟政は思わず息を呑んだ。

「……ならば、なおさら吹田に本部を置くべきか。」


藤孝が静かに頷く。

「そういうことだ。

 尼崎は南の要、吹田は北の要。

 両方を惣国連合が押さえれば、摂津は安定する。」


詩乃が柔らかく微笑んだ。

「惣国連合は争いを減らすためにあります。

 吹田に本部を置くことは、摂津の民を守ることにもつながります。

 惟政殿も本願寺の使者と共に父と面会なさいますか?」


惟政は深く頭を下げた。

「……そうですな。本願寺殿がどのような意図を以て惣国連合と関りを持つのか、

 摂津の未来は、ここで決まるやもしれませぬ。」


西日が茶室を包み、

瀬戸内の海が黄金色から群青へと沈んでいく。


光秀が信長の裁可を携えて戻るまで、あとわずか。


摂津の新たな秩序──その始まりが、今まさに“天空の茶室”で形を成しつつあった。





巨大な黒い翼が、夕映えの湖面を切り裂くように滑っていく。

その背に吊られた籠には、茶々麿、頼旦、雷礼、孫市、そして 元明 が詰まっていた。


茶々麿は来るときと同じく、

「ひ、ひぃ……腹が……ぴくぴく……」

と情けない声を漏らしながらも、前よりは落ち着いている。

慣れとは恐ろしい。


雷礼が横目で見て、

「茶々麿様、前よりマシになられましたな」

と笑うと、茶々麿はむすっとしながらも否定しない。


一方の元明は、籠の隅で膝を抱え、

「ああ……」

「うん……」

と、魂の抜けた返事しかできていない。


理由は単純。

競鳥で全財産を溶かしたからだ。


雷礼が心配して肩を叩くと、

「……わしの蓄えが……ただの木切れに……」

と、かすれた声が返ってきた。


そんな元明の横で、孫市は絶好調だ。

「いやぁ、やっぱり春風丸は競道入りした時になんか変やと思うたんや。

 白兎丸は光っとったからのぅ。あれは勝つ鳥の光り方や」


ホクホク顔で胸を張る。

茶々麿は千円賭けて二百円当たり、結果五千円。

孫市は二十万賭けて──五百万円。


元明はその数字を聞くだけで胃が痛む。


頼旦がふと、孫市に問いかける。

「……その“円”というのは、惣国連合で流通している貨幣やろか?」


孫市は得意げに頷く。

「せや。惣国連合の冒険者組合で使う通貨や。

 五百万円あったら米が......そうやな十石と交換できるで。

 惣国の物はだいたい円で買える。値も安定しとるしな」


茶々麿・頼旦・雷礼の三人は絶句した。

「……惣国連合、恐るべし」

「……通貨の統一……」

「……十石あれば一族が越冬できる……」

と三者三様に呟く。


孫市はにやりと笑い、籠の縁を指で叩いた。

「今日ので、惣国連合の仕組みが少しだけわかったやろ。

 あとは置塩城に帰って、光秀殿と本願寺と惣国連合の同盟の話をつけるだけや」


巨大なカラスが、夕陽の中をゆっくり旋回する。

籠の中には、勝者の笑みと敗者の沈黙、そして新たな政治の気配が混ざり合っていた。


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