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魚屋の密談

時は少し遡る。

如水堂での話が終わったところで、直家がふいに言った。


「弥九郎。飯でもどうじゃ」


本当は早く帰って兵站の段取り──冒険者組合としての初仕事──を詰めたかった。

だが、直家の誘いを断れるはずもない。

渋々ついていくと、着いた先は見覚えのある店だった。


魚屋(ととや)

弥九郎の備前での家だ。


「なんじゃ、ここはお主の家であろう。早うへーる(入る)ど」


直家は勝手知ったる様子で暖簾をくぐっていく。


魚屋の中は、潮の匂いと焼いた魚の香ばしさが混ざり合い、

夕暮れの福岡千軒のざわめきが川風に乗って流れ込んでいた。


奥から九郎右衛門が顔を出し、弥九郎を見るなり目を細める。


「お主も来たのか」


その声音には、

“未の仕事──直家と仲良くせよ”

という約束を守っている息子への満足が滲んでいた。


直家は迷いなく奥の座敷へ進む。

弥九郎はその背を追いながら、胸の奥に残る重さを振り払えずにいた。


──如水堂での空気が、まだ抜けない。


あの場では、直家の言葉の端々に、

何か大きな流れが動き始めている気配があった。

兵站の話を詰められるかもしれないと思ったが、

九郎右衛門の態度を見るに、

直家は最初から“ここで誰かと密談する”つもりなのだろう。


奥の部屋に入ると、

中山左馬之助という男がすでに待っていた。


三十路に差しかかったばかりの男。

背は高くないが肩幅が広く、鍛えた腕には濃い日焼けの跡。

額には細い皺が寄り、

その目には鋭さよりも“迷い”が先に立つ。


髷はきちんと結われているのに、

ところどころ乱れた毛が覗き、

几帳面さと不器用さが同居していた。


弥九郎たちが入ると、

左馬之助はすぐに立ち上がり深く頭を下げた。

だが、その所作の端々に、

緊張と“決めかねている者”特有のぎこちなさが滲む。


一瞬だけ目が合った。

その奥にあるのは、武士の誇りでも敵意でもない。


──ただ、この先どう生きるべきかを必死に探している男の目だった。


「待たせたな、左馬之助」


直家が声をかけると、

左馬之助はさらに深く頭を下げた。

「いえ……。禅定殿は、まもなくお越しとのことにございます」


その名が出た瞬間、座敷の空気がわずかに引き締まった。


阿部禅定──

福岡千軒を束ねる経済の王。

弥九郎は会ったことがないが、この魚屋の後ろ盾でもある人物だ。


直家は静かに上座の隣へ腰を下ろし、弥九郎へ目を向ける。

「弥九郎。今宵は、よい席になるぞ」


意味は分からない。

だが直家の目は、何かを仕掛ける者の光を宿していた。


その時、九郎右衛門が客を迎える声がして、

魚屋のざわめきが一瞬だけ遠のいた。


襖がすっと開き、

阿部禅定が、ゆっくりと姿を現した。


年の頃は五十に届くかどうか。

黒髪の間に混じる銀が、

長年この地の金と人を動かしてきた重みを物語る。


顔立ちは柔らかい。

だが、その目だけは深い井戸の底のように静かで、

光の届かぬ深さがあった。


怒りも喜びも浮かばない。

ただ“見ている”。

それだけで、場の空気が一段重くなる。


浅葱色の直垂は質素だが、

布の張りと縫い目の細かさが、

彼が動かす財の大きさを雄弁に語っていた。


歩みは遅い。

だが一歩ごとに、魚屋のざわめきが遠ざかっていくようだった。


左馬之助は、

まるで刀を抜かれたかのように背筋を震わせて頭を下げる。


直家は微笑み、弥九郎は息を呑む。


禅定は何も言わず座敷を見渡した。

その視線が通り過ぎるだけで、空気がさらに重く沈む。


