戌、堺にて動く
「あの娘にやられてしまいましてな、ここが」
拝賀の席で、孫市が真顔で言い放った。
信長が笑い、光秀が困ったように眉を寄せる。
その横で、私は静かに茶を口に含んだ。
——詩乃。
あの娘は、ただの娘ではない。
火霊(蒸留酒)と醤油で堺を宗久を動かし、
ついには織田家の財まで動かしている。
そして孫市は、その娘に惚れている
詩乃の願いならば孫市も動く
ならば、孫市を繋ぎ止める鍵は詩乃
詩乃を押さえれば、光秀も動かしやすくなる
「……動くか」
拝賀が終わり、本圀寺の外へ出たところで、
私は光秀を呼び止めた。
「光秀殿、年の瀬に宗久殿と小西殿(小西隆佐 行長の父)を交え、
堺の商いについて少々話を致したく、28日に茶会を開こうと思うのです。」
光秀殿は丁寧に頭を下げた。
「ありがたいお誘いですが……その日は信長公の代わりに、
堺の南蛮船の検分に同行せよとの仰せがありまして。」
——知っておりましたよ。
先ほど貴方に信長が堺の南蛮船を検分せよと仰せられておったのを
聞いておりますからな。
私は軽く頷いた。
「それはご苦労なこと。ならば、詩乃殿だけでもお越しいただければ十分。
醤油と火霊の話は、むしろ詩乃殿の方が詳しいでしょう。」
そこへ孫市が口を挟んだ。
「ほな、わぇも行こうかな?
宗久も隆佐もよう知った仲やし、
醤油なら雑賀でも作ってみたいんよ。」
——え......来んなよ。
心の中でそう呟きつつ、私は穏やかに笑った。
「孫市殿、醤油を造られることをお考えでしたら後日、
雑賀で造る方を連れてきてもらってから、
改めて宗久殿と相談いたしましょう。
宗久殿も、他所で醤油が作られるのは面白くないでしょうから、
そこは私が根回しをしておきます。」
孫市は「なるほどな」と頷く。
私はさらに続けた。
「それに、隆佐殿も醤油を扱いたいはず。
孫市殿が来られると、隆佐殿が動かれてしまい、
宗久殿を説得するのが厄介になると困りますのでな。
今回は見送っていただければ助かります。」
孫市に醤油を造れるかもしれんという期待を持たせておいて
そのために動いてやると恩を売ってやっておく。
孫市は少し残念そうにしながらも、醤油の利益も計算したらしく
「ほな、詩乃に任せるわ」と笑った。
——よぉぉし。
光秀は信長公の用で外れ、
孫市も外れた。
残るは詩乃ただ一人。
私は光秀に向き直り、静かに言った。
「では、詩乃殿によろしくお伝えください。
堺の未来を語るには、あの娘の才が必要です。」
光秀は深く頷いた。
こうして、
詩乃と私が静かに向き合う場が整った。
ここからが、私の“戌”としての役目である。
茶会当日、宗久の屋敷に入ると、南蛮の香りがほのかに漂っていた。
堺らしい、商いと文化の混じり合う空気。
宗久が火霊と醤油を独占しているため、会合衆の一部から
「堺の物流としても扱わせてほしい」
という申し出があった、という形にしてある。
今日の建前は「堺の商いについて」。
だが、今日の私にとって商いは二の次である。
——詩乃が来る。それだけで十分だ。
会合衆を代表して小西隆佐(行長の父)を呼んでおいた
隆佐は忙しい身だが、堺の羊として、
堺の未来を担う人物と面識を持っておくのも
もし火霊や醤油を扱えるようになっても
隆佐には得しかない。
まぁ、それはそれで良い。
隆佐が火霊を扱おうが扱うまいが、私にとってはどうでも良いことで
——重要なのは、詩乃と“個人として”繋がること。
光秀を動かすには、詩乃の力があれば事を運びやすい。
孫市を動かすにも、詩乃が鍵となる。
このまま予定通り年明けに三好が動けば、本圀寺は危うい。
その時、光秀の傍に孫市がいなければ——
義昭公の生死はどうなるかわからん。
藤孝は三好三人衆に年明け直ぐに本国寺を襲撃させるよう
十二支の羊である隆佐に三好三人衆に襲撃させるよう細工をさせた。
今堺は表向きは三好三人衆の庇護下である。
堺の会合衆がせっついたら三好も動かざるを得ないだろう
そして光秀が将軍を助ける
すると光秀は将軍家から絶大な信頼を得るだろう
そうなれば今十二支が進めている
”備前から摂津はたまた丹後辺りまでを覆う大国を作る”こと
そこを光秀に任すぞと将軍の名において任命させる というわけである
......ただ、少し三好の勢力が想像よりも上回ってしまった。
これではいかん。
光秀も死んでしまうかもしれない
孫市が参戦することは必須である
その未来を作るためには、
詩乃と私が“直接話せる関係”を作らねばならぬ。
詩乃は信長のことをどのように思っておるのかはわからぬが
まだ15歳である。思考の誘導はどうとでもなる...
