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炎海の果て、静寂の湯へ

石見銀山が落ちた――その報せは、安芸の本陣に雷のように走った。


毛利は震えた。

 銀山は毛利家の血脈であり、財政の心臓だ。

 それを奪われたとなれば、もはや一刻の猶予もない。


吉川元春が総大将に任じられたのは、その日のうちだった。

「銀山を奪い返す。全軍、石見へ向かう」


短い言葉だったが、軍議の間にいた誰もが悟った。

 ――毛利が本気を出した、と。


まず動いたのは海だった。

 益田藤兼と乃美宗勝が、怒涛のように船をかき集める。


安宅船六。

 関船十五。

 小早三十。


温泉津の沖を埋め尽くす大船団は、まるで黒い壁のようだった。


その背後では、元春の四千が益田領から三隅城を睨み、

 南では小早川隆景が山道を北上しつつあった。


――三方向同時侵攻。

 毛利が銀山を奪い返すために用意した、完璧な包囲網。


対する尼子再興軍は、決して余裕があるわけではなかった。


味方になったばかりの国衆たちに、健太郎は領地安堵を与え、

 さらに面子を立てる役職を与え、銀山の利益を還元できるようにした。


これで毛利の揺さぶりには、そう簡単には靡かない。

 だが――問題は戦力だった。


海から迫るのは、益田軍千、乃美軍千。

 対してこちらは三刀屋軍三百。

 関船二、小早二十。


数字だけ見れば、勝負にならない。


隠岐の島にも援軍を求めているが、

 荒れる日本海では、来られるかどうかは天気次第だ。


海渡隊が二千頭いる。

 それは確かに心強い。

 だが、国衆たちの目には―― 戦力として計りかねる。


「ここを守り切れなければ、国衆は本当の味方にはならないよな」

健太郎はそう呟いた。


しかも海ばかりに気を取られていれば、

 三隅城が元春に落とされる。

 南では隆景が迫り、国衆が順に寝返る危険もある。


まさに正念場だった。


だが、三刀屋には切り札があった。


三刀屋の関船には、“プロペラ”が取り付けられ、

 船尾で回転するそれは、風向きに関係なく船を走らせる。


さらに――

 大砲蜘蛛を二体ずつ搭載した。


小早には、海渡隊がロープで引く“高速艇”が十隻。

 そこにも一体ずつ大砲蜘蛛が乗る。


月山富田城には六体の大砲蜘蛛が守備においてきたので、

 残る十体が三隅城の守りについた。


常識では測れない戦力。

 だが、毛利の大船団を前にすれば、

 それでも足りないと感じるほどの圧力だった。


――ここを守り切れなければ、石見は終わる。


健太郎は、海を見つめながら静かに息を吸った。

「来るなら来い。

  ここが、尼子再興の分水嶺だ」


その瞬間、沖の霧の向こうで、

 毛利の大船団がゆっくりと姿を現した。


黒い壁が、海を覆い尽くすように迫ってくる。


石見銀山を巡る、最大の戦いが始まろうとしていた。




――この戦で、毛利の行く末は決まる。


益田元祥は、安宅船の高楼から東の温泉津を睨みつけていた。

 朝の光が海面に反射し、白い波がきらめく。

 だが、その美しさは彼の胸を少しも和らげない。


「今度ぁ やらせん」

低く呟いた声は、海風に消えた。


前回の敗北は、若き元祥に深い傷を残した。

 船底を破られ、仲間が海に消えたあの瞬間――

 海豚(いるか)の化け物たちの恐ろしさを、彼は骨の髄まで知った。


だからこそ、今回は徹底した。


安宅船の船底には鉄板を張り、

 さらに下方へ向けて槍を突き出す“逆棘”を取り付けた。

 機動力は落ちる。だが、あの海の怪物に穴を開けられるよりはましだ。


投網も焙烙玉も、これでもかと積み込んだ。

 乃美宗勝にも情報を共有し、毛利本隊の水軍から鉄砲と火器を可能な限り引き出した。


「油を流して火をつければ、奴らも寄れまい。

 風上から来るなら……長槍隊で刺し、鉄砲で仕留める」


言葉にすると簡単だ。

 だが、元祥は知っている。

 海は思い通りにならない。

 敵もまた、ただの獣ではない。


それでも、今日は西の風だ。火と共に温泉津へ攻め上がれば恐れることは無い

 彼の胸にはわずかな自信さえ灯っていた。


「一度戦っておいて良かった……。

 備えさえあれば、海豚など恐るるに足らん」


そう言い聞かせるように呟き、元祥は視線を前へ戻した。


安宅船の中央には大筒が据え付けられている。

 細かい照準は利かないが、温泉津の砲台を破壊するには十分だ。


――まず温泉津を叩く。

 そのまま三隅川の河口へ出て、

 陸から三隅城を攻める吉川元春と合流する。


その先にあるのは、毛利の勝利。

 そして、自らの未来。


「来年には……元春様の娘、(よし)殿との婚姻も控えておるし」


思わず口元が緩む。

 芳――吉川元春の実の娘。

 気品と強さを併せ持つ、あの凛とした女性の姿が脳裏に浮かぶ。


「良いところを見せねばなるまいな。

 この戦こそ、益田元祥の名を刻む時よ」


海風が吹き抜け、帆が大きく鳴った。

 元祥は手すりを握りしめ、迫り来る戦の気配に身を固くした。


――温泉津の霧の向こうで、何かが動いた。


