魔樹の上の異種たちと因島の影
木の内側をめぐる魔力の脈動が、静かな寝息のように空気を震わせていた。
温もりを含んだ風が頬を撫で、弥九郎はゆっくりと意識を浮上させる。
目を開いた瞬間、胸が跳ねた。
すぐ隣に、柔らかな重み。
袖をつまんだまま寄り添って眠るほたるの横顔が、淡い魔光に照らされている。
巨大な木の静けさに溶け込むような寝息。
昨夜の火霊の香りがまだ微かに残り、行長の胸の奥をじんわりと熱くした。
木の壁の向こうでは、魔力がゆっくりと流れ、朝日ではなく“月の欠片”が淡く揺らめいている。
しかし朝だと解る清々しい光。この島だけの、静かな朝。
「朝餉を用意しました。」
健太郎の声がして、行長ははっと振り返る。
その気配にほたるが目を覚まし、瞬きをしながら小さく伸びをした。
「ん……いい匂い」
離れていく温もりに名残惜しさを覚えつつ、行長は問いかける。
「おはようございます。あれ? 武吉殿と凪は?」
健太郎は器を並べながら、呆れたように笑った。
「今朝早くに武吉さんが凪を叩き起こして帰って行きましたよ。本太城の方は因島を襲撃したことをまだ知らないですからね。まったく、あの人はどこまで計算しているのか」
そういえば書状を見て怒ってたけど、凪見てデレデレしてここまで来たので、今頃本太城は大騒ぎになっているかもしれない。
計算している風には見えないですけど
並べられたのは、白ごはん、アジの干物、味噌汁。
味噌汁は桜が作ったという因島の味だという。味噌はここで作っているらしいが...
ほたるは箸を持った瞬間、ぱっと顔を輝かせた。
「うまいー!」
そのまま一心不乱に食べ始め、行長は思わず笑ってしまう。
調理場に立つ桜も、嬉しそうにその様子を見守っていた。
魔力の木の中で迎える朝は、どこか現実離れしているのに、
この小さな食卓だけは、妙に温かく、確かな日常の匂いがした。
調理場に立って作っている桜も嬉しそうだ
「「ご馳走さまでした」」
行長とほたるが箸を置くと、室内にほのかな木の香りだけが残った。
満腹の余韻が漂う中、健太郎が湯呑を置きながら口を開く。
「さて。今日はデカ木島の説明をしないといけませんね」
魔力のコンセント、木の壁でできたトンネル、随身の間──
弥九郎の頭の中は、すでに理解の限界を越えつつあった。
「まず、ちゃんと紹介していませんでしたが、この木は“健司くん”といいます。意思を持っていて、思い通りに枝や根を作っていくことができるんです」
「やっぱり意思があったんやねぇ」
ほたるが壁を指先でなぞりながら、感心したように呟く。
「そうなんです。例えば弥九郎さんの部屋を造ろうと思ったら、戸の位置を決めて、縦横の寸法を健司くんに伝えるだけでいい。一刻もあれば形になります。あとは戸を作って、間仕切りを作るだけです」
健太郎はそう言うと、樹脂でできた刀を持ってきた。
刃は淡く光り、木の壁に触れただけで吸い込まれるように沈む。
「せっかくなので作ってみましょう。幹の方には獣人や虫の居住区がありますが、弥九郎さんは職員ですから、下津井や本太城にすぐ行けるよう、この応接室の近くに部屋を作った方が便利です」
応接室から少し歩いたところで、健太郎は刀を壁に突き立てた。
「まずは戸の大きさに切っておきます」
樹脂の刃が木の壁を滑り、長方形の線を描く。
木は悲鳴ひとつ上げず、ただ静かに形を受け入れていく。
「後は出来上がったら健司くんが教えてくれます。それまで放置で大丈夫です」
ほたるが手を挙げた。
「職員とやらになれば部屋を作ってもろうてええんやったら……あっしの部屋も、作ってもらってもええですかぁ?」
「え、職員になるんです?」
弥九郎は思わずほたるを見た。
胸の奥が、熱く跳ねる。
「もうしばらくこっちにおろうかと思ってんわぁ」
その一言で、弥九郎の顔は隠しきれないほど明るくなる。
「それは良いですね。ではほたるさんの部屋も作りましょう。どこにします?」
「弥九郎の隣でええよぉ」
行長は、嬉しさを噛みしめるように息を吸った。
「では、ここに戸を作りますね。二人とも、大きさは五坪ほどでいいですか?」
健太郎は軽く刀を構え、もう一度壁に刃を走らせた。
木の壁は、まるで生き物のようにそれを受け入れる。
行長はよく分からないまま、「お任せします」とだけ答えた。
「では、出来上がるまでの間に──島の説明をしましょう。蜘蛛を呼んでおきました」
健太郎が振り返った瞬間、昨日見た巨大な蜘蛛たちが、影のように静かに現れた。
その奥で、デカ木島そのものが軋むような低い音を立てる。
まるで新しい部屋の誕生を、巨大な樹が喜んでいるかのようだった。
「幹に行きます」
健太郎の声に従い、行長たちは蜘蛛の背に跨った。
蜘蛛は糸を操るように滑らかに動き、曲がりくねった木のトンネルを進んでいく。
やがて視界が開けた。
「ここから幹の一階です」
健太郎の前方には、樹脂で区切られたまっすぐな通路が百メートルほど伸びていた。
両側の壁は天井まで届かず、隙間からは人々の声が漏れ聞こえる。
木の香りと、魚の匂いが混じり合っていた。
