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明智詩乃

時は少し遡り、孫市が茶々麿と堺でカモを食べたところ

ーーー孫市視点ーーー


鴨鍋の湯気がまだ部屋に残っている。

宗久の屋敷は香の匂いと鉄砲油の匂いが入り混じって、

堺らしい雑多な空気に満ちていた。


茶々麿は「眠いわー」と言いながら宿へ戻っていった。

あの子はあの子で、なんやよう分からん。

十歳ちょいのくせに、自分より政治に詳しいんちゃうかと思う時がある。


孫市は湯飲みを置き、宗久の屋敷の庭をちらりと見た。


(……馬つないでるんよな。急に来たから先客がおったんじゃろう。

 宗久んとこに馬で来るやつなんて、限られとる。

 堺の商人は歩きや。 武家か……いや、あの馬の手入れは“京”の匂いやった)


孫市は宗久をじろりと見た。


(……織田の使い、か)


その時、女中がそっと宗久の耳元へ近づいた。

なにやら宗久の顔が一瞬で曇った。


「……はぁ……また勝手なこと……」


孫市はその空気を見逃さない。

孫市は湯飲みを置き、宗久の目をじっと見た。


「……なぁ、宗久。 わぇ、さっきから気になっとるんやけどな」


宗久は扇子で口元を隠しながら、わざとらしく笑った。


「なんでっしゃろ、孫市はん。なんかしら気になっとることがありまっか?」


孫市は鼻で笑った。


「……おるんやろ。織田の使い。 わぇの目ぇごまかせる思たら大間違いやで」


宗久は観念したように肩を落とした。


「……実は、来てはります。 せやけど、孫市はんに会わせるんは……」


孫市はニヤリと笑った。


「ほんなら呼んで来いや。 わぇも織田の動き、ちぃと探っときたい思とったとこや」


宗久はため息をついた。


「……呼ばんでも、もう出てきはりますわ」


孫市は眉を上げた。


「は?」


「紹介にあずかりました、織田の使いにございます」


襖が静かに開いた。


灯りに照らされたその姿は、

まるで絵巻から抜け出したような美しさだった。


白い肌は淡い光を受けて透き通り、黒髪は水のように滑らかで、

瞳は深い湖のように静かであった。


孫市は思わず息を呑んだ。


詩乃は深く、優雅に頭を下げた。

「明智光秀の娘、詩乃と申します。 孫市様がお越しと伺いまして……

 ご挨拶だけでもと思いまして」


宗久が横で苦笑している。

「姫さんは織田様の使いでちょくちょく、堺においでなさるんですわ」


詩乃が襖を開けて名乗った瞬間、孫市の脳みそは一度止まった。

(……なんやこの姫さん…… 光っとるやないか……

 こがな器量よしが織田の使い…… なんちゅう……)


詩乃が静かに口を開いた。


「孫市様。

 堺は今、三好殿と織田様の間で揺れております。

 雑賀衆のご当主としてどのようにお考えなさってはりますか?」


「そんなもん....、堺のことに首はつっこまへんけどな」

と何とか声を絞り出した。

(……声まで綺麗や…… なんやこの天女みたいな姫さん…… 

 わぇ、話なんか聞けるかいな…… 頭ん中、姫さんでいっぱいや……)


「では雑賀衆は黙認していただけるんですか?」

詩乃の顔がぱぁっと輝く


「いや、三好のやつーが”鉄砲は誉がないから好かん”とかいいよっての。

 なら放っておこうかと思うとるだけや」

孫市はもう、上の空だ。


詩乃は続ける

「なら……もし叶いますならば…… 孫市様には一度、

 織田の殿様にお目にかかっていただきとうございます」


(……信長に? いやそんなことどうでもええ……

 姫さんが言うならなんでもええ…… わぇ、姫さんの頼みなら何でも聞く……)


