11:「古い図書館で本を探していると、一冊だけ妙な匂いがする本を見つけた」
古い図書館で本を探していると、一冊だけ妙な匂いがする本を見つけた。
手に取ってみると、線香とも薬品ともつかない匂いが鼻についた。
古書独特の紙の匂いではない。
もう一度確かめようと息を吸った瞬間、その匂いは雨の日の畳へ変わった。
最初は気のせいだと思った。
でも、再び匂いが変わった。
今度は誰かの家の押し入れのような匂いだ。
普通なら、怖がるべきなのだろう。
しかし私は好奇心を抑えきれず、次はどんな匂いに変わるか知りたくなった。
思い切り空気を吸ってみる。
夏の草刈りしたあとの河原のような青臭い匂いがした。
何これ。とてもおもしろい。
冬の和室、秋の山寺、コーヒーの香りが漂うカフェ。次々と変わり続ける香りに私は興奮した。
次はなんだろうと、本に鼻を近づけたその時だ。
「閉館の時間です」
司書に声をかけられた。
私は閉館まで本の匂いを嗅ぐことに夢中になっていたのか。
我に返ると恥ずかしくなる。
「その本、お借りしますか?」
私は少し迷ったが、今も本は匂いを変えていると思うと居ても立ってもいられない。
「お願いします」
司書はバーコードリーダーを二度かざし、首を傾げた。
「……珍しいですね。こんなこと、滅多にないのですが」
三度目でようやく貸し出し処理が終わった。
本をアパートに持ち帰ると、今はどんな匂いになっているのだろうと鞄から本を取り出した。
「この本、タイトルがない」
そういうデザインの本なのかと思ったが、裏表紙にも出版社の名前が書かれていない。
急に背筋が寒くなる。
私は一体、何を借りてきてしまったのか。
本を机に置いたまま一歩下がる。
部屋はいつもと同じなのに、本だけが場違いだった。
鞄に戻そうとしたが、もう一度だけ匂いを確かめたくなった。
突如本が香り立つように匂いが変わった。
懐かしいはずなのに思い出せない。
胸をかきむしりたくなるほどの失われたものを感じて、本の表紙をめくろうとするが、すんでのところで手を止めた。
私に思い出したくなるほどの愛しい過去はない。
しかし、もう一枚だけめくれば思い出せる。
そんな確信があった。
指先が勝手に表紙を押し上げる。
だが、私は爪が白くなるほど拳を握り、ゆっくりと本を閉じた。
本を閉じても、その香りだけは消えなかった。




