5:「真夜中、誰もいないはずの学校で、一つだけ音が聞こえた」
夜中の学校に忍び込んだとはいえ、俺は泥棒じゃない。
見つかったら、不法侵入を喰らうのは覚悟済みだ。
今でもきっと昼間の学校はうるさいんだろうな。子どもたちの喋り声、走り回る音、椅子を引く音、騒音のデパートみたいだった。
だが、夜中の学校は静かすぎた。
息を吸う音さえ廊下に溶けず、靴底が床を擦る度、誰かが歩いてくるように響く。
とにかく、俺は旧校舎の三階の女子トイレへ向かい、三番目の個室の前に立つ。
なけなしの勇気を振り絞って問いかける。
「花子さん、僕と結婚してください」
俺は本気だ。
あの日、世間の怪談を真に受けた子どもたちは、このトイレのドアをノックして彼女を呼び出した。
「花子さん、遊びましょう」
「……はい」
花子さんの長い黒髪は夜より深く、白い指先だけが月明かりを吸ったように浮かんで見えた。
その瞬間、悲鳴より先に胸が高まった。
他の子どもたちは悲鳴をあげて逃げて行った。
できればもっと話したかったが、駆けつけた教師が子どもたちを叱りつけ、トイレの中にいた俺に出てくるよう命令したので、花子さんは姿を消した。
それ以来、いくら呼んでも花子さんは出てこなかった。
俺は小学校を卒業したあともずっと花子さんだけを思い続けて、現実の女とはうまくいかなかった。
でも、それも今日が最後だ。
「花子さん、結婚してください」
闇に包まれた女子トイレで大人になった俺の声が響く。
ふと、扉の向こうに気配を感じた。
ガチャ、と古びた鍵が回る音だけが女子トイレに響いた。
俺は興奮する脳を必死で宥めた。
まだプロポーズの返事はない。
ギィ……と扉が開くと、色白の和風な美女が現れた。
「花子さん!」
「久しぶりね」
花子さんは少し笑った。
「僕と結婚してください!」
「……いいけど」
えええっ!
花子さんは怪訝そうな顔で聞いてきた。
「それがどういうことか、本当にわかっているの?」
「もちろんだ」
「じゃあ、こっちに来て」
俺は個室の中に入った。
なんの変哲もないトイレだが、最初に耳へ飛び込んできたのは、水音だった。
ゴウ、ゴウ……と山奥でしか聞いたことないような轟音が狭い個室いっぱいに響いている。
奥に壁がない。
「覚悟はできてるよね」
花子さんは俺の背中を押した。
すると、俺は滝壺へと落ちていった。
真夜中、誰もいないはずの学校で、一つだけ音が聞こえた。
それは俺が深い滝壺に落ちる、ドボン! という音だった。




