呼び戻す味の醤油ラーメン
人は、いなくなったものほど、はっきり覚えている。
声も、仕草も、どうでもよかった会話まで。
時間が経つほど、輪郭はぼやけるのになぜか“そこにいる感じ”だけが残る。
あの日から、ずっと。
弟の姿は、どこかにいる気がしていた。
事故だった。
あっけないほど、簡単にいなくなった。
最後に交わした言葉も、思い出せない。
それがずっと、引っかかっている。
ある日、噂を聞いた。
「会える店がある」と。
くだらないと思った。
そんなものがあるなら、誰も苦労しない。
それでも。
その話を、忘れられなかった。
何度も同じ場所を歩いた。
夜の路地。
雨の日。
時間を変えて。
何もなかった。
ただの暗い道だけ。
諦めかけた頃だった。
その日は、なぜか足が止まった。
理由は分からない。
ただ、そこに“ある”気がした。
奥を見る。
灯りがあった。
赤い提灯。
胸が強く鳴る。
怖かった。
でも、引き返せなかった。
暖簾をくぐる。
店内は静かだった。
奥に、男が一人。
そして。
カウンターの端に、黒い服の女が座っている。
その人は、こちらを見ない。
ただ、丼の中を見ている。
「いらっしゃいませ」
男が言う。
声は穏やかだった。
私は、席に座る。
手が少し震えている。
「……ここで」
言葉が詰まる。
それでも、続ける。
「ここで、会えますか」
男は、すぐには答えなかった。
少しだけ間を置く。
「会いたいと願う方は、多いです」
否定しない。
肯定もしない。
それでも、その言葉で十分だった。
鍋に火が入る。
静かな音。
店の中の空気が、少しだけ変わる。
隣を見る。
黒い服の女が、わずかにこちらを見ていた。
目が合う。
その目には、何もない。
なのに、なぜか目を逸らせなかった。
「……呼びすぎると、戻れなくなりますよ」
小さな声だった。
意味が分からない。
けれど、胸の奥がざわつく。
ラーメンが置かれる。
醤油ラーメン。
どこにでもありそうな、普通の見た目。
湯気が立っている。
少しだけ、安心する。
一口、飲む。
懐かしい味だった。
家で食べたことがあるような。
誰かと食べたような。
記憶が、少しずつ浮かぶ。
もう一口。
声が、聞こえた気がした。
「ねえ」
顔を上げる。
誰もいない。
でも。
確かに、聞こえた気がした。
もう一口。
今度は、はっきりと。
「それ、味濃くない?」
息が止まる。
その言い方。
その声。
忘れるはずがない。
視線を動かす。
カウンターの端。
背中が見えた気がした。
見慣れた背中。
でも、振り向かない。
「……ねえ」
声が出る。
震えている。
返事はない。
ただ、そこに“いる感じ”だけがある。
手を伸ばす。
届かない距離。
近いのに、遠い。
触れられない。
ラーメンの湯気が揺れる。
その向こうに、影が揺れた気がした。
次の瞬間。
何もなくなる。
ただの店内。
静かな空間。
自分の呼吸の音だけ。
気づけば、涙が出ていた。
ラーメンを食べる。
味は、ちゃんとある。
でも、さっきとは少し違う。
現実の味に戻っている。
全部食べ終える。
胸の奥が、軽いようで、重い。
立ち上がる。
店を出る。
夜の空気が、冷たい。
振り返る。
店は、ない。
ただの路地。
そこに、誰もいない。
それでも。
さっきまで、確かにいた。
そう思えた。
ポケットの中で、手を握る。
何も掴んでいない。
それでも。
少しだけ、温かかった。
もう一度、あの店を探すかどうか。
答えは、まだ出せない。
でも。
あの声は、確かにここに残っている。
それだけで、少しだけ前を向ける気がした。




