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渡河の朝

翌朝。

 番所の戸が静かに開いた。


「起きとるか、益田の衆」


低く、よく通る声だった。

藤兼と元祥が顔を上げた瞬間、

番所の入口に立つ男の影が、朝の光を背に長く伸びた。


黒い羽織は海風にさらされ、所々が白く、

その下から覗く肌は潮に焼けて褐色に光る。

そして―― 目だ。

海を知り尽くした者だけが持つ、

荒波を切り裂く船頭の眼だった。


「村上武吉……!」

元祥は思わず立ち上がった。

 瀬戸内を支配した海賊王――その名は益田の海でも恐れられている。


武吉は軽く笑った。

「よう来たのう。温泉津は海の者にとって特別な場所じゃ。

 敵味方は関係ない。ここは腹ぁ割って話そうや」


藤兼が静かに問う。

「お主、ここにおるということは……尼子に寝返ったのか?」


武吉は目を丸くし、手を振った。

「いやいや。 なぁに――どっちも大事なお客さんじゃけん。

 戦には協力せん。わしらぁ冒険者じゃ。

 どちらにも付かんでええのよ」


冒険者――。

 元祥は眉をひそめた。

 そんな立場を毛利が許すはずがない。


だが、武吉はあっけらかんと言う。

「海に生きるもんはそれで良いのじゃ。

 誰にも縛られず、ただ皆の海を安全に通す。それだけよ」


赤間関は既に毛利の管理するところではなく、

武吉の子息、元吉が大内を名乗り管理していると聞いている。


「赤間関などもですが、毛利は……許したのですか?」

元祥が思わず聞くと、武吉はすました顔で目をそらした。


「ん? ああ、毛利の兵士は赤間関に寄るとな...蜂が飛んでくるんじゃ」


「は、蜂……?」


「うむ。蜂がの、攻撃してくるんじゃと。

 ほんで、大内の護衛を入れたら攻撃されんのじゃ。

 なんでかは知らんがの。おかげで毛利も強うは出られん」

武吉は豪快に笑い、元祥の肩を叩いた。


余談であるが、そのことで赤間村上組は毛利の護衛で大忙しである


次の瞬間、その笑みがすっと消えた。


「――さて。ここからが本題じゃ」

武吉は元祥の肩から手を離し、

 鋭い眼差しで藤兼を見据えた。


「おめぇらも、冒険者にならんか思ぅてな」


元祥は息を呑んだ。

 益田家が?

 吉川元春の娘を娶り、毛利の直臣になろうという益田家が?


ありえない――そう思ったが、

 藤兼は腕を組み、深く考え込んでいた。


武吉は静かに続ける。


「なぁに、毛利と敵対せぇ言うんじゃあ無ぇ。

 毛利にも尼子にも、商売として付き合やぁえぇ。

 海の者は、海の理で生きりゃええんじゃ」


その声は、敗者への慰めではなかった。

 新たな道を示す者の声だった。


藤兼はゆっくりと顔を上げた。

「……商売として、毛利と向き合う、か」


その言葉には、敗北の痛みと、

 これまでのしがらみを断ち切る覚悟が滲んでいた。


元祥は父を見つめた。

 藤兼の目は、静かに決意を帯びていく。


温泉津の朝日が差し込み、

 村上武吉の影が長く伸びた。


そして藤兼は、静かに、しかしはっきりと頷いた。


「……よかろう。

 益田藤兼、村上武吉殿の誘い、受け申す」


その瞬間――

 益田家の運命は、大きく動き始めた。




――桂元澄視点――


三隅川の川霧が、まだ白く漂っていた。

斥候が駆け戻り、泥を跳ね散らしながら膝をつく。


「申上げます! 尼子再興軍、普賢田砦に陣を張り候!」


その声が響いた瞬間、

陣中の空気がひやりと張り詰めた。


元春様は、地図の前から動かない。

ただ、わずかに顎を上げた。


「……砦か。」


その低い声だけで、周囲の者が息を呑む。

熊谷元直が、待ってましたとばかりに前へ出た。

「殿! 好機にござる!

