黒翼、備中を駆ける
―――うづめ視点――
夜明け前の空はまだ群青色で、
山の端だけがかすかに白み始めていた。
弥九郎に恵瓊の書状を渡し終えたうづめは、
森の奥に入って行く。
そこには夜の間に乗っていたフクロウの姿があった。
相棒のフクロウを軽く撫でた。
「……ありがと。ここまででええよ。
あとは、あの子に頼むわ」
その瞬間、
闇の中から“もう一つの影”が現れる。
黒い翼。
鋭い嘴。
夜の残り香をまとった巨大なカラス。
うづめが手を伸ばすと、
カラスは低く鳴き、
その背を彼女の前に差し出した。
「行こうか。天神山まで行って」
うづめが跨がると、
カラスは大きく翼を広げ、
地面を蹴った。
うづめは冒険者の職員の中で一番鳥との意思疎通が上手い。
おかげで十二支の仕事もはかどっている
風が爆ぜる。
森の木々が一瞬で下へ流れ、
うづめの視界は夜明け前の空へと開けた。
――天神山城の石垣は輪郭だけが朝霧に浮かび、
その中心にある天守が静かに佇んでいる。
うづめはカラスの首元に手を添えた。
「静かに降りてな。兵を驚かすから。」
カラスは翼をすぼめ、
音もなく天守脇の見張り台へ滑り込む。
石畳がわずかに震え、
見張りの兵が驚いて槍を構えた。
「な、なんだ……!?」
うづめはカラスの背から軽やかに降り、
袖を払って静かに言った。
「阿弥からの急報よ。直家様は?」
直家の諜報組織の阿弥からという言葉に兵の顔色が変わる。
「す、すぐにお通しします!」
兵が駆け出すと、うづめは振り返り、
カラスの首をそっと撫でた。
「ありがと。
あんたのおかげで間に合ったわ」
カラスは満足げに喉を鳴らし、頭をうずめに擦り付ける。
落城から数日。
焦げた木の香りと、乾いた土の匂いが風に混じり、
新たに張り替えられた畳の青さと奇妙に同居している。
宇喜多直家は、
その空気を吸い込みながら、
静かに城内を歩いていた。
「……ようやっと、落ち着いてきたわ」
誰に言うでもなく呟いたその声は、
勝利の余韻というより、
次の獲物を探す獣の呼吸に近かった。
そのとき──
廊下の向こうから、黒い影が音もなく滑り込んできた。
うづめだった。
「直家様。 ──置塩が、動きました」
直家の足が止まる。
うづめは膝をつき、
短く、しかし確かな声で続けた。
「義裕が……本丸を占拠しました。
政秀殿の留守を狙って、置塩城は、もう義裕の手に落ちています」
直家の目が細くなる。
「……やはり、噛みついたか。
あの男は、政秀を憎んでおったからな」
うづめは頷いた。
「今なら、置塩は義裕の軍で手薄です。
直家様が動けば……」
「奪える、というわけか」
直家はゆっくりと立ち上がり、
腰の刀に手を添えた。
「天神山を落とした勢いのまま、
置塩もわしが取る。 備前の形を決めるのは、この一手よ」
その声は、
天神山の石壁を震わせるほど静かで強かった。
城下ではすでに馬が引かれ、
家臣たちが鎧を整えていた。
直家が姿を現すと、
空気が一気に張り詰める。
「行くぞ。
赤松に置塩をくれてやる気はない。
あれは、わしの城じゃ」
馬がいななき、軍勢が動き出す。
うづめは縁側に立ち、
直家の背が霧の向こうへ消えるまで見送った。
「……直家様。あなたが大きくなりすぎると調節がしにくいのよ。
申し訳ないけど備中から西は毛利に...ね。」
うづめは見張り台まで登っていき待機しているカラスに跨る。
「行こうか。今度はも少し西の高田城へ」
小さな声でカラスに伝えると
カラスは羽を広げ、天神山の空へ跳ね上がった。
高田城は、山と湿地の境目に立つ奇妙な城だ。
石垣は低く、天守も櫓もない。
だが、城全体が“戦の匂い”をまとっている。
周囲を囲むのは、
深い竹林と、湿地に沈む黒い水面。
霧が絶えず立ちこめ、
昼でも薄暗い。
うづめを乗せたカラスが上空へ差しかかると、
高田城の全貌が霧の切れ間から姿を現した。
土塁が幾重にも重なり、
その内側に兵の詰所と馬屋が密集している。
城の中心には、
戦支度を整えた三村の兵が
槍を立てて並んでいた。
うづめが高田城の土塁を登り、
元親の前に立ったとき──彼女は思わず息を呑んだ。
三村元親は、焚き火の前で鎧の紐を締めていた。
火の赤が、彼の頬の傷跡を照らし、
その影が狼のように揺れる。
「……直家が置塩へ向かった、か」
低い声。だが、その奥には
“戦の匂いを嗅ぎつけた獣の興奮”があった。
元親は立ち上がり、うづめを一瞥した。
その目は、人の心を見透かすように鋭い。
「よし。 ならば、わしも動こう。
阿知潟を押さえれば、備中はこっちのもんじゃ。
狼煙を上げよ。早島の竹井殿に知らせよ! わしらぁは阿知潟へ出るぞ」
兵が火打石を打つ。
乾いた音が二度響き、黒煙が空へ立ち上がった。
その煙は、湿地の向こうへ、山の向こうへ、
備中の空へと伸びていく。
高田城の土塁の上で、元親は馬に跨った。
湿地の風が鎧の紐を揺らし、彼の眼差しはすでに阿知潟の方角を射抜いている。
「うづめ。本陣への報せは頼んだぞ。」
その声には“戦の始まり”を悟った者の重さがあった。
うづめは深く頭を垂れ、
肩に止まる黒いカラスの羽をそっと撫でた。
「かしこまりました。では、ご武運を。」
元親は口元だけで笑い、
槍を掲げて兵に号令をかける。
阿知潟の湿った風が、高田城の土塁を震わせていた。
三村元親は馬上から兵たちを見渡し、
胸の奥に押し込めてきた言葉を、解き放った。
「よう聞け──!」
兵たちの背筋が一斉に伸びる。
「わしらは何年も、あの湿地を指一本触れられずに見てきた。
あそこを押さえられたせいで、
備中の南からは船が入れなんだ!」
元親の声は震えていた。
怒りではない。
長年の悔しさと、今日という日の重みが滲んでいた。
「だが──これからは違う!」
槍を高く掲げる。
「直家が置塩へ向かった今、阿知潟は空いた!