「ここでは樹脂の加工や、外で獲れた魚の仕分け、下津井への派遣の事務などの仕事をしています」
「魚、捕ったん、港からわざわざここまで持ってくるん?」
魚の話題に、ほたるが目を輝かせながら質問する。
「いえ、魚はここから外へ出て、枝の先で釣るんですよ。今も釣っているはずです。見に行きますか?」
「えー、見てみたい」
ほたるが身を乗り出し、行長も頷いた。
前世では良く船に乗って釣りに出掛けたものである。
「では釣りを見に行きましょう」
蜘蛛は再び走り出し、突き当たり手前の交差点を南へ折れる。
健太郎が振り返りながら説明した。
「デカ木島の東は干潟ですが、西側は西の大川が通っています。南は海の魚、北は川魚が獲れます」
「健太郎様、鰻も獲れるんですか? また“かば焼き”を食べとうございます」
桜が嬉しそうに身を寄せた。
以前健太郎が振る舞った鰻の蒲焼きは、彼女の食の価値観を変えた一皿だった。
外は香ばしく、中は脂がとろけるように柔らかい──
それまではぶつ切りにして汁物に入れるだけだった鰻が、
まるで別の生き物になったかのようだった。
「ふふ。では今夜は鰻にしましょう。少し待っていてください」
健太郎は蜘蛛を降り、左手の作業部屋へ消えた。
「やったぁ。お二人にもぜひ食べてもらいたいです。私の一押しです」
桜は胸の前で手を合わせ、弥九郎とほたるに向き直る。
前世では高級すぎて手が出なかった鰻──それが天然物で、しかも食べ放題に近い。
行長の頬派は自然と緩んでいた。
ほどなくして健太郎が戻ってきた。
「ちょうど昨夜獲れた鰻を四尾、確保できました。後で持ってきてくれるそうです。
では、釣りを見に行きましょう」
再び蜘蛛に乗り、南へ進む。
木の壁にぽっかりと開いた穴から、空と海が広がった。
そこから枝の上へ出ると、蜘蛛は風を切って走り出す。
「右が備後灘、左が水島灘です。本太城も見えますよ。
左へ行きましょう。今ちょうど港の上です」
蜘蛛は枝から枝へと軽やかに飛び移り、南端へ向かう。
途中、魚を運ぶ蜘蛛たちとすれ違った。
背には鐙の代わりに箱が生えており
、そこに獲物を入れて冷やしながら運べるらしい。
やがて、最も南に張り出した枝の先端に到着した。
そこでは、体長一メートルを超えるスズメバチと蜘蛛が、
見事な連携で釣りをしていた。
海面の上で、竿がしなり、糸が唸る。
蜂が疑似餌のルアーを遠くまで運び、海へ落とす。
戻ってきた蜂が竿を構え、蜘蛛が糸を巻く。
海底からルアーを引き上げると、竿がぐぐっと引き込まれた。
蜂が竿を立て、蜘蛛が糸を巻く。
海面が割れ、銀色の巨体が跳ねた。
三メートルはあろうかというブリだった。
蜂が飛び、網へ誘導し、蜘蛛二匹が糸を垂らして引き上げる。
蜂が脳を刺して絶命させ、蜘蛛が血を抜く。
蜘蛛は肉を食べると思われがちだが、本来はまず、管を刺して溶解液を流し込み、ドロドロに溶けた肉を吸うのであるが、魚の血で十分だそうだ。おなかが一杯になると交代して、運ぶ係をするので、蜘蛛には人気の職業みたいだ。
血抜きされたブリが箱を背負った蜘蛛に預けられ、枝の上を静かに運ばれていく。
潮の匂いを含んだ海風が吹き抜け、巨大な枝が低く軋んだ。
行長はただ、その異様でありながらどこか神聖さすら感じさせる光景に、言葉を失っていた。
そのとき──。
「……船が来ています」
弥九郎も反射的に視線を向ける。海の向こうに、一艘の関船がゆっくりと姿を現していた。
健太郎が手にしていた望遠鏡を覗き込み、低く呟いた。
「……因島の船ですね」
「えっ!!」
行長の声は裏返った。
因島の船に驚いたのか、望遠鏡の存在に驚いたのか、自分でも判然としない。
だが、因島の船がここへ来るという事実だけは、胸を強く締めつけた。
船はデカ木島の南側を抜け、本太城へ向けて一直線に進んでいる。
「本太城へ行きますね。......行きましょう!
一艘だけで来ているので、報復ではないでしょう。
......私も吉充殿と話さねばなりませんし」
健太郎は覚悟を決めたように、まっすぐ因島の船を見据えた。
その横顔には、揺るぎない決意が宿っていた。
その瞬間、影が差した。
行長が顔を上げると、巨大なカラスが四羽、空を旋回している。
それぞれの足には、籠がぶら下がっていた。
「カラスに来てもらいました。あの籠に乗っていきましょう」
「まさか……」
行長が呟くより早く、カラスたちは斜め上空から滑空し、枝の上すれすれに籠を差し出した。
風を切る羽音が、胸の鼓動をさらに速める。
健太郎は一番手の籠に桜を乗せて
「後の籠に飛び乗ってください!」
そう言うや否や、自らも次の籠へ軽やかに飛び移る。
「じゃ、あちしねぇ!」
ほたるが笑いながら身を躍らせ、籠に飛び乗った。
その身のこなしは、まるで鳥のようにしなやかだった。
次は行長の番だ。
彼は一瞬ためらったが、意を決して籠へ飛び込む。
カラスが羽ばたき、籠がふわりと浮き上がった。
行長の胸に、緊張と興奮が同時に湧き上がる。
本太城へ──因島の船へ──そして、これから起こるであろう出来事へ。
巨大なカラスたちは、四つの籠をぶら下げたまま、海風を切って本太城へ向かって飛び立った。




