砦、反転す
三隅川の北岸にそびえる普賢田砦は、朝霧の中に沈んでいた。
丘の上に築かれた小さな砦は、こんもりと盛り上がった草むらに覆われ、
その姿はまるで“何かが潜んでいる巣”のようにも見える。
砦の周囲には人影がほとんどない。
旗も揺れず、焚火の煙も上がらない。
ただ、静寂だけがあった。
――不気味なほどの静けさ。
その静寂を、吉川軍の足音が破った。
川霧を押し分けるように、長槍隊が前へ進む。
槍の穂先が霧の中で鈍く光り、兵たちの鎧が水音を立てる。
その光景を、桂元澄はじっと見つめていた。
――嫌な静けさだ。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
普賢田砦は小さな砦にすぎぬ。
だが、あの沈黙はただの静けさではない。
“待ち構えている者の静けさ”だ。
桂は唇を引き結び、川原へ視線を移した。
長槍隊が川へ入り、続いて杭を抱えた兵が降りていく。
海からの怪物――海豚の部隊への備えだ。
その慎重さは、元春様が月山富田城で受けた“異形の砲撃”を忘れていない証だった。
桂は息を呑む。
――砦は沈黙している。
――だが、必ず何かが潜んでいる。
その予感は、次の瞬間、現実となった。
轟ッ――!
砦の頂から閃光が走り、川の中ほどで水柱が上がった。
杭を打っていた兵が、数人まとめて吹き飛ぶ。
桂の背筋に冷たいものが走った。
大砲蜘蛛――。
あの異形が、再び火を噴いたのだ。
そして桂は悟る。
――これは、ただの砦攻めではない。
――“異能との戦”だ。
その瞬間、吉川軍が一斉に川へ雪崩れ込んだ。
桂元澄は、喉の奥がひりつくのを感じながら、
砦の丘を睨みつけた。
戦が始まった。
石見の命運を決める戦が。
鉄板を張り付けた巨大な盾を抱えた兵が、川へと踏み入っていく。
その後ろには鉄砲隊が続き、銃身を濡らさぬよう胸の高さで抱えながら、慎重に足を運ぶ。
――射程を測っておるのだ。
桂元澄は、川原の土手からその様子を見つめていた。
砦の最上段から川の真ん中まで、砲弾が届く。
ならば、あと十間――十八メートルほど後ろに横隊を敷けば、砲撃は止む。
実際、砦は沈黙した。
「……この辺りが射程か」
だが、百間、いや百五十間はあろう距離だ。
そこへ寸分違わず砲弾を叩き込む怪物――大砲蜘蛛。
その精度は、もはや兵器ではなく“異能”と呼ぶべきものだった。
次は、どれほどの間隔で撃ってくるのか。
それを測るため、鉄砲隊はさらに前へ進む。
兵たちの顔には恐怖が浮かんでいる。
――誰かには必ず当たる。
その覚悟が、横隊全体に重くのしかかっていた。
だが、毛利家中には奇妙な風潮がある。
この“死と隣り合わせの間合い”を楽しむ者こそ、真の武士だと。
熊谷元直などは頬を赤らめ、
「次は俺か」とでも言いたげに、胸を高鳴らせている。
――狂気だ。
桂は内心で吐き捨てた。
その時だった。
河原の向こう、草むらが揺れた。
黒い影が、ひとつ。
ふたつ。
みっつ……。
九体。
九体の大砲蜘蛛が、砦の斜面から姿を現した。
「……馬鹿な」
一体でも手に余る怪物が、九体。
射程も間隔も測る余裕など、一瞬で吹き飛んだ。
轟音。
九発の砲撃が同時に放たれ、川岸にいた兵がまとめて吹き飛ぶ。
水柱が上がり、悲鳴が霧散する。
――もう、突っ込むしかない。
大砲は連射が利く代物ではない。
躊躇した者から死ぬ。
大砲との戦いとは、そういうものだ。
全軍が前へ出ようとした、その瞬間。
草むらから“壁”が立ち上がった。
巨大な壁が、音もなく河原へと進み出る。
近づくにつれ、それが“盾を生やした蜘蛛”であることが分かった。
盾蜘蛛だ。
大砲蜘蛛の列の間に、二体ずつ、綺麗に収まるように進んでくる。
パパパパーン。
乾いた音が連続して響く。
盾の後ろには鉄砲隊が控え、盾の影から正確に射撃している。
続けざまに、再び九発の砲撃。
鉄砲と砲撃が、まるで呼吸を合わせたように交互に襲いかかる。
――連続射撃……だと?
桂は目を凝らした。
大砲蜘蛛の足元で、巨大な蟻が弾を運んでいる。
「なんなんだ……あれは」
川には、わずかな生き残りが、武器を放り出して逃げ惑っている。
他は吹き飛ばされ、見るも無残な惨状である。
前線は、完全に崩壊していた。
その時、上流から火の手が上がった。
こちらの決死隊が蜘蛛の足元まで潜り、油を撒き、
陸から放たれた火矢がそれに引火したのだ。
炎が三体の蜘蛛を包む。
火がついた蜘蛛は、急に縮こまり、動きを止めた。
「……やった!」
蜘蛛さえ倒せれば、まだ盛り返せる。
毛利軍に、わずかながら息が戻る。
だが――反撃はそこまでだった。
ドンッ。
背後から砲撃が響いた。
「後ろ……だと?」
桂は振り返り、血の気が引いた。
――後方にも、大砲蜘蛛を隠していたのか。
一体何体の蜘蛛がいるというのだ!
