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如水堂の密命

夜の備前福岡に辿り着いたとき、弥九郎はまず胸の内でため息をついた。

本来なら「今日ここまで来い」などという命は無茶にもほどがある。だが福岡丸を操る九郎右衛門は、もはや常識という枠をどこかに置き忘れているらしい。


もっとも、デカ木島で暮らす者にとっての“普通”は、世間のそれとはまるで別物だった。

あの巨大な戸板をくり抜いて作った木材の塊が、一刻もかからず舟に姿を変えたときも驚いたが――いや、あれは舟と呼ぶべきではない。水上を駆ける獣のような、まるで水上バイクである。


船底から水を吸い上げ、後方へ圧力をかけて噴き出す。

その反動で浅瀬すら跳ねるように進む。

西の大川から阿知潟を抜け、東の大川へ。

月の欠片のような光だけを頼りにしても、反刻ほどで備前福岡に着いてしまうのだから、驚嘆以外の言葉がない。


しかも素材が健司の一部であるせいか、ほとんど自動で進路を取ってくれる。傷も勝手に塞がるというのだから、もはや妖の類である。


「アーグス、帰りも頼むね」


港に降り立つと、弥九郎が声をかけた途端、アーグスと名付けられた舟は葦の影へと静かに沈んでいった。


「さて、魚屋は……」


昼間の喧騒が嘘のように、町は夕餉を終えた家々の灯りがひとつ、またひとつと消えていく頃合いだった。

潮の匂いと、遠くで鳥が、”ギャー”と鳴く声だけが夜気に残っている。


魚屋の前には、九郎右衛門が腕を組んで立っていた。


「おお、弥九郎。よう来たなぁ。

 ほんなら行こか」


「はい。え……どこへ行くんです?」


「十二支の会合じゃ。言うても全員揃うわけじゃぁ無ーけどの」


九郎右衛門はそう言って歩き出す。

弥九郎は首を傾げながらも後に続いた。


辿り着いたのは、福岡千軒の象徴ともいえる 如水堂 だった。


備前福岡といえば商都として名高いが、その中でも如水堂は別格だ。

「目薬といえば如水堂」

そう言われるほどで、遠国からわざわざ この玲珠膏 を求めてやって来る者も少なくない。


夜の帳に沈んだ店構えは、昼間の賑わいとは違う威厳を帯びていた。

灯籠の淡い光が、看板に刻まれた「如水堂」の文字を浮かび上がらせる。


弥九郎は息を呑んだ。

ここで十二支の会合が行われる――その事実が、これから踏み込む世界の深さを静かに告げていた。


店内に足を踏み入れると、玲珠膏の並ぶ棚の奥に、行長が開発した苦離萎無クリームの壺も置かれている。薬草の香りが夜気に混じり、静寂はさらに濃くなった。人の気配はない。まるで店そのものが息を潜めているようだった。


奥から、畳を擦る柔らかな音がして、暗がりから猫の獣人が姿を現す。

金の瞳が弥九郎を一瞥し、尾がゆるく揺れた。


「……もう今日は店仕舞いですにゃん。

また、明日お待ちしてますにゃん。」


九郎右衛門が一歩前に出て、何気ない調子で言った。


「いやぁ、道中で月を見ての。欠けとったが――」


その言葉に、猫の獣人の耳がぴくりと動く。

「月はもうカケラですにゃん」


九郎右衛門は続けた。

「それでも目は曇りません」


猫の獣人の瞳が細まり、次の瞬間、柔らかく頭を下げた。


「……承りました。では、こちらへ」


意味のわからない会話はどうも、合言葉のようだ。


獣人が階段を静かに登っていく。弥九郎はその背を追い、最奥の部屋へと辿り着いた。


「おいでににゃりました」


柔らかな声とともに襖が滑るように開く。


薄闇の向こうには、6つの影が円座を成していた。灯明の揺らぎが獣の耳や尾を照らし、異形と人の気配が交じり合う。弥九郎は思わず息を呑む。


一歩踏み入れた瞬間、背後で襖が閉じ、外界の気配がすっと遠のいた。


「さて、今日来る子達は全員揃ったわね」


部屋の最奥には、安国寺恵瓊と5人の影が静かに座していた。僧衣の影が揺れ、眼差しは闇を貫くように鋭い。


恵瓊はゆるやかに視線を巡らせ、弥九郎に目を留める。


「弥九郎。これから先、ここにいる者たちとは嫌でも顔を合わせることになるわ。覚えておきなさい。冒険者組合の件は皆に伝えてある。あなたは――これを全力で実現しなさい。連絡役は、この“うづめ”が務めるから」


名を呼ばれた女は、影のように静かに頭を下げた。


続いて、恵瓊の隣に座していた男が口を開く。


苦離萎無(クリーム)の開発者に会えたんは、ほんまに運がええわ。俺は黒田官兵衛。この如水堂はおじじの代から預かっとう。今は播磨の姫路に住んどうけどな」


柔らかな播磨訛りが、場の緊張をわずかに和らげる。


恵瓊は頷き、話を継いだ。


「黒田家には“寅”として、福岡千件を作った頃から動いてもらっているわ。……さて、弥九郎。あなたにも知っておいてほしい。私たちの目的は、勢力の均衡よ。毛利や尼子と織田の間に諸大名の連合国を置き、干渉地帯を築く。強すぎる大名を作らず、戦乱を抑えるために」