今こそ、わしら三村が 備中の南を取り返す時じゃ! 」
兵たちの目が潤む。
誰もが、この瞬間を待っていた。
元親はさらに声を張り上げた。
「わしらは境目の民じゃ! 奪われ、押し込められ、
それでも歯を食いしばって生きてきた!」
「今日、阿知潟を奪えば── 備中は息を吹き返す!
三村の名は再び山に響く!」
兵たちの胸が震えた。
涙が頬を伝う者もいた。
元親は最後に、静かに、しかし深く言った。
「……今日の戦さを わしらの悲願を叶える戦とする。
行くぞ──阿知潟へ!」
「おおおおおおおおっ!!」
兵たちの叫びは、湿地の空を震わせた。
元親は馬首を阿知潟へ向け、駆け出した。
鬨の声が湿地に響き、
三村勢が土煙を上げて走り出す。
その背を見届けると、
うづめは一歩、土塁の端へ踏み出した。
「……じゃあ、あたしも行くか。」
カラスが翼を広げ、
うづめの身体がふわりと浮き上がる。
高田城の上空へ舞い上がると、
阿知潟へ向かう三村の軍勢が
一本の黒い流れのように見えた。
うづめは風を切り、
北東──備中高松城へ向けて飛び立った。
「こんなに早く連絡を廻せるなんて、
鳥に乗れたおかげね。冒険者組合サマサマだわ」
湿地の匂いが遠ざかり、
空だけが広がっていく。
――備中高松城。
湿地の上に立つ天守の縁で、
清水宗治と恵瓊は遠くの空を見つめていた。
宗治は毛利家の家臣で備中地域の防衛を任されている人物である。
黒い煙が一本、ゆらりと立ち上っている。
宗治が低く呟く。
「……狼煙が上がりましたな。」
恵瓊は袖を押さえ、
風の向きを読むように目を細めた。
「ふふふ。 阿知潟が三村ちゃんの所領になるか……
これで宇喜多は備前に追いやれるわね。」
宗治は横目で恵瓊を見る。
「恵瓊殿。隆景殿とはいつからこのお話を?」
恵瓊は持っていた扇子をパチンと開いて静かに答える。
「去年の年末くらいかしら。
阿知潟を三村ちゃんが押さえれば、
ここへも物資輸送もずっと楽になるでしょう?」
宗治の眉がわずかに動く。
「そんなに短期間で、ようも......」
その時だった。
湿地の風を裂くように、黒い影が高松城の上空へ滑り込んだ。
恵瓊が顔を上げる。
「……来たわね。」
大きなカラスが翼を広げ、天守の縁に降り立つ。
その背には、うづめの姿があった。
うづめは屋根を伝い、軽やかに天守に入り込む。
恵瓊がどこまでの絵を描いているのか、うづめには分からない。
だが、伝令を続けるうちに、
恵瓊の描く“流れ”だけは、嫌でも見えてくる。
ひとつの大名に瀬戸内の海運を握らせないために冒険者組合を作り、
山陽は毛利、山陰は尼子、備前から向こうは──
明智光秀を将軍家の調停役として据え、新しい秩序を築こうとしている。
「統一なんかダメ。力の拮抗した小国群が一番平和なの」
以前、恵瓊が言った言葉が胸に蘇る。
うづめは天守の廊下で膝をつき、
宗治と恵瓊の前で淡々と報告を始めた。
京の仮御所にいる藤孝に会い、その書状を竹田城の光秀へ届け、
恵瓊の書状を生野銀山付近で弥九郎へ渡し、
赤松義裕へ情報を流して置塩城を占拠させ、
その置塩を奪うために宇喜多直家を天神山城から出陣させ、
そして──
高田城の三村元親を阿知潟へ侵攻させたこと。
藤孝が「光秀を将軍家の調停役として竹田城へ向かわせる」と記した書状が届いてから、
まだ数日しか経っていない。
宗治は目を見開いた。
「そんな距離を……数日で……?」
うづめは後ろに寄り添うカラスの頭を撫でながら答える。
「この鳥たちと意思疎通ができるようになったおかげでございます。
彼らも冒険者ゆえ、料金は発生しますが……
それ以上の働きをしてくれます。」
宗治は感心したように頷き、
「意思疎通できなくとも、鳥は雇えるのか」と尋ねてきた。
うづめは苦笑しながら、
したくもない冒険者組合の宣伝を口にする。
「……できます。」
恵瓊は扇子を軽く仰ぎながら言った。
「この“冒険者”をどう扱うかで、 これから生き残る大名が決まってくるわ。
宗治ちゃんも覚えておいて損はないわよ。
......あとは──光秀ちゃんがどうまとめるか、見ものね。」
その声音には、
光秀が失敗したなら“別の誰かを立てる”という冷ややかな覚悟すら滲んでいた。
湿地の風が吹き抜ける。
高松城の天守には、新しい時代の胎動が静かに満ちていた。