そこへ、詩乃が姿を現した。
落ち着いた足取り。
控えめだが、芯のある眼差し。
宗久殿の後ろ盾を得て、堺の商いを動かす娘とは思えぬほど柔らかい雰囲気だが、
その奥にある才覚は、すでに堺中が知っている。
私は穏やかに微笑み、言葉を選んだ。
「お待ちしておりましたよ。詩乃殿。今日は良き会になりますよう願っております」
詩乃は丁寧に頭を下げた。
「恐れ入ります。父は本日、信長公の御用にて……」
「承知しておりますとも。」
私は軽く頷いて
「ささ、宗久殿も小西殿もお揃いです。中へ入りましょう」
と茶室の中へ誘った。
茶室に入り、宗久と隆佐が揃ったのを見計らい、
私は静かに口を開いた。
「さて、本日はお二方にお集まりいただいたのは、
火霊と醤油の扱いにつきまして、将軍家へ幾つか陳情が届いておりましてな。」
宗久がわずかに眉を動かす。
隆佐は静かに頷いた。
「宗久殿が独占しておられることに、
堺の会合衆の中には“もう少し広く扱わせてほしい”という声もあるようで。
将軍家としても、堺の商いが円滑に回ることは望ましい。」
私は茶を一口含み、続けた。
「そこで、宗久殿と小西殿のお二方に、
今後の在り方について意見を交わしていただければと思い、
この席を設けた次第です。」
「そういえば、会合衆の集まりではえろう叩かれてましたなぁ」
隆佐は笑いながら宗久に向き直った
「ほんまに、もうこれ以上いじめんとってほしいですわ」
宗久もおどけてみせる
「火霊と醤油を作ったのは、詩乃殿らしいですな。
そなたにも、ぜひ意見を伺いたい。」
詩乃は丁寧に頭を下げた。
「そうですね。今宗久様が販売を一手に引き受けてくださっているのを
今度は堺で座(代理店のようなもの)を作り、そこへ火霊や醤油を卸すということでしょうか」
この子はこの年で良く分かっている。この子の認識を改めなければなるまい。
しかし、建前はこれで十分だ。どちらに転んでも”会”として成立する
詩乃が”最初に見つけてくだされたのは宗久殿なので、どうしますか”と聞き
宗久が”今までよう儲かったので、そろそろ堺にも益を得ていただこう”と語り
隆佐が堺で座を設ける者として礼を述べる。
どちらでも良かったが、より良い方になりそうである。
私は茶を一口含み、詩乃殿へ視線を向けた。
宗久と隆佐が、火霊と醤油の座について軽く言葉を交わし、
場がひとまず落ち着いたのを見計らう。
——ここからが本題だ。
この娘が信長をどう見ているか
それが、これからの策を決める。
私は、あくまで“商いの話の延長”という顔で、
柔らかく声をかけた。
「そういえば……詩乃殿。
信長公のこと、そなたはどのようにお見受けになっておる?」
詩乃にとって信長という存在は“恐れ”か“憧れ”か、あるいは“別の何か”か。
その答え次第で、
信長から引き離す策を考えるか否か大きく変わる。
私は穏やかに微笑んだ。
「堺においても、信長公の評判は様々でしてな。
若き者の目には、どのように映っておるのか…… 少し興味があるのです。」
——さあ、詩乃。
そなたの心の内を、少しだけ見せていただこう。
私は茶碗を静かに置き、平静を装った
詩乃は一瞬だけ目を伏せ、
慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「信長公は……尊いお方だと思います。
ですがその……あの御方の前では、どうしても身が固くなってしまって……。
尊敬しております。ですが……畏れも、ございます。」
声は丁寧で、言葉も整っている。
だが、最後のところで、ほんのわずかに息が揺れた。
——やはり、そうか。
尊敬の言葉は本心だろう。
だがその奥に、
“あの御方の前では息が詰まる”
という、若い娘らしい本音が隠れている。
私は穏やかに微笑み、
あくまで何気ない会話のように返した。
「畏れと尊敬は、しばしば同じ器に入るもの。
若き者がそう感じるのは、むしろ自然なことでしょう。」
詩乃はほっとしたように息をついた。
自分の言葉が“失礼”にならなかったと理解したのだろう。
——この娘は、信長殿の恐ろしさを本能で感じている。
だが、誰に寄り添うべきかは、まだ決めていない。
ならば、こちらへ引き寄せる余地は十分にある。
私は茶を口に含みながら、
次に投げるべき言葉を静かに整えた。
「もし将軍家を中心に、諸大名が互いに力を携え、
民の暮らしが安定する世が来れば……
堺の商いは、今よりもはるかに栄えるでしょうな。」
その瞬間——
「ほう…...“諸大名が互いに力を携える”とは?」
宗久が、興味深げに身を乗り出した。
——しまった。
宗久の前でする話ではなかった。
これでは織田方に漏れる可能性がある。
私は一瞬だけ心の中で舌打ちし、