──この男が動けば、備前が動く。


「やぁ、待たせたかな? ……ん? その子は?」


禅定の視線が弥九郎をかすめた。

直家は、まるでこの問いを待っていたかのように口元を緩めた。

「弥九郎と申してな、もうすぐ九郎右衛門の養子になる」


「ああ、じゃぁ、小西のな... 話は聞いとるよ。

 じゃけど、どうして直家殿が?」


禅定は不思議そうにこっちをみてくるが、すかさず直家が補足を加えた

「今はデカ木島に住んどってな、冒険者組合の代表なんよ。」


「ほう……冒険者組合の代表?」


禅定の目がわずかに細くなる。

その変化は小さかったが、

左馬之助が息を呑むほどの“圧”があった。


禅定は続ける

「しかも、あの島になぁ」


禅定は盃を指先で転がしながら、

弥九郎をじっと見た。


「村上の衆が冒険者になったと聞いた時は驚いたが……

 その代表とはなぁ......」


弥九郎は思わず背筋を伸ばした。


禅定は、

弥九郎の結婚式にも出席していた。

村上武吉が冒険者になったことも、

デカ木島の異変も、すべて把握している。


その禅定が、弥九郎に興味を持たない訳がない。

そこは直家の計算通りなのであろう

「……なるほど。 直家殿が連れてくるだけのことはある」


その一言に、

直家は満足げに盃を揺らす。

「弥九郎は、これから備前でようけ働いてもらわにゃいけん。

 禅定殿にも、世話んなろうけんな」


禅定はにんまりと笑顔になり、頷いた。

「そりゃぁ、ここの後とるんじゃけん、切っても切れんじゃろうけど

 ……せぇでも、こんな繋がりになっとるたぁな...

 ほんなら、あの木のことも、いずれ詳しく聞かせてもらえるなぁ。

 ありゃぁ、ただの木じゃぁあるめぇ」


弥九郎は返す言葉を失った。

禅定の目は、まるで心の奥底まで覗き込むような深さがあった。


直家が盃を置き、場の空気を切り替えるように言った。

「さて──禅定殿。本題に入ろうか」


左馬之助の喉が、ごくりと鳴った。


禅定は盃を置き、直家へ向き直る。

「……聞こうか」


座敷の空気が、さらに沈んだ。


直家は柔らかく微笑んでいる。

だが、その目だけが鋭く光っていた。

「先ほど如水堂で話をして来ましてなぁ。

 例の件は、黒田殿と連携することになり申した」


盃を軽く揺らしながら、

直家は何でもないことのように続ける。

「毛利も山名も、援軍を送らんように出来申した。

 なれば──前々からの頼みごとを、ですな」


禅定も笑顔を作ってはいる。

だが、その目は一切笑っていなかった。

「そこまで話が進んだんじゃなぁ……。

 ほんなら、もう是非も()かろう」


禅定は盃を置き、

弥九郎へちらりと視線を向ける。

「冒険者とも関わりがあるみてぇじゃしな。

 天神山への兵糧は──制限をかけさしてもらうわぁ」


左馬之助の喉が、ごくりと鳴った。

その音が、座敷の静けさにやけに大きく響く。


禅定は、

まるで獲物の動きを確かめるように

ゆっくりと左馬之助へ顔を向けた。

「ほんなぁ……後は左馬之助じゃな。

 どうすんでぇ?」


左馬之助の肩がびくりと震えた。

弥九郎は息を呑む。

直家は微笑んだまま、何も言わない。


──逃げ道は、もうどこにもない。


左馬之助は、

ゆっくりと、ゆっくりと顔を上げた。


その目には、

迷いと、恐れと、そして覚悟が

ないまぜになった光が宿っていた。




――中山左馬之助視点――


禅定の言葉が落ちた瞬間、

左馬之助の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


浦上は経済的に封鎖され、

そこに黒田と共に宇喜多に攻め入られる

援軍は来ない...