円座の一番奥で、恵瓊は静かに口を開いた。


五つの影が、息を呑んだまま耳を傾けている。


恵瓊はゆるりと息を吐き、円座を見渡した。


「――そのためには、畿内に大きな国を興し、毛利・尼子・織田に対抗しうる柱を立てねばならない。別所も荒木も山名も小寺も……一つひとつでは織田に脅されれば靡いてしまう。ここを束ねられる人物は見つかった?」


沈黙が落ちた。誰もが互いの顔色を探る中、凛とした声が闇を裂いた。


「――明智光秀がよろしいかと存じます」


戌の席に座る細川藤孝である。端正な面差しに揺らぎはなく、その声音には確信が宿っていた。


「光秀は理を重んじ、情に流されず、しかし人を見捨てぬ。毛利とも尼子とも、そして織田とも渡り合える器量がある。播磨連合国の王として、最もふさわしい人物と考えます」


その一言で、部屋の空気が変わった。恵瓊の目が細くなり、官兵衛は腕を組んで思案し、五つの影がざわりと揺れる。


弥九郎は息を呑んだ。自分が踏み込もうとしている世界の深さと重さが、ようやく胸に迫る。


「そう。なら将軍に任命させるよう動いてちょうだい。宇喜多は間もなく浦上を呑むわ。そうなれば黒田が小寺と山名の領地を取る。荒木と別所は光秀がまとめる。――鼠の介、鹿之介は如月に大祝へ参ったのち、月山富田城の奪還に動く予定よ」


恵瓊の描く構図は壮大で、弥九郎の頭がくらりとした。


「承知しております」


鼠の介と呼ばれた男が静かに頭を下げる。黒装束の小柄な男は四十がらみ、影のような存在感だ。


「尼子家臣らはすでに忠山に拠点を整えております。米原、熊野、藤井もこちらに付くとの報せです」


「そして村上が赤間関を押さえるのね」


恵瓊が言うと、官兵衛の対座にいた男が頷いた。

「そこはこの問田が国人衆をまとめましょう。お勝様がお戻りになられるなら、大内家臣団も士気が上がりましょう」


「……問田さん!?」


堺でよく見かけた商人風の男。小西家とも取引があった。


「よう、弥九郎。久しぶりやな。うちも“羊”やったんよ」


丸々とした体つきは昔のまま。大内、陶、毛利と主家が次々と変わる中、彼もまた荒波を渡ってきたのだ


「さて、弥九郎。あんたは冒険者組合を作る事が1番だけど、羊としての仕事もしてもらうわよ。ちょうど明後日、宇喜田直家が鷹狩りを行うの」


その名を聞いた途端、空気が変わった。

直家。浦上を食い破ろうとしている、あの男。


恵瓊は続ける。


「あなたには、その鷹狩りの“準備役”として同行してもらう。

 表向きは御用商人の阿部さんとこの若者として。だが本当の目的は……直家と仲良くなることよ」


弥九郎は思わず息を呑んだ。


「わ、私が……宇喜多様と?」


「そう。あなたの“羊”として最初の仕事よ。

 直家は利に敏い男。鷹狩りの準備を完璧にこなせば、必ずあなたを気に入る。

 士官する必要はないわ。ただ、“話せる相手”になればいい」


恵瓊の目が細くなる。

その奥には、計算と未来図が渦巻いていた。


「直家を動かすには、外からの風が必要なの。

 赤松政秀が浦上に不満を持っていること、

 播磨の国人が揺れていること、

 黒田が動かぬこと……

 あなたの口から伝えれば、直家は必ず考えるわ」


弥九郎の背筋に冷たいものが走った。

自分が、宇喜多と赤松を結びつける“導火線”になる――

そんな未来が見えた。


「……承知、いたしました」


声が震えたが、恵瓊は気づかぬふりをした。


「弥九郎。これは大事な役目よ。

 あなたが直家と話せば、浦上は崩れる。

 赤松は動く。

 そして――地図が変わる」


恵瓊はゆっくりと弥九郎に向き直り、肩に手を置いた。


「怖がる必要はないわ。

 あなたはただ、鷹狩りの準備をし、直家と話すだけ。

 だがその一言が、国を動かすの」


灯明が揺れ、恵瓊の影が長く伸びた。

「九郎右衛門は弥九郎が阿部さんの若い衆として手配するのよ。魚屋なら造作ないわよね?」


「へへっ。承知しました」

九郎右衛門は準備するみたいなので明後日宇喜田直家と会う事は決定したようだ。


「行きなさい、弥九郎。

 あなたの役目は、ここから始まる」


弥九郎は深く頭を下げ、静かに部屋を出た。

胸の奥で、何かが音を立てて動き始めていた。





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