18:「誰も驚いていない」
朝、駅のホームに電車が入ってきた。
列に並んでいた私は歩き出そうととして、前の乗客の背中にぶつかった。
「すみません」
「……」
咄嗟に謝ったが、返事はない。振り向きもしなかった。
それどころか、前の乗客は電車に乗ろうとしない。
座りたい私は、早く乗ってほしいと思った。
駅員も周囲の人々も、次の電車を待っている。
それが当然であるかのように、誰も不思議そうな顔をしていない。
遅刻したくない私は、仕方なく電車に近づいた。
ふわりと、薔薇の香りがした。
思わず顔を上げる。
電車は薔薇、百合、菊、水仙、チューリップ、アイリス、トルコキキョウ、ガーベラ――ありとあらゆる花で飾られていた。
扉にも何十本の蔓が覆い、隙間なく覆い尽くしている。
なるほど、これじゃ乗れない。
妙に納得して眺めていると、扉の脇に咲く一輪の薔薇が目に留まった。
あまりにも綺麗だった。
気付けば私は手を伸ばし、その花を力任せに摘み取っていた。
蔓から花が離れた瞬間、蔓が蠢いた。
まるで脈打つ生き物のように何本もの蔓が伸び、切り口へ絡みついていく。
そして数秒後。
そこには何事もなかったかのように、新しい薔薇が咲いていた。
「ねえ、今の見た?」
興奮して周囲を見回す。
しかし返ってきたのは、冷たい一言だった。
「これだから初心者は」
「そ、そんなー」
誰も相手にしてくれない。
周囲の人々はスマートフォンの画面ばかり眺め、花で飾られた電車を撮影しようとしない。
こんな珍しいものをSNSに上げないのだろうか。
だったら、私が先にバズってやる。
そう思ってスマートフォンを構えた瞬間、手の中の薔薇が崩れ始めた。
花びらが灰のようにボロボロと剥がれ落ちていく。
「え?」
狼狽えているうちに、薔薇は完全に灰になった。
ホームを風が吹き抜け、灰は跡形もなく散っていく。
呆然としている間に、花で飾られた電車が走り去った。
ほどなくして、次の電車がホームへ入ってくる。
今度の電車には花など一輪もない。
半分ほど席が埋まった車内へ、乗客たちがぞろぞろと乗り込んでいく。
私も流されるように乗った。
窓に映った自分の手を見る。
薔薇を握っていたはずの指先には、灰色の粉がほんの少しだけ残っていた。
指で擦る。
灰は、黒い線になって消えた。