──天神山は、もう持たぬ。


そう思った途端、

座敷の空気がさらに重くのしかかってくる。


直家は柔らかく笑っている。

だが、その目は獲物を逃さぬ狩人の光を宿していた。


禅定は笑顔を作っている。

だが、その奥には一片の情もない。

そして弥九郎。

若いのに、あの村上海賊衆をどうやって纏めたのか...

左馬之助は、自分の喉が乾いていくのを感じた。

自分が情けなくなってくる


彼は浦上家の中堅にすぎない。

宗景様に忠義はある。

だが、宗景様は気分屋で、

家中は日々揺れ続けている。


しかも──

左馬之助の家は、福岡千軒の阿部氏に借金がある。

兵糧も、家の商売も、

阿部禅定の機嫌ひとつでどうとでもなる。


禅定に逆らうということは、

家族を飢えさせるということだ。


(……逆らえるわけ、ねえ)


禅定の視線が、

まっすぐ自分に向けられる。


「ほんなぁ……後は左馬之助じゃな。

 どうすんでぇ?」


その声は穏やかだ。

だが、左馬之助には

“逃げ道はないぞ”と告げられているように聞こえた。


直家は何も言わない。

ただ微笑んでいる。だが、その沈黙こそが圧力だった。


弥九郎は、

自分が何か大きな渦の中心にいることを

まだ理解していないように見える。

だが、その存在がまた左馬之助を追い詰めた。


(……この若者が、直家様の新しい時代の象徴か)


左馬之助は、

ゆっくりと、ゆっくりと顔を上げた。


ここでの返答ひとつで、

天神山の運命も、

自分の命も、

家族の未来も決まる。


(……決めねばならぬ)


胸の奥で、

長く続いた迷いが、静かに形を変えていく。




――帰り道

魚屋を出た瞬間、

福岡千軒の喧騒が耳に戻ってきた。

だが、左馬之助にはその声が、

どこか遠い世界のもののように聞こえた。


足が重い。

いや、重いのは足ではなく胸の奥だ。


(……わしは、ほんまにやれるんかのぅ)


それは浦上家にたいしての裏切り。

だが、左馬之助には“裏切り”という言葉が、

もはや自分の行いに当てはまらぬ気がしていた。

(わしゃ、門を開くだけじゃ)

天神山城も門のかんぬきを隠すだけだ

後はどうなるか... わしの知る所ではない

と自分で言い訳をしてみる

左馬之助は深く息を吐いて、ふらふらと歩く


浦上宗景は左馬之助には優しい主だ。

だが中に入れば入るほど、その役目が重ければ重いほど厳しくなる。

重臣たちは宗景の機嫌を伺い、ビクビクし

ギスギスした空気が息苦しさを呼び

家中は揺れ、家臣たちは皆、心のどこかで分かっていた。


──このままでは滅ぶ。


左馬之助は、その現実から目を背け続けてきた。


だが今日、

禅定の目を見た瞬間、すべてが決まった。


逆らえば、家族が飢える。

(そうじゃ……わしは、家を守らねばならぬ)


それは武士としての誇りよりも、

もっと原始的で、もっと切実な理由だった。


川沿いの道を歩きながら、

左馬之助はふと空を見上げた。

夕暮れの空は赤く染まり、

吉井川の水面がその色を映して揺れている。


(直家様は……恐ろしいお方よ)


柔らかく笑いながら、すべてを見通している。

禅定を動かし、弥九郎という若者を巻き込み、

そして自分の心の弱さまで見抜いていた。


(あの若者……弥九郎殿は、何者なのだ)


冒険者組合の代表。

あのデカ木島に暮らす男。

禅定が興味を示すほどの存在。

(……時代が変わるんかもしれんなぁ)


天神山の石垣が遠くに見えてきた。

その姿は、いつもより小さく、そして脆く見えた。


左馬之助は立ち止まり、

深く息を吸った。


(わしが門を開ける……わしが時代を変えるんじゃ)


直家様のためではない。

家族のためでもない。

これは、自分が生き延びるための選択だ。


左馬之助は、ゆっくりと天神山へ歩き出した。

その歩みは重く、

だが迷いはなかった。


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