すぐに思考を切り替えた。
——いや、待て。
宗久は“織田一強”より“均衡状態”の方が儲かると考えれば
― こちらへ付くはずだ。
― ならば、儲かる未来を描いてやればよい。
私は穏やかに微笑み、
宗久の興味を“商いの話”へと巧みにすり替えた。
「実は……村上水軍が赤間関から大坂あたりまでを一つのまとまりにし、
“冒険者”という名に切り替えるという情報を得ましてな。」
その瞬間、隆佐の顔色がさっと青ざめた。
——ここまで機密をさらすのは危険。
もちろん分かっている。
だが、この程度の危険を冒さねば、宗久はこちらに靡かない。
宗久は表情こそ変えぬが、
肩がわずかにぴくりと動いた。
重大な情報だと理解した証だ。
私はさらに言葉を重ねる。
「ここからは、あくまで私の想像にございますが……
一つの大名家の力が強まりすぎたゆえの、海賊衆の対策かと。
しからば、織田と毛利の間に“緩衝地帯”を設け、
どちらにも属さぬ勢力を作ろうと動くのは必定。」
宗久の目が細くなる。
商人特有の“利益の匂い”を嗅ぎ取った時の目だ。
「将軍家としては、この緩衝地帯をまとめる人物の選定を……
水面下で進めております。
もちろん、これは“もしかしたら”の話にございますが。」
——十二支の話までは出さぬ。
将軍家が“そう予想している”という形にしておく。
これで、後は宗久次第だ。
茶室に静寂が落ちた。
宗久は扇子を閉じ、ゆっくりと口を開いた。
「……なるほど。
織田一強となれば、堺の商いは縛られましょう。
しかし、緩衝地帯が生まれ、
そのまとめ役が“堅実なお方”であれば…… 堺には追い風が吹く!」
宗久は藤孝を見た。
その目は、商人の目ではなく、
“勝ち馬を見極める者”の目だった。
「藤孝殿。 その“まとめ役”とやら……
もしや、明智殿のことではございませんか?」
宗久殿の声音は穏やかだが、
その奥に潜む鋭さは隠しきれていない。
——来た。
宗久は、こちら側に足を踏み入れた。
私はニヤリと笑い、扇子をゆるりと広げた。
「未だ選定中にございます。」
ホホホ、と軽く笑う。
だが、宗久には十分伝わったはずだ。
宗久は扇子を閉じ、ゆっくりと頷いた。
「なるほど。それならウチとしても──いや、堺としても、
協力せん手ぇはございませんなぁ……なあ、隆佐殿。」
ここまで言えば、宗久の腹は読める。
堺ごとこちらに寄せるつもりだ。
もし、織田方にばれても
それは”堺”の方針でウチ個人の考えでは無いと逃げられる
隆佐も、腹を据えたようだった。
「そうですなぁ。今は三好の衆に世話になっとりますが、
織田様が勝利したら、どないしまひょ思うてました。
こうなったら、堺もそちらに協力できるようにした方が……
お得かもしれませんなぁ。もちろん“仮”の話ですがねぇ。」
そして隆佐は、詩乃へ視線を向けた。
「詩乃殿は、どない思われます?」
茶室の空気が、詩乃へと集まる。
十五の娘に向けられるには、あまりに重い問い。
だが──この娘は、ただの娘ではない。
詩乃殿は一瞬だけ息を呑み、
それから、静かに口を開いた。
「……もし、父が…… その“まとめ役”になられるのなら……
争いは、今よりずっと少なくなると思います。
堺も、京も、近国も……きっと落ち着きます。
そうなれば、火霊も醤油も……
もっと多くの人の役に立てるはずです。」
声は震えていた。
だが、目の奥の輝きは増していた
宗久は、そんな詩乃の反応を見逃さない。
「ほう……詩乃殿がそこまで言わはるとは。
明智殿、よほど信頼されてますなぁ。」
詩乃は慌てて首を振り、しかし言葉を選びながら、
胸の奥に押し込めていた本音を少しだけ漏らした。
「い、いえ……その……父は……信長公の御側にあれば、
いずれ…… 争いの渦に巻き込まれてしまうのでは、と……。
父は、もっと……人を救うことに力を尽くせる御方です。
もし、争いを避けられる道があるのなら……
その方が……父にも、世にも良いのではと……思うのです。」
十五歳の少女の言葉。
だが、その奥にある切実さは、誰の耳にも届いた。
——よし。
私は静かに茶を口に含み、
三人の反応を見渡した。
「……では、この件については、
今後も情報を交わして参りましょう。」
宗久が扇子を閉じ、低く笑った。
「十日に一度ほど……密かに茶を点てる場を設けまひょか。
表向きは商いの相談、裏では……まあ、いろいろと。」
隆佐も頷く。
「せやなぁ。三好の衆の目ぇもありますさかい、
人目につかんように……な?」
詩乃は、胸に手を当てて小さく頷いた。
「……はい。父のためにも……
どうか、よろしくお願いいたします。」
——決まった。
堺は動く。
詩乃も動く。
そして光秀の未来も、静かに動き始めた。