もはや戦ではない。
ただの蹂躙である。
後ろの砲撃に突っ込み、
運よく弾に当たらなければ生きて帰れる――
そんな地獄のような状況。
桂は歯を食いしばり、己の胸を拳で叩いた。
「……まだ死なん。死ねるか」
生き延びるために、もう一度、気力を振り絞った。
―――健太郎視点――
――しまった。
河原から炎が上がった瞬間、健太郎は思わず息を呑んだ。
大砲蜘蛛の一体が、火矢を受けて燃え上がる。
続いて二体、三体と炎に包まれ、黒い甲殻が赤く膨れ、
やがて縮こまって動かなくなった。
「……火に弱いのかよ、お前ら……!」
思わず声が漏れた。
蜘蛛たちは強靭だが、火に対してここまで脆いとは予想外だった。
砦の下では毛利軍が歓声を上げている。
蜘蛛が倒れたことで、士気が一気に戻ったのだ。
このままでは押し切られる。
健太郎は即座にみつきに温泉津の兵の状況を確認する。
「蜂隊、どのくらいまで来てる?」
温泉津にいた部隊は、三隅川まで来ずに途中で降りていた。
蜂隊が空から誘導し、小早に乗っていた蜘蛛たちは山道を抜けて毛利軍の背後へ回り込んでいる。
「撃てる射程まで来たみたいだよ。」
みつきが他の蜂たちとの連絡をとる。
蜂や蟻のような社会性昆虫はある程度離れていても情報を共有できるのだ。
後方で、回り込んだ大砲蜘蛛が毛利軍の背中を狙っている。
健太郎は深く息を吸った。
「――撃て」
轟音。
前後から砲撃が重なり、毛利軍の陣形が一瞬で崩れた。
逃げ惑う兵、武器を捨てる者、川へ飛び込む者。
戦場が、完全にひっくり返った。
「――あと、盆栽、持って行って!」
命令を受けた蟻たちが、一斉に動き出す。
砦の裏手に置いていた鉢植えの木を、
まるで宝物でも扱うように慎重に運び始めた。
その木は、健司から切り出した枝から育てたものだ。
切り離す際に「成長を抑える代わりに、回復効果を最大化する」
という設定を施した特別な株。
近くに置くだけで、
生き物の傷がじわりと癒えていく。
蟻たちが鉢を抱え、燃え落ちた蜘蛛の傍まで運ぶ。
健太郎は息を呑んだ。
――頼む、間に合ってくれ。
鉢植えが蜘蛛の足元に置かれた瞬間、葉がふわりと揺れた。
蜘蛛の黒い甲殻が、わずかに光を帯びる。
「……動いた!」
焼け焦げた脚が、ぎしりと音を立てて伸びる。
縮こまっていた体が、ゆっくりと持ち上がる。
回復の木の効果が、確かに届いている。
「よし……よし! 生きてる!」
吉川軍は総崩れ。こちらの被害はゼロに等しい。
健太郎は砦の上からその光景を見下ろし、
静かに呟いた。
「……これで、道が開ける」
―――三隅隆仲視点――
普賢田砦の上で、蜘蛛が大砲を撃つたびに、
空へ向かって放射状の白煙を広げる。
まるで花火のように美しく――
だが、その直後に川原で兵が放射状に吹き飛んでいく。
隆仲は拳を握りしめた。
「……勝久殿、やってくれ……!」
尼子を応援する気持ちは、もはや義理ではない。
石見の未来を託すしかないという、切実な祈りだった。
だが、その祈りは一瞬で凍りつく。
砦の上で、蜘蛛の一体が火矢を受けた。
甲殻が燃え上がり、黒い巨体が赤く膨れ――
やがて縮こまり、動かなくなる。
「……まずい……!」
続けざまに二体、三体と炎に包まれ、
蜘蛛たちは次々と沈黙していく。
毛利軍が歓声を上げた。
川原の兵が槍を掲げ、勢いを取り戻す。
隆仲の胸に焦りが走る。
――蜘蛛が倒れたら、勝久殿はどう戦う……?
その時――
隆仲の背筋を凍らせる轟音が響いた。
ドンッ。
砦の前方ではない。
後ろだ。
「……後ろ……から……?」
毛利軍の後方を見ると、三隅川の対岸の林から、
黒い影がゆっくりと姿を現した。
大砲蜘蛛。
しかも、複数。
隆仲の喉がひりつく。
「う、うおおおおお……!」
毛利軍の後方に砲撃が降り注ぎ、
兵が吹き飛び、陣形が一瞬で崩れた。
そして倒れた蜘蛛の近くには砦の裏手から、蟻が現れた。
その背には――鉢植え。
「……鉢植え?」
戦場に似つかわしくない光景に、隆仲は目を疑った。
蟻たちはその鉢を、燃え落ちた蜘蛛の足元へそっと置く。
ただの木にしか見えない。
だが、次の瞬間。
蜘蛛の黒い甲殻が、ふわりと光を帯びた。
「……動いた……?」
焼け焦げた脚がぎしりと伸び、
縮こまっていた巨体がゆっくりと持ち上がる。
隆仲は息を呑んだ。
「なんだ……あの木は……」
蜘蛛が、復活した。
しかも一体ではない。
次々と、鉢植えの周囲で黒い巨体が立ち上がっていく。
前からも、後ろからも砲撃。
蜘蛛の復活。
戦場が、完全にひっくり返った。
隆仲は震える手で欄干を掴み、
砦の上の勝久の姿を探した。
「……勝久殿……これは……」
石見の未来が、
今まさに、異能の炎に照らされていた。