 砦など正面より押し潰せばよい!

 敵は寄せ集め、恐るるに足らず!」


まるで火の玉のような男だ。

だが、私は思わず眉をひそめた。


「元直殿、軽々に申されるな。」

私は静かに口を開く。

「普賢田砦は丘の上。三隅川の渡河点を見下ろしております。

 加えて……例の“蜘蛛”が出るやもしれませぬ。」


その言葉に、陣中がざわついた。


月山富田城での惨敗――

あの異形の砲撃を、私は忘れられない。


熊谷が鼻で笑う。


「蜘蛛など、ただの怪異にござろう。

 鉄砲で撃ち落とせば済む話!」


「撃ち落とせるなら苦労はせぬ。」

私は熊谷を睨みつける。


元春様は、まだ地図を見ている。

沈黙が重い。

誰も声を出せない。


やがて――

元春様が、ゆっくりと顔を上げた。


「……正面から叩く。」


その一言で、全てが決まった。

全く元春様にとって軍議とは、皆に伝える場であり、

既にご自分で決めているのだ。

何を言っても覆らないのは良くわかっている。


熊谷は満面の笑みを浮かべる。

......こいつは何でも正面から打ち崩そうとする。

毛利軍でなければ既に死んでいるに違いない。


元春様は続ける。

「蜘蛛が出るなら、それでよい。

 射程を測り、癖を見抜き、決死隊を遣わす。

 虫は火に弱い。 砦を囲むように火を放てば蒸し焼きになろう。」


その声音は静かだが、

底に鋼のような確信があった。


「川原に杭を打て。 海から来る怪物もおる。 

 水際を固めてから渡河するのじゃ。

 そこから決死隊が火を放つのを全軍で守る。」


熊谷が力強く頷く。

「承知!」


私は深く頭を下げながら、

胸の奥に重い不安を抱えた。


――殿は、あの怪物たちを“敵”として認めている。

――だが、恐れてはいない。


それが、何より恐ろしい。


元春様が立ち上がる。


「明朝、渡河する。

 砦を落とし、三隅を制す。」


その瞬間、陣中の空気が一変した。

誰も逆らえない。

誰も止められない。


吉川元春という男は、

戦場そのものを押し曲げる“力”を持っている。


私はただ、

この戦がどれほどの血を流すのかを思い、

唇を固く結んだ。




――三隅隆仲視点――


――鬼吉川が動いた。


三隅茶臼山城の天守から北を望むと、普賢田砦の丘がよく見える。

 その向こう、三隅川の対岸に黒々とした軍勢が押し寄せていた。

 四千。

 石見の国衆が束になっても敵わぬ、毛利の鉄の波だ。


尼子は、やり過ぎたのだ。

 月山富田城だけ奪い返し、出雲の片隅で小さく息をついていれば、まだ生き延びる道もあったろう。

 だが銀山に手を伸ばし、石見を巻き込み、毛利に“本気”を出させてしまった。


石見の国衆は、出雲や安芸のように大名に従う文化ではない。

 自分の土地は自分で守る。

 大名など、取引相手にすぎぬ。

 そのあたり、尼子はよく分かっていた。

 父・隆繁が尼子寄りなのも、長年見てきた身としては理解できる。


だが今年に入ってからの毛利は、あまりに露骨だった。

 人質を出せ、軍役を増やせ――。

 父は日に日に毛利を信用しなくなり、家中の空気も重く沈んでいった。


かといって、独立を保てる時代でもない。

 尼子とて、もはや往年の勢いはなく、

 “生き残った者たちが毛利に対抗するために寄り集まった”

 その程度の力しかない。


勝久に国衆を束ねる器量があるのか。

 それは分からぬ。

 だが――この戦を乗り切らねば、尼子は確実に潰される。


鬼吉川は、容赦などしない。


私は拳を握りしめ、普賢田砦を見下ろした。

 この砦は南北朝時代からあり、西からの防御の要である

 その頃から三隅と益田は争っている。

 