孫市は思わず前のめりになった。


「姫さん……

 わぇ、あんたみたいな綺麗な人、初めて見たで……」


詩乃の笑顔が一瞬だけ固まったが微笑み直し、

本題へ戻そうとする。

「もしも、雑賀衆の方がお見方していただけるなら...」


孫市は遮った。

「姫さん……わぇ、あんたの話ならなんぼでも聞くで……

 いや、聞くいうか…… ずっと見てたい……」


(キモッ……いや、顔には出したらあかん……

 ここは我慢…… せっかく雑賀衆の頭領に会ったんだから……

 まずは父上に会ってもらわな……)

詩乃は柔らかく微笑んだ。

「孫市様。 もしよろしゅうございましたら……

 今度、我が家へお越しくださいませ。父とも、お話いただきたく存じます。

 堺のことも、織田のことも、そして本願寺のことも…… 

 お忙しいところ恐縮ですが、お時間をいただく価値はあるかと存じます」


(行く!!行く行く行く行く行く!!今すぐ行く!!

 いや、今行ったら必死すぎるか!?落ち着け孫市!)

口から出た言葉は、ほぼ反射だった。

「……ほ、ほんまに? 姫さんの家に、わぇが行ってええんか?」


詩乃は完璧な姫の微笑みで返す。

「もちろんでございます。父も、孫市様とお話できればと存じます」


孫市は胸を叩いた。

「任しとき! 明智殿にも挨拶させてもらうで!」


孫市は立ち上がりかけて――ふと思い出した。

(……あ、そういや茶々麿を石山に送り届けなあかんのやった)

茶々麿は本願寺の御曹司。放って帰るわけにはいかない。

孫市は詩乃に向き直った。

「姫さん……わぇ、今すぐ行きたいんやけどな……

 まず茶々麿を石山に送り届けなあかんのや。あの子、ほっとけんさけな」


詩乃は微笑んだ。

「もちろんでございます。お役目を果たされてからで、十分にございます」


孫市の胸がまた跳ねた。

(なんやこの姫さん……優しさまで綺麗やんけ……

 わぇ、絶対明智家行く…… 絶対ええとこ見せたる……)


