石見、尼子へ帰す
温泉津の沖。
朝日が海面を金色に染め、夜の冷たさをようやく追い払いつつあった。
三刀屋孝扶は、後ろに括りつけた“戦利品”――奪い取った輸送船を振り返り、感嘆の息を漏らした。
「それにしても……この“プロペラ”という仕掛け、恐ろしいほどの働きよ。」
逆潮、逆風。
本来なら不利な条件が重なっていたはずなのに、
益田の船団に一撃も許さず、輸送船だけを抜き取ることができた。
背後から、海を割るように豪快な声が響く。
「早う帰らんと沈んでしまうぞぉ! じゃっはっはー!」
父・三刀屋久扶の笑い声は、朝の海に似つかわしくないほど大きく、明るかった。
その横で、海面からイルカ獣人の海渡が顔を出し、短い鳴き声を上げる。
「キュキュッ、キュキュー!」
孝扶は笑って頷いた。
「ああ、そうじゃ。海渡隊のおかげよ。まこと、助かった。」
海渡は嬉しそうに跳ね上がり、空中でくるりと回転して海へ戻った。
その動きは、まるで勝利を祝う舞のようだった。
孝扶はふと、入り江の両側に並ぶ毛利の弓兵を見やった。
「さて……後は殿(健太郎)次第よな。」
最初にこの作戦を聞いたとき、孝扶は半信半疑だった。
陸・海・空を同時に使うなど、戦国の常識では考えられない。
だが――
魔力の存在を知り、
みつきと海渡に出会い、
健太郎の“底の見えぬ才”を目の当たりにするうちに、
その疑念は確信へと変わっていった。
そこへ、みつきが羽音を立てて降りてきた。
『健太郎が来たよ。もうすぐ、あの兵たちは片づく。』
孝扶は思わず苦笑した。
初めてみつきを見たとき、あまりの異形に反射的に斬りかかってしまった。
軽く押さえつけられたのも、今では良い思い出だ。
「……まったく。我が殿は奥が深い。」
孝扶は船首に立ち、兵たちへ声を張り上げた。
「入り江の兵どもは、もうすぐおらんようになる!
このままの速度で進めぇ!」
朝日が三刀屋の関船を照らし、
奪った輸送船の帆が風をはらんで膨らむ。
温泉津は、もうすぐそこだった。
温泉津の入り江に、朝日が差し込んだ。
海面は静かで、まるで何事も起きていないかのようだが、
番所の二階からは入り江の先の戦闘がうっすらと見える。
福原貞治は目を細めて少しでも戦況を見極めようとする。
とその時、一つの関船が船首を天に向けて沈んでいった。
三刀屋の関船は後ろにあった輸送船を奪ってこちらに向かってくる。
「……三刀屋の奴ら、輸送船を奪いおったか。 益田め、ふがいなし……」
番所の二階から入り江を睨みつける。
両側の山には弓兵を配置し、
船が入り江に入れば矢の雨を浴びせる手筈だ。
ここは毛利の牙城。落ちるはずがない――
そう信じていた。
そのときだった。
「ぎゃあああああ!!」
左の山側から、悲鳴が上がった。
貞治は思わず身を乗り出した。
「何事じゃ!」
弓兵がいたはずの斜面が、
まるで地震のように揺れ、土が波のように崩れ落ちていく。
兵が土砂に飲まれ、次々と海へ転げ落ちていった。
「な、何が起きておる……!?」
右側の山でも、同じ悲鳴が上がった。
「ひ、ひぃっ! 蜘蛛じゃ! 壁を登ってくる!!」
貞治は目を疑った。
黒い影が、斜面を逆さに駆け上がってくる。
人ほどの大きさの蜘蛛――
いや、蜘蛛の形をした“何か”だ。
兵たちは弓を構える暇もなく、
次々と弾き飛ばされ、引きずり落とされていく。
「ば、化け物か……!? 毛利の兵が……一瞬で……!」
貞治は震えた。
入り江の両側を守る兵が、
まるで紙の城のように崩れていく。
「こ、こんな…… 毛利の防衛線が……!ひ、引けぃ」
叫んだ瞬間、
湊にいた兵たちは一斉に逃げ出した。
舵の利かなくなった船を乗り捨て、
湊の桟橋から海へ飛び込む者までいる。
湊は混乱の渦だった。
その混乱に乗じて貞治も湊を捨て、退避していった。
入り江の両側から上がっていた悲鳴が消え、
山の斜面は静まり返っていた。
三刀屋久扶は、
奪い取った輸送船を引き連れながら
豪快に笑った。
「はっはっは!