すでに勝久が布陣を終えている。

 化け物を使役できるとはいえ、勝久は兵を持たぬ。

 三隅は前線。

 使い潰されても文句は言えぬ立場だ。


しかし――

 勝久は迷わず籠城ではなく野戦を選んだ。

 しかも自分たちだけの兵でだ。

 

 その背中は、まだ幼さの残る細さであるが、不思議と頼もしくもあった。

 

三隅の兵はここ茶臼山城に集め、非戦闘員は父と共に三隅城へ籠もらせた。


さらに勝久は、信じられぬことを言った。

「もしも尼子が敗退したら、城を固めて、落ち着いたら、また毛利に戻れば良いですけんの」


敗れたときの三隅の都合まで考えている。

 その言葉に、胸の奥が熱くなった。

 ――勝ってほしい。

 心からそう思った。


だが、目の前の現実は厳しい。

 三隅川の対岸に広がる毛利軍の陣。

 黒い波のように揺れる旗。

 槍の穂先が朝日を受けて光り、まるで無数の牙のようだ。


あれを、どう切り崩すというのか。


私は息を呑む。

 川霧の向こうで、毛利軍の陣太鼓が鳴り始めた。


鬼吉川が、動く。


この一戦で、石見の未来が決まる。


吉川軍の長槍隊が、ほとんど陣も張らぬまま川へと踏み入っていく。


腰まで浸かる深さ。深いところでも胸くらいまでだろうか

 ここの場所は川が浅く、昔からの渡河地点だ

 彼らは迷いなく進む。

 鬼吉川の軍は、いつだってこうだ。

 兵は淡々と命令を実行する。


続いて、杭を抱えた兵と、大きな槌を持った兵が川へ降りてきた。

 川底に杭を打ち込み、水中からの怪物――海豚の部隊への備えなのだろう。

 槍隊はその周囲を固め、海の方角を警戒している。


――慎重だ。

 月山富田城での敗北を、吉川元春は忘れていない。


川の中ほどまで進んだ、その時だった。


轟ッ――!


眩い閃光とともに、杭を打っていた兵が数人、跡形もなく吹き飛んだ。

 水柱が上がり、川面が赤く染まる。


私は思わず息を呑んだ。


砦の丘――その最上段。

 こんもりと盛り上がった草むらの中から、巨大な黒い影が姿を現した。


大砲蜘蛛。


あの異形が、再び火を噴いたのだ。


その一撃を合図にしたかのように、吉川軍が一斉に川へ雪崩れ込む。

 鉄板と張り付けた盾隊が横一列に広がり、まるで“射程を人間で測る”かのように前進していく。


だが――。


草むらが揺れた。

 次々と、黒い影が立ち上がる。


一、二、三……九体。


九体の大砲蜘蛛が、等間隔に並んでいた。

 それぞれの背には兵が一人ずつ立ち、砲身を川へ向けている。


さらに、砦の斜面から“盾”が起き上がった。

 巨大な鉄板のような盾が、地面を擦りながら前へ進む。


その下――

 蜘蛛の足が見えた。


盾蜘蛛だ。

 その背後には鉄砲を構えた兵が並び、盾の影から狙いをつけている。


ドンッ!


大砲が火を噴く。


 盾蜘蛛の列がゆっくりと前進し、砦から河原へと降りてくる。

砲撃の合間には、盾の後ろに控えた鉄砲隊が火を放つ。

 射程に入った毛利兵から順に、川の中へ沈んでいく。


大砲蜘蛛は撃つたびに、巨大な蟻が弾を運んでくる。

 その弾を兵が装填し、間髪入れず次弾が放たれる。


まるで生き物全体が一つの兵器のようだった。


その“生きた砲列”が、一直線のまま川へ向かって進んでいく。


私は、喉が渇くのを感じた。


――勝久殿は、これを見越していたのか。

 ――いや、これほどとは……。


吉川軍の黒い波と、砦から迫る異形の軍勢。

 その二つが、三隅川の中央でぶつかっていた。


石見の未来が、今まさに揺れている。




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