残り続けるとんこつラーメン
同じ場所を何度も通る仕事をしていると、見覚えのあるはずの景色に、ふとした違和感を覚えることがある。
昨日までなかったはずのものが、当たり前のようにそこにある。
逆に、あったはずのものが、きれいに消えている。
気のせいだと思えば、それで済む。
だが一度気づいてしまうと、次からは見過ごせなくなる。
あの路地も、そうだった。
深夜。
客を降ろしたあと、ふとバックミラーに映った。
細い道の奥。
灯りがある。
前にも見た気がした。
いや、見た。
あの店だ。
あのときは、偶然だと思った。
だが今は、違う気がした。
車を停める。
エンジンを切る。
前とは違う。
自分の意思で、降りた。
路地に入る。
提灯は、静かに揺れていた。
暖簾をくぐる。
店内は、変わらず整っている。
音が少ない。
時間が薄い。
奥に、男がいる。
そして、カウンターの端に、女。
黒い服。
同じ姿勢。
前と、ほとんど同じだった。
「いらっしゃいませ」
男が言う。
やはり、女には向けられていない。
俺は席に座る。
自然と、前と同じ位置に座っていた。
女の前には、とんこつラーメン。
白く濁ったスープ。
濃い匂い。
だが、湯気がない。
時間が止まっているように見える。
女は、箸を持っている。
けれど、動かない。
それでも、スープはわずかに減っている。
前と同じだ。
違うのは。
その光景に、もう驚かなくなっている自分だった。
「……また、来たのか」
誰に言うでもなく、口にする。
「ええ」
男が答える。
それだけだ。
注文はしていない。
だが、鍋に火が入る。
湯気が立ち上る。
その動きが、どこか決まっているように見えた。
女が、ふとこちらを見た。
目が合う。
前と同じ。
何もない目。
だが、ほんのわずかに、何かが残っている気がした。
それが何かは分からない。
「……この人、帰ってないのか」
言葉が出る。
自分でも、なぜそう思ったのか分からない。
男は、すぐには答えなかった。
少しだけ、間がある。
「……帰る場所が、もうありませんから」
静かな声だった。
感情はない。
ただ、事実を述べるように。
女は、何も言わない。
視線を丼に戻す。
そのとき。
一瞬だけ。
女の手が、カウンターの内側にあった。
鍋の方に伸びている。
次の瞬間には、元の位置に戻っている。
見間違いかと思う。
だが、妙に現実感があった。
ラーメンが置かれる。
とんこつだ。
重いはずの香り。
一口、飲む。
濃い。
だが、輪郭が曖昧だ。
どこかで食べたことがあるような。
でも思い出せない。
隣を見る。
女の丼は、ほとんど変わっていない。
それでも、確かに減っている。
「ここにいると、楽なんです」
女が言った。
誰に向けた言葉か分からない。
だが、店の中に、ゆっくりと広がった。
「何も考えなくていいから」
その声は、穏やかだった。
安心しているようにも聞こえる。
だが。
どこか、戻れない場所にいるようにも感じた。
男は、何も言わない。
ただ、同じ動きで麺を整えている。
視線が、揃う。
ほんの一瞬。
男と女の動きが、同じだった。
まるで、どちらがどちらでもいいように。
すぐに、ずれる。
何もなかったように。
ラーメンを食べ終える。
満たされた感じはしない。
だが、空腹でもない。
立ち上がる。
店を出る。
夜の空気が、はっきりしている。
現実の重さが戻ってくる。
振り返る。
店は、ない。
ただの路地。
分かっている。
それでも、もう一度見る。
何もない。
車に戻る。
ドアを開ける前に、ふと考える。
もし、あのまま座っていたら。
あそこに、残っていたのか。
分からない。
分からないままでいい気もした。
エンジンをかける。
メーターが動き出す。
行き先は、まだ決めていない。
それでも、アクセルを踏む。
進む方を選べるうちは、そうした方がいい。
そんな気がした。