健太郎の奴、やりおったわ!」
入り江の両側にいた毛利の弓兵は、
跡形もなく消えている。
蜘蛛の影が崖を這い、
土塁は崩れ、海には海渡たちの背びれが揺れていた。
関船二艘と輸送船は、
まるで勝利の凱旋のように
温泉津の湊へと滑り込んでいく。
湊の入口では、舵の壊された船が行く手を阻むように停泊していたが、
最早、無人の船になっており、間を難なくすり抜ける。
そのとき、
湊の奥から健太郎が姿を現した。
背後には蜘蛛部隊、
崩れた斜面には螻蛄隊、
上空にはみつきが舞い、
海には海渡たちが並ぶ。
久扶は思わず舌を巻いた。
「……こりゃあ、敵から見れば地獄じゃな。」
健太郎は港の中央に立ち、
三刀屋の船が入ってくるのを見届けた。
「三刀屋殿、見事な働きでした。」
久扶は船上から大声で笑った。
「おう! 殿のおかげで楽なもんよ! 海渡の奴らも大活躍じゃ!」
海渡が海面から跳ね上がり、嬉しそうに短刀を掲げた。
「キュキュッ!」
みつきが健太郎のとなりに降り立つ。
『入り江の兵は全滅。 港の兵も逃げてる。
もう抵抗はないよ。』
健太郎は静かに頷いた。
「……これで石見はこちらに転がります。」
朝日が湯治場の屋根を照らし、
港の湯気が金色に揺れている。
その光景は、
まるで“尼子再興軍の夜明け”を告げるかのようだった。
久扶が船から降り、健太郎の前に立つ。
「殿。 これで石見銀山の海路は、 完全に尼子のもんじゃ。」
健太郎は港を見渡し、静かに言った。
「……ありがとうございました。これで石見の国衆も戻って来るでしょう」
その声は穏やかだったが、確かな力を帯びていた。
今日、温泉津の港に、尼子再興軍の旗が翻った。
それから数日が過ぎたが、
石見の山々には、まだ春の冷気が残っていた。
銀山から三隅城は尼子の旗に染まり、
温泉津の港には三刀屋の関船が並んでいる。
石見は――
一夜にして、毛利の影を失った。
その知らせは、
山間の小領主たちの屋敷へ、風よりも早く届いた。
「毛利は敗れたらしいぞ」
「三隅も温泉津も落ちたと……」
「尼子が……戻ってきたのか……?」
恐れ、期待、疑念。
石見の国衆の胸に渦巻くものは、一人ひとり違っていた。
だが、
彼らが向かう場所は同じだった。
――石見銀山の麓、
大森の代官所跡。
そこに、
尼子再興軍の総大将・尼子勝久(健太郎)、
海軍の頭領・三刀屋久扶、
そして石見攻略の立役者・山中鹿之助が
国衆を集めるというのだ。
大森の町は、
久しく見なかった緊張に包まれていた。
街道には蜘蛛部隊が巡回している。
「……尼子は、化け物を使うのか」
「いや、あれは……味方につければ心強いぞ」
「毛利よりも……恐ろしいかもしれん」
ざわめきが広がる中、
三隅隆仲が堂々と歩み出た。
「皆、よう来てくれた。 わしが保証する。尼子は、石見を守る。
敗れたから言うのではないがの、あの力は石見の安定には欠かせん。
尼子なら、それを正しく使うてもらえる」
その背後には、
周布氏、都野津氏、山吹氏――
石見の主要国衆が揃っていた。
ただ一つ、
益田氏の姿だけがない。
国衆の一人が小声で言う。
「……やはり益田殿は来なんだか」
「元祥殿が一戦交えたらしいからの。来たくても来れぬわ」
「いや、藤兼殿は情勢を見極めておるのだ」
その会話を聞きながら、
三隅隆仲は静かに言った。
「益田は……来ぬ。
だが、石見をまとめるには、まず我らが決めねばならぬ。」
代官所の扉が開いた。
尼子勝久――健太郎が姿を現す。
その背後には、
山中鹿之助、三刀屋久扶、天野隆重、と再興軍の重鎮が並ぶ。
鹿之助は一歩前に出て、石見の国衆を見渡した。
「――石見の諸将よ。 今日より、この地は尼子の旗の下に戻る。」
その声は、
大森の町に響き渡った。
国衆たちは息を呑んだ。
鹿之助は続ける。
「毛利は敗れた。 銀山の海路も陸路も、すでに押さえた。」
健太郎が静かに前へ出る。
「石見の未来を決めるのは、 今日ここに集まった皆です。」
その言葉に、
国衆たちの視線が一斉に健太郎へ向いた。
「――石見の国衆をまとめ、
尼子の国を取り戻す。
そのために、力を貸してほしいのです。」
三隅隆仲が膝をつく。。
「わしは尼子に従う。 これからも石見の安定のためよろしゅう願い申す。」
すると石見の国衆は、口々に
「毛利はこちらの事情もわからんに、向うの勝手で決めてしまう。」
「そうじゃ。尼子だったころは良かった。」
「わしの土地も守ってごしなせぇ。」
と尼子再興軍の前に膝をつく。
健太郎は静かに頷いた。
「皆の決断、しかと受け取りました。 石見は、我らが守ります。」
その瞬間、大森の町に風が吹き抜けた。
ただ一つ――
益田氏だけが沈黙している。
その沈黙が、
石見統一の最後の壁であることを
誰もが理解していた。