孫市は深く頭を下げた。

「ほな、茶々麿を届けたら……必ず伺うで、姫さん」


詩乃は静かに頷いた。

「お待ちしております、孫市様」


詩乃が襖を閉めて去っていくと、部屋に静けさが戻った。


孫市は胸を押さえたまま、まだ夢見心地の顔をしていた。


「……はぁ……詩乃……なんちゅう綺麗な……」


宗久はその様子を見て、扇子をぱたぱたしながら深いため息をついた。

「孫市はん。 ほんまによろしんでっか?」


孫市は眉を上げた。

「なんの話や」


宗久は扇子を閉じ、孫市の正面に座り直した。


「孫市はんは本願寺とは切っても切れん縁や。

 雑賀衆も、ほとんど門徒。茶々麿はんも預かっとる。

 そんなあんたが織田はんに近づくんは……どう考えても、ややこしゅうなりますわ」


孫市は黙った。


宗久は続けた。

「せやけどな……孫市はんは傭兵や。金で動くことも多い。

 そういう意味では、織田はんとは“気が合う”かもしれまへん」


孫市は少し照れた。

「……まぁ、金は多いに越したこと無いけどな」


宗久は肩をすくめた。

「信長はんは実力主義で、“金で動く武士”を好む。

 孫市はんみたいな人材は、あの人はんの好物ですわ」


孫市は鼻を鳴らした。

「ほぉ、そうかいな」


宗久は扇子をぱたぱたしながら、しかし目だけは鋭かった。

「せやけどなぁ……

 信長はんは寺社勢力が武力持つんを、嫌う人でっせ。

 本願寺が武装解除するとは思えまへん。

 最終的には、あの人はんは眉ひとつ動かさんと焼き払うでしょうな」


孫市は息を呑んだ。


宗久はさらに続ける。

「せやから……孫市はんがどれだけ姫さんに惚れようが、

 織田はんと本願寺が一緒になるなんて……普通はありえまへん」


孫市は拳を握った。


宗久はふっと笑って扇子を開いた

「……まぁ、わてとしてはな。

 織田はんと雑賀衆が敵対してくれたら、鉄砲も火薬も売り放題。

 戦が長引けば長引くほど、堺は潤いますわ」


孫市は呆れたように笑う。

「ほんま、おまえら堺の商人は腹黒いのぉ」


宗久は扇子を閉じ、にやりと笑った。

「初めは会わせんとこ思てたけど……孫市はんの“食いつき”見てましたらな……

 ひょっとしたら、

本願寺ごと織田陣営に引き込める可能性も、無くはない思うてきましてな」


孫市は驚いた。

「……宗久、おまえ……どっちでもええ思てるんか?」


宗久は肩をすくめた。

「堺の商人は、勝ち馬に乗るんが仕事でしてな。

 織田はんが勝って堺を独占したら、そりゃ、自由は減りますけど……

 勝ち馬に乗ったら先々お得ですわ。どっちに転んでも、わてらは儲かります」


孫市は苦笑した。

「……ほんま、腹黒いわ」


宗久はそこで、ふっと真顔に戻った。

「せやけどな……

 詩乃はんは、まだ若いお嬢さんや。あの子の将来を思うたら……

 孫市はん、あんたが“勢い”で動くんは……わては、反対ですわ。責任とれまへんやろ」


孫市は拳を握りしめた。

「……責任は、とる」


宗久は目を細めた。

「どうやって?」


孫市は一瞬だけ黙り、しかしすぐに胸を張った。

「……それは……これから考える!」


宗久は頭を抱えた。

「……あかんわ…… その場の勢いで言うてるだけやん……

 そんな調子で、詩乃はんの人生背負えるんでっか?」


孫市は真剣な顔で言った。

「背負う。 わぇが決めたんや」


宗久は深いため息をついた。

「……ほんま、やめてほしいわぁ……

 あんたみたいな人が一番、戦をややこしゅうするんですわ」


帰り道、夜風が頬を撫でる。


茶々麿はすでに宿へ戻ってしまい、

孫市は一人で馬を引きながら歩いていた。


(……さて…… 今夜の夜這い先、どこにしよか……)


孫市はふと立ち止まった。


(堺の町は女が多いし、わぇの顔も売れとる。

 声かけたら、まぁ断られることはないわな)


いつもの孫市なら、この時間帯はすでに“今夜の相手”を決めている。


だが――


(……詩乃……)


孫市の胸が、どくん、と跳ねた。


(あかん…… あの姫さんの顔、頭から離れへん……

 なんやこれ…… わぇ、ほんまに惚れてもうたんか……?)


孫市は髪をかきむしった。


(いや、惚れたんやろな……別嬪、見たことないし……

 声も綺麗で、仕草も綺麗で…… なんやもう全部綺麗や……)


孫市は歩きながら、ふと夜の町を見回した。


(……せやけど……今夜、誰かのとこ行くんは……なんか違う気ぃするな……)


孫市には、

女好きのくせに妙な“美学”があった。


惚れた相手には夜這いせん。

好いてもらうまでは、絶対に手ぇ出さん。


(詩乃姫さんは……わぇのこと、どう思っとるんやろ……)


孫市は胸を押さえた。


(あの微笑み……あれは……どういう意味や……?

 わぇに興味あるんか……それともただの礼儀か……)


孫市はしばらく考え込んだあと、

大きく息を吐いた。


「……あかん。今夜は……やめとこ」


自分で言って、自分で驚いた。


(わぇが……夜這いやめるなんて…… ほんまに惚れとる証拠やな……)


孫市は苦笑した。


(姫さんに好いてもらわな、意味ない。 わぇの美学に反するわ)


馬の鼻先を軽く撫でながら、孫市は空を見上げた。


(……明智家、行くんや。詩乃に会うて、

 ちゃんと話して、好いてもらうんや)


その顔は、

戦国最強の傭兵ではなく、

ただの恋する男の顔だった。

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