その瞬間、彼の胸に走ったのは、

 恐れか、昂りか。

 自分でも分からない。


だが一つだけ確かだった。


この戦を越えねば、毛利も、益田も、そして自分自身も前へ進めない。


最前列の早船が、突然ぐらりと傾いた。

 逆棘を付けていない囮の船――魚鱗の陣形で、ただ一隻だけ前に出された“餌”だ。


「かかったぞ。やれ!」


益田元祥の声が海風に乗って響く。

 囮の漕ぎ手たちは、訓練された動きで海へ飛び込み、

 すぐ後方の船に引き上げられた。


その瞬間、各船から一斉に投網が放たれる。

 海面に広がった網が、海中の影を絡め取った。


――バシャッ、バシャッ。


海豚イルカが暴れ、海面が白く泡立つ。


「今じゃ!」


元祥の号令とともに、焙烙玉が次々と投げ込まれた。

 素焼きの壺が水面に触れた瞬間、鈍い衝撃が海中へ広がる。


やがて、暴れていた海豚の動きが止まった。


「油を入れよ!」


外郭の船から油が流し込まれる。

 焙烙玉の火が油膜に触れ、海面に炎が走った。


「これで近づけはしまい。後ろは気を抜くな。

  寄れば槍で止め、鉄砲で追い払え」


船尾には長槍隊と鉄砲隊が控えている。

 前方は炎の壁。

 油が流れる速度に合わせて進めば、温泉津まで一直線――

 元祥はそう確信していた。


炎の向こうに、三刀屋の船影が揺れて見える。

 火に巻かれぬよう近づけず、鉄砲も届かぬ距離。

 このまま温泉津の砲台を大筒で叩き潰す――

 そう思った、その時だった。


「……ドーン!」


重い衝撃音が海を震わせた。

 隣の安宅船の帆柱が、まるで紙のように折れた。


「え……?」


元祥が言葉を失った瞬間、

 海上に轟音が連続して響き渡った。


炎の向こう――三刀屋の小舟から、

 次々と光の筋が走る。


大筒だ。この距離を届くのが信じられないが、

実際に砲撃を受けている。

 しかも一門ではない。

 十を超える砲撃が、間断なく益田の船団へ降り注いだ。


衝撃で船が揺れ、帆が裂け、操船が効かなくなる。

 次々と船が動きを止め、海上に取り残されていく。


さらに――


「……っ!」


乃美宗勝の乗る安宅船の内部で、突然火が走った。

 積んでいた焙烙玉に引火したのだ。


眩い光が船体を包み、

 次の瞬間、船は大きく裂けて海へ沈み始めた。


「火を消せ! 乃美殿を助けよ!」


元祥は必死に叫んだ。

 だが砲撃の轟きがすべてをかき消し、

 声は誰にも届かない。


炎、煙、砲声。

 さっきまで整然としていた益田の船団は、

 一瞬で混乱の渦に呑まれていった。


――地獄が、海の上に広がった。


海上に漂う煙の向こうから、低く、しかし異様に響く声が届いた。


「まだやるかよ、益田の」


三刀屋久扶の声だった。

 だが、ただの声ではない。

 海面に反響し、何倍にも膨れ上がって聞こえる。

 まるで海そのものが喋っているかのようだった。


元祥は、返す言葉を失った。


船団はすでに形を成していない。

 大筒の連撃で帆柱は折れ、舵は壊れ、

 焙烙玉の火が油膜に燃え移り、海は炎の帯を描いている。


乃美宗勝の安宅船は沈み、

 援護に向かうはずの船も次々と動きを止めていた。


――もう、戦えぬ。


毛利の水軍も、益田の船も、

 誰もがその事実を悟っていた。


やがて、三刀屋の小舟が炎の隙間を縫うように近づいてきた。

 海渡たちが水面を滑るように並走し、

 蜘蛛の影が船縁に張り付いている。


隣の船から父・藤兼が静かに立ち上がった。

「……降参いたす」


その声は大きくはなかった。

 しかし、海風に乗って、確かに三刀屋の船団へ届いた。


元祥は息を呑んだ。

 父が自ら降伏を告げるなど、これまで一度も見たことがない。

 だが、今は誰も反論できなかった。

 毛利も、益田も、戦える船はもう残っていない。


やがて三刀屋の小舟が近づき、

 藤兼と元祥は縄をかけられ、温泉津へと連れていかれた。


温泉津の港は、戦場とは思えぬほど静かだった。

 湯気が立ち上り、温泉の香りが潮風に混じる。

 銀山から運ばれる鉱石の匂いも漂い、

 どこか不思議な温かさがあった。


連れていかれたのは、港の中央にある御番所。

 二階建ての立派な建物で、

 捕虜を入れるにはあまりに整っている。


「こちらへどうぞ。怪我はありませんか」


番所の役人が、丁寧に頭を下げた。


元祥は思わず藤兼を見る。

 父もまた、驚きを隠せない様子だった。


縄を解かれ、温かい湯と食事まで出された。

 兵たちも別室で手当てを受けているらしい。


「……敵に、ここまでの待遇を受けるとはな」

藤兼がぽつりと呟く。


元祥は返す言葉を見つけられなかった。

 敗者としての屈辱と、

 敵の奇妙な優しさが胸の中で混ざり合い、

 落ち着かない気持ちだけが残った。


その夜、二人は番所の一室で休むことになった。

 外では波の音と、遠くの湯屋のざわめきが聞こえる。


――戦の直後とは思えぬほど、静かな夜だった。